夜半、雨が降り出した。皆と別れ、一人で飲んでいたオーウェルは、酒場から出てきてそのことに気づいた。
(頭、痛ぇ……)
何をそんなにいらついていたのか、彼自身分からなかった。ただ、酔った感じは、紛れもなくやけ酒のそれだった。
「あの……オーウェルさん」
一瞬、どうしようかと迷っている彼に声をかけたのは、あのサマンサだった。
「……やっとお目覚めか、お嬢様」
「はい。ご迷惑かけて、すみませんでした。あの、えと、ラムザさんとディリータさんが追いついてきたので、その、みんなでオーウェルさんを探していたんです」
オドオドしている。それは、オーウェルのような先入観を持っていなくても、客観的に分かることだ。そういうところが、オーウェルの癇に障る。
「か、傘一本しかないですから、一緒に行きましょ?」
オーウェルは、その言葉を敢えて無視した。サマンサには、最初に声をかけてきた時にだけ一瞥をくれただけで、何も言わずに宿の方に向かって歩き出した。鍛え上げられた身体は大きく、歩く歩幅も広い。大股でどんどん歩くオーウェルの後ろを、「ぽてぽて」といった間の抜けた擬音さえ似つかわしい、心許ない足取りのサマンサが追っていった。
オーウェルが宿に戻ると、ディリータを除く全員がその場に集まっていた。
「あ、オーウェル! アンタ、何してたのよ! みんな探してたんだから」
エリーのこんな台詞はもう定番過ぎて、オーウェルは謝る気にも反論する気にもなれなかった。
「そう言えばアンタ、サマンサが探しに来なかった? 一緒じゃなかったの?」
「……ああ、あの女なら、すぐ後ろ付いて来てるよ。もう来るだろ」
明らかに怒りのボルテージが上がったエリーを諫めるブランドルたちを横目に、オーウェルは一番奥の席に腰を下ろした。
「みんな、サマンサが戻ってきたら大事な話があるんだ」
あえてディリータに席を外させたのか、それとも、ディリータ自身が皆と会うのが気まずかったのかは分からないが、少なくとも、これからラムザがしようとしている話にとっては、ディリータの不在は都合が良かった。
ほどなくサマンサは到着し、ディリータを除くラムザ一行が一堂に会した。
「僕は、ティータを助けに行く。これは、北天騎士団から離れた、独断専行だ」
分かり切っていたことだが、本人の口から確認されてしまうと、一行に緊張が走る。正規の騎士でも許されない独断専行。士官候補生という、見習いにも劣るような身分の彼らに、許されるものではない。事実彼らは、ラムザの兄ダイスダーグに無断で貿易都市ドーターに向かい、一度譴責をもらっている。二度目は、ない。少なくとも、ラムザ以外の者には。
「僕たち貴族が、ミルウーダの言うような人間ばかりだとは思わない。でも、僕は目の前でアルガスのあの言動を見てしまった。何が正しいのか、分からなくなってきているんだ。でも、実の妹のように育ったティータを助け出すことは、絶対に正しい。僕は今、正しいと分かっていることをやろうと思う」
ボンボンの思考だ。オーウェルは冷めた目でラムザを見つめた。自分が正しいと思ったことをやる。立派なものだ。そしてラムザには、それを押し通してもある程度は許される家柄と地位がある。自分がそんなことしたら、どんな末路が待っていることやら。
「今度は本当に、場合によっては後戻りできなくなるかも知れない。みんなは、どうする? 僕は何も強制しない」
誰も強制される気などはなかったが、改めて、強制しない、と言われると、断るのに罪悪感を伴う。無論、ラムザにそんなつもりはないのだが、どうしてもそうなってしまう。
「僕とディリータは明日の朝、レナリア台地に出発する。その時までに、返事を頼む」
ラムザがそこまで話した時、測ったようにディリータが戻ってきたため、一同は散会した。無論、ラムザを除くメンバーは、すぐに一部屋に集まり、話を突き合わせることになる。
夕方の話し合いとは違い、今度は本当に「みんな」だったが、誰も口を開こうとはしなかった。夕方の段階では、ただ、場の流れで集まったような感じがまだあったが、今回は全くそんなことはない。ラムザの決意を直に聞いてしまったメンバーの誰しもに、思う所があり、それが言葉を発することを阻んでいた。
さすがのオーウェルも、「一人一人勝手にすればいい」とは言い出せずにいた。今にも切れそうな糸のように、ぎりぎりまで張りつめた空気を破るほどの勇気は、今の彼にはなかった。
「オ、オレ、茶でも入れてくるわ」
その空気に最初に耐えられなくなったのは、バグシー。普段から気遣いのできる男だが、今はただ、ここから逃げ出したい一心で立ち上がったのだろう。三十分ほど、無言のまま張りつめていた糸が、微かに緩んだ。
窓の外の雨は、激しさを増していた。相変わらず、斜に構えたように窓枠に腰掛けるオーウェルの横で、ガラスがバチバチと音を立てている。バグシーが淹れた紅茶の湯気で、内側がくもっていた。
「……戦争の終わりごろには、脱走が流行ったらしいな」
誰に聞かせるでもなく、オーウェルは呟いた。しかし、低いがよく通る彼の声は、雨の音を掻き分け、部屋にいる仲間たちの顔を上げさせた。
