まだ薄暗い部屋で、サマンサの目がわずかに開いた。眠ってしまってもなお、二人の手が握りしめられたままだったのは、オーウェルが両手で包み続けたおかげだったのだが、そっちに神経を使いすぎたのか、彼はサマンサが動いたことにも全く気付かず、椅子の上にうつむいたまま、寝息を立てている。
サマンサは、自分が何も覚えていないことに気付いたが、そんなことはどうでも良かった。もしかしたら今自分が見ている光景は、夢かも知れないが、この時間は彼女にとっては何より貴重で、絶対にそれを手放したくない気持ちが、彼女の手を少し強く握らせた。横臥の姿勢になり、空いていた方の手までも、オーウェルの両手の上から重ねた。無論、大きすぎるほどのオーウェルの手に対して、サマンサの片手はあまりに小さく、ただちょこんと乗せているだけの形になってしまう。
「う……」
オーウェルが低くうめき、わずかに姿勢を変える。しかしサマンサはそれにも気付かず、夢うつつの中で、オーウェルの手のぬくもりを感じながら、ようやく訪れた時間をかみしめていた。何も覚えていなくても、たとえこれが夢であったとしても、今はこの時間をかみしめられることが、彼女にとっては何物にも代え難い幸せだった。
先に目を覚ましたのは、オーウェルだった。既に日は高々と昇っており、日頃滅多に朝寝坊をすることのない彼にとっては、珍しいことである。
彼は無論、昨夜の記憶も曖昧ではなく、自分でサマンサの手を握りしめたことは覚えていたが、正気でそんなことをしたという事実が、余計に彼を恥ずかしくさせ、慌ててサマンサに声をかけた。
「おい、コラ、起きろ、お嬢様」
先ほどまでは、サマンサの手を優しくにぎりしめていた武骨な指が、彼女のほおをぺちぺちと叩く。サマンサは二、三回寝返りを打った後、うっすらと目を開けた。
「あ……オーウェル……さん!?」
サマンサは弾かれたように飛び起き、ベッドの上に座った。状況は全く把握できていないらしく、赤面したまま俯いて、意味もなくローブの形を直したり、髪を整えたりする。
「お前……マジで何も覚えてないのか?」
俯いた姿勢のまま、何度も何度も縦に首を振る。その姿に全く演技性を感じられず、オーウェルは呆れるのを通り越して、完全に気が抜けてしまった。
「あの、オーウェルさん……。えっと、私、オーウェルさんと一緒に、昨日の夜からこの部屋にいたんですよね? それで、あの、何かしましたか? 私たち……」
気が抜けている所に的外れな質問をぶつけられたが、オーウェルにはもう、怒る気力さえなかった。むしろ何か面白くなって、少しからかってやりたくさえなる。
「ああ、オレがお前を抱いたんだよ。お前が、抱け抱けってあんまりにうるさいからよ」
サマンサの顔がさらに紅潮し、まるで熱でも出したかのようになった。
「んな訳ねえだろ、バカ。お前が酔い潰れて、部屋に戻れなかっただけだ。だから、オレは椅子で寝てただろうが。……とにかくお前先に出て、エリーの所行ってごまかして来い。オレは後から出て、バグシーたちごまかすからよ」
サマンサがオーウェルの言う通りにしたのは、ただ恥ずかしかったからだけではなかった。サマンサは、一つだけ勘違いをしていた。彼女は自分が、おそらくはオーウェルに抱かれたのだろうと思っている。着衣にこれといった乱れもなく、唇にはキスをされた感触もないのだが、そう言ったことは一切関係なく、ただ漠然と、オーウェルは自分を抱いたのだ、と思っておくことにした。だからこそ、オーウェルの気遣いが、彼女には痛いほどうれしかった。
オーウェルが部屋に戻ると、ブランドルだけが既に起き出し、身支度を調え始めていた。オーウェルが扉を開けたことに気付いたブランドルが声をかけようとしたが、オーウェルは唇に手を当ててそれを遮った。
「……すまん。飲みに行って、そのまま外で寝ちまった」
