「ねえ、オーウェル、私、白魔道士になりたいんだ」
少し富裕な平民の住居に遙かに劣る、粗末な民家が立ち並ぶ一角。オーウェルにとってはそれが世界の全てで、そこから這い上がる術もその気力もない。
「ハッ、バーカ。俺らみたいなのがそんなのになれるかっての。アカデミーにも入れねえんだぞ」
同じような境遇の少女が、いつも彼の側にはいた。名前は分からない。思い出そうとしても、どうしても思い出せないのだ。彼らはなけなしのパンや本を交換し、ほんの少しだけ夢を語り合う隣同士だった。
「俺らになれんのは、元手のいらない兵卒だけだ。仕事で言えば、モンクとか、せいぜいナイトまでだな」
魔道士になるには、それなりの勉強がいる。それなりの勉強は、アカデミーに入らなければ不可能だ。
「ふっふっふ。オーウェル、アンタ何も知らないのね。アカデミーには奨学金制度があるのよ。成績が優秀だったら、私たちみたいな貧乏人でも勉強できるんだから。こんな制度を作ったバルバネス様って、本当に偉大な人だわ」
そんなことは、オーウェルも知っている。しかし、その「奨学金」がくせ者なのだ。無論、制度を作ったベオルブ家にそんなつもりは毛頭ないが、現実には、奨学金などでアカデミーに通える生徒はいない。他の貴族に馬鹿にされ、挙げ句は教師にまで蔑まれる。そんな張り子の虎のような制度に望みを託す少女が、馬鹿馬鹿しくもあり、愛しくもあった。
「そんなんにならなくても、お前はオレが一生守ってやる。オレのお嫁さんになるんだろ?」
オーウェルもかつては、これほど素直に、自分の感情を表現できる男だった。
「それとこれとは別なの。私は白魔道士になって、アンタと一緒に北天騎士団に入るの。夫婦で騎士団員ってのも、悪くないんじゃない?」
「戦争が終わった騎士団なんか、意味ねえよ。どうせ、こっちは負けるんだ」
同時に彼は、この頃から既に徹底したリアリストで、五十年戦争の行く末を完全に見極めていた。実直な歩兵であった父が、盲目的に戦争にのめり込んでいくほど、彼は冷めた目でそれを見つめることが出来た。
「むー、何よ。オーウェルのバカ。そんなこと言うんだったら、今度手に入った本、貸してあげない」
「あ、待てよ。今のはナシだ。それ、ずっと読みたかったんだよ、頼む」
二人の間には確かな信頼関係があり、それが壊れることなどは微塵も疑う余地がなかった。「お嫁さん」などという言葉が出るほどにプラトニックな関係ではあったが、二人の間には愛と呼べるものさえも、確かにあった。
オーウェルと少女の家は、家族ぐるみの付き合いをしていた。父親同士が幼なじみで、母親も仲が良かった。同様に「貧乏人の子だくさん」で、オーウェルと少女以外の子も、同年代同士で、いつも遊ぶような仲だった。
暗転は、突然訪れる。ある日、母が言葉を絞り出すように「もう、あの子とは会うな」とオーウェルに告げた。
「ど、どういうことだよ? それ」
母はそれ以上何も言えず、父に話を振った。父は、騎士団で支給される煙草を大事そうにふかしながら、オーウェルだけを自分の部屋に呼んだ。
「アイツが、脱走兵になった。アイツというのが誰か、分かるな?」
脱走兵。その言葉は、何度も何度もオーウェルの頭をかけめぐった。そんなはずはない。少女の父は、自分の父と同様、馬鹿なほど愚直な兵卒をしていたはずだ。この不毛な戦争の勝利を信じ、前線で命を張っていたはずなのだ。
「昨日、討伐隊が選抜された。もちろん、上の方々はそんなことはしない。父さんな、初めて一つの隊を任されることになったんだよ。ただ、選ばれた三人の中で一番年上だからってだけだけどな」
父親の複雑な気持ちを、まだまだ幼いオーウェルは読み取ることが出来なかった。かつての親友を殺すというのに、口調だけは妙な誇りに満ちている父親が、憎くてたまらなくなった。
「それは……」
「なあ、オーウェル。脱走なんてのはな、自分のためだけにやるんじゃないんだ。必ずそこに、家族が絡んでくる。オレは明日、アイツの家族から事情を聞かなくちゃいけない。アイツが何処に隠れてるのか、なんてこともな。もう一度聞くぞ。分かるな? オーウェル」
父からその話を聞かされた翌朝、彼はベッドから起きあがろうとはしなかった。安普請の壁は想像以上に薄く、隣の家の物音がひどくよく聞こえる。三人の男の声と、泣き崩れる女の声。そして、強制的に家から連れ出される音。布団を頭からかぶり、耳を塞いでも、オーウェルを追い立てた。
「助けてよ、オーウェル。守ってくれるんでしょ?」
そんな声も、聞こえたような気がした。
最終更新:2009年07月05日 02:27