「脱走は重罪。一度脱走者になっちまえば、謝っても許してくれない。家族まで巻き込んで、悲惨な人生が待ってる」
次の瞬間、オーウェルの体は一瞬で床に叩き伏せられていた。やったのは無論、エリーだ。
「アンタねえ! こんな時に何不謹慎なこと言ってんのよ! ふざけるのもいい加減に……」
エリーはそこで口をつぐんだ。オーウェルの目が、茶化すようなそれではなく、もっと真剣で、奥の見えない影をたたえたものになっていたからだ。
「オレは事実を言ったまでだ。恐らくこの独断専行は、脱走扱いになる。ラムザ以外はな。お前らは、そうなったらまずいんだろ? 特に、そこのお嬢様なんかは」
そう言って、オーウェルがサマンサに顔を向けると、ブランドルとバグシーが目を伏せた。サマンサに遠慮しているのだ。今でこそ、アカデミーの同期生だが、家柄を考えると、到底同席できるような立場ではない。下位の学校にいたころに知り合ったエリーは、ようやくサマンサへの遠慮はなくなってきているが、それでも彼女なりに気は遣っている。名指しされた当のサマンサも、オーウェルと直に目を合わせようとはしない。
「大事なモンがあるんなら、やめとけ。オレたちはラムザとは違う。あの骸旅団の女は、『生まれた家が違うだけじゃないの』とかぬかしてやがったが、それが一番重要なんだ。アイツはベオルブ家で、オレとも、お前たちとも、あの女とも、ディリータとも、違うんだよ」
場の空気は、決した。ラムザと袂を分かち、戻らざるを得ない。迷い、張りつめていた空気は、その方向に傾こうとしている。明らかに特別扱いを受けるラムザへの羨望、そのラムザから更に特別扱いを受けるディリータへの嫉妬、平民を見下したアルガスへの反感と微かな共感、ミルウーダの発した言葉への動揺とほんの少しの軽侮。色々な感情が入り交じるが、それでも、自分の「これまで」を賭けることはできない。自分たちは「貴族」で、ミルウーダやディリータとは違うが、ラムザとも違う。暫時の時間を共有し、共に任務に当たることで薄れていた当たり前すぎる観念を、誰もが思い出した。思い出してしまった。
重い沈黙が流れた。原因を作ったオーウェルは、散会のきっかけを作ろうと、立ち上がった。同調するように、ブランドルも自分の部屋に戻ろうとする。
「……私は、戻りません」
あまりにも意外な人物が沈黙を切り裂いたため、誰もが、足を止めて立ちつくしてしまった。オーウェルでさえ、ドアノブに手をかけたままで。
「私は、何も知らなかった。平民の人たちの生活も、貴族がそれをどう見てきたのかも」
サマンサのオーウェルとは正反対の、高く、か細い声だったが、一本芯が通っていて、不思議とよく通る。彼女の中に芽生えた決意が、そうさせているのだろうか。
「それが当然だと、それでいいんだと思っていた自分が恥ずかしい。だから、私は戻りません。自分の目で、まだ知らない真実を確かめに行きます」
先程とは質の違う沈黙が、また流れ始めた。サマンサの決意にあてられたのか、オーウェルでさえも、呆気にとられたように立ちつくしている。場の空気が変わり始めた。
「サマンサが行くなら、私は行くわ」
エリーの言葉に、迷いはなかった。誰が見ても、気の強いエリーが世間知らずのサマンサを引っ張っているという構図がこの二人には成り立っているように見えるが、真実は少し違うのかも知れない、とオーウェルは思った。同時に、そんな身近な真実さえも見えない自分にも気付いた。
「アンタら、どうすんのよ? 女の子だけで行かせる気?」
その言葉に過敏に反応したのは、バグシーだった。持っていた紅茶のカップを置き、部屋の出入り口に立ちつくすオーウェルとブランドルに向き直る。
「オレは行く。悪いな、ブランドル、オーウェル」
何を決めるにも「二番手」になることの多かったバグシーの目に、少しだけ決意が宿っていた。そして、
「……ボ、ボクも行きます。ごめん、オーウェル。やっぱりボクも、自分の目で見なければいけないものがあると思うんだ」
残るはただ一人。その一人の決断が、一行にとって重大な意味を持つことは、場にいる誰もが分かっていた。誰もオーウェルを蔑視するようなことはしないが、彼は言うまでもなく最下級の貴族。事が大きくなった時、真っ先に「切られる」のは、他でもない。ラムザがどれだけ嘆願しようとも、事態収拾のためには、必ず誰かが処罰されなければならない。
「キレイ事じゃねえぞ、脱走は」
それは、オーウェルが初めて、仲間に対して見せた心根だったのかも知れない。これまでのどの言葉よりも穏やかに、かつ冷酷な口調で、彼の口から発せられた言葉に、誰もがただならぬ気配を察した。
「かつての仲間に追いまくられて、見せしめのような公開処刑だ。残った家族は後ろ指差されて、死ぬしかない。それを分かって言ってるんだろうな?」
若い士官候補生の間に、恐怖が生まれる。意を決したお嬢様の発言とは違う、闇のように暗くて深い説得力が、オーウェルの言葉にはある。
「とにかく、オレは今日は寝る。お前らも、もう一度考えた方が良い」
それ以上、誰も言葉を発しようとはしなかった。一層激しくなる雨の音だけが、世界を包み込んでいた。
最終更新:2009年06月26日 23:27