ブランドルは無言のまま、オーウェルの頭から足の先まで見回し、からかうような微笑を浮かべた。
「そう。じゃあ、そういうことにしておいてあげるよ」
以前のブランドルは、こんなことをいう男ではなかった。男版のサマンサと言っても良いくらい、いつもびくびくしていて、軽口など叩くことのない、典型的ないじめられっこタイプだった。自らの目で真実を見極めることを決意してから、変わりつつあるのは、どうやらサマンサばかりではなさそうだ。
「おい、そりゃどういう意味だ? え? 泣き虫ブランドルよ」
「ん? だって、スラムで寝て、そんなきれいな格好で帰って来られるわけないよ。オーウェルにしては、下手な嘘だったね」
我ながらバカな嘘をついた、と、オーウェルは自分の行動を後悔した。悪気のある嘘もそうでない嘘も、彼は得意なはずだった。あの日から彼は、絶対にバレない嘘をつけるようになった。他人も、そして自分でさえも、自分の口から出た言葉一つだけで謀れるようになった。久しぶりに失敗した嘘に苦笑した。
「でも、バグシーには言わないでおくよ。もちろん、ラムザにもエリーにもだけど」
誰にも言わない、ではなく、バグシーを一番に持ってきたことに少しひっかかったが、オーウェルはそれ以上追及しなかった。
オーウェルは、いかにも今起き出したような顔をして、洗面所に顔を洗いに向かった。無論、スラムの安宿に水道など完備している訳はなく、備え付けの桶に、お世辞にもきれいとは言えない井戸の水を汲んでの洗面である。
桶に水を汲んで戻り、手にすくいあげたオーウェルの肩を、屈強な掌がつかんだ。
「おはようございまーす、オーウェルさん?」
人を喰ったような口調は振り向かなくても、誰のものかすぐに分かる。
「何のマネだ? エリー」
「それはこっちのセリフ。アンタ、サマンサ一晩中連れ回して、何したの?」
「……ちっ、あのバカ。ごまかせっつったのに……」
気にせず洗面を続けようとするオーウェルのもう一方の肩も、やはり屈強な掌がつかみ、ゆっくりとエリーの方に彼の身体を向けさせた。
「責任は、とるんでしょうね?」
「いや、責任とるようなことはしてねーっての。アイツ、お前に何言ったんだ?」
「あの子は、アンタみたいな嘘つきじゃないから、ありのままに言ったわよ。昨日、アンタと飲みに行った。自分は途中からベロベロに酔って、何も覚えていない。気が付くと、朝、アンタと一緒の部屋にいた。アンタは『何もしていない』と言った」
何も間違ってはいない。しかし、エリーの目は真剣そのものだ。
「だいたい、何で飲みに行くのに、あの子を連れて行ったの?」
「つまらん賭けをしたんだよ。内容はめんどいから端折るけど、とにかくオレはそれに負けて、アイツの言うことを一つ聞かなきゃいけないようになった。んで、アイツが言ったんだよ。『飲みに行くなら自分も連れて行け』ってな」
「……アンタ、意味分かって連れて行ったんでしょ? 責任ってのはそのこと」
オーウェルはエリーの手をふりほどいた。そういう話は自分には無用のものだし、進んで関わる気もなかった。
「分かんねえよ。約束は守る。それは、あのお嬢様でも、お前でも、バグシーたちでも例外じゃねえよ。それだけだ」
エリーは諦めたように、手に込めていた力を緩めると、返す手ですぐさまオーウェルの胸ぐらをつかんだ。
「弱虫。仲間の中で、アンタが一番弱いわ。案外アンタが、真っ先に死ぬんじゃない?」
「んだと?」
「私は忠告したわよ。これで、レナリア台地で助けてもらった分はチャラね」
エリーはもうそれ以上、オーウェルに対しては何も言わず、オーウェルが汲んできた水を使い、さっさと顔を洗って戻っていった。残されたオーウェルは、首にかけたタオルの端を握りしめたまま、しばらくその場に立ちつくしていた。
最終更新:2009年07月23日 22:46