それがどうした、とオーウェルは心中思っていた。そんなもので同情をひくつもりか、と。
ラムザ・ベオルブ率いる士官候補生の一行は、北天騎士団の命を受けて出陣し、義賊・骸旅団の幹部、ミルウーダ・フォルズを拘束した。その戦いで、彼女はこう言った。
「ひもじい思いをしたことがあるの? 数ヶ月間も豆だけのスープで暮らしたことがあるの?」
ラムザは、当然衝撃を受けた。同じ平民のディリータ・ハイラルでさえも、ショックだっただろう。士官候補生の中には、ラムザと同じように何不自由ない暮らしをしてきた者もいる。その者たちもまた、言葉を失った。
しかし、オーウェルは違った。彼は、もしアルガスが大声で叫んでいなければ、きっとこう言えただろう。
「それがどうした」
実際それは、彼の本心だった。
オーウェルは、没落した下級貴族の家に生まれた。貴族とは言っても彼の家の暮らしは、商人は愚か、農民にさえも劣るような水準だった。父は北天騎士団の騎士ではあったが、平民で作られた最下級の歩兵隊をまとめる歩兵隊長。なくなってもすぐに取り替えのきく、駒のような中間管理職だった。
当然、オーウェルの父に満足な給金は出ない。パンが食卓にあることさえ滅多にはなく、豆でさえも、食べられれば幸せだった。
物乞いでもすれば、もっと食べられるのかもしれない。ある夜の食卓で、彼はそう呟いた。父親の持っている皿が、彼の額に命中し、粉々に砕けた。血が床に滴った。
「お前に貴族としての誇りはないのか!」
父は、酔って暴れることは時折あったが、素面でここまで激高した姿を見たのは、この時が初めてだった。
貴族からは、同じ貴族として恥ずかしい、と疎まれ、平民からは、貧乏貴族、と陰口をたたかれる。そんな日々が、オーウェルの日常だった。
貴族である。その理由だけで、彼には物乞いも、農作業も、学費の安い平民学校への入学も許されなかった。貴族の通う幼年学校には、金がなくて入学できない。オーウェルは一人の妹と二人の弟とともに、家にこもり、父親が読み古したボロボロの本を読んで過ごした。
父親の稼ぎだけでは到底食べてはいけないので、母親も「仕事」をしていた。無論、まっとうな「仕事」ではない。やや富裕な平民を相手にした、売春である。
金を払うだけで、貴族の女が自分の思い通りになる。たとえそれが下級貴族であっても、平民は絶対服従を強いられていただけに、随分と需要があったらしい。母は、父が宿直などで帰らない日の夕方、二枚しか持っていないドレスのどちらか一方に身を包み、なけなしの白粉を使い、めかしこんで家を出る。翌朝、目の下を真っ赤にしながら、食べ物や着る物を抱えて帰ってきた。
十五歳になったオーウェルは、アカデミーに入学することになる。入学金は、五十年戦争で戦死した父の、兵役保険だった。
オーウェル十四歳の夏、父は五十年戦争最後の戦いで命を落とした。皮肉にもその日は、五十年戦争随一の英雄バルバネス・ベオルブが、その生涯を終えた日でもあった。
天騎士バルバネスの訃報は、燃え広がるようにイヴァリースを駆けめぐった。人々は皆涙し、彼の偉業をたたえた。
オーウェルの父の遺骨は、その翌日、ひっそりと届けられた。届けた兵士たちの目は一様に赤かったが、それが、自分の父が死んだせいでないことを、オーウェルは知っていた。
遺骨には、五十万ギルの兵役保険と五万ギルの見舞金、そして、父が殉職によって特進し、「騎兵」に任命されたことを知らせる一枚の紙が添えられていた。一度もまともなチョコボに乗せてもらえなかったのに、騎兵か。オーウェルは心の中で毒づいた。生きて戻った兵には報酬も職もなく、死ねば五十万ギル。皮肉な構造だが、それが騎士団であり、戦争だった。
入学金二十万ギルと初年度授業料三十万ギルを、父が残してくれた金で払い、彼はアカデミーに入学した。そこには、あの天騎士バルバネスの三男ラムザと、平民ながらベオルブ家の推薦で入学したディリータがいた。
アルガスのように、ひたすらラムザに嫉妬し、平民をさげすむことができれば、オーウェルももう少し楽になれたのかもしれない。そうするには、彼の見た世界はあまりに絶望的で、彼はそれに馴れすぎていた。そしてまた彼には、アルガス以上の野心があり、上に行くためには、ラムザと行動を共にすることが最良であることを知っていた。
捕縛したミルウーダは、ほどなく解放された。アルガスが強く進言したように、「殺す」という案もあり得たはずだが、ラムザはそれを選択しなかった。
オーウェルは内心、甘いな、と感じていた。アルガスほど熱くなる気にはなれないが、仮にも一隊を率いる者の選択としては、甘いと思わざるを得ない。ましてやそれが、ラムザ自らの選択であったのならばまだしも、部隊員であるディリータの意見を、ほぼそのまま飲むような形でなされた選択だったから、なおさらだった。
帰途は、重苦しい雰囲気に包まれた。何も言わず、先頭を歩くアルガス。思い詰めたような表情で最後尾に位置するディリータと、その一列前でひどく優柔不断な様子のラムザ。その三人を除く一行は、彼らにちょうど挟まれた位置に、ひとかたまりになっていた。
三人を除いては、オーウェルを含めて五人のメンバーがいる。サブリーダー格で、一行のムードメーカーも兼ねる、女モンクのエリー。気弱で、平常時でも戦闘時でも控えめな、黒魔道士のブランドル。堅実なアカデミー生といったイメージで、これといって特徴がないのが特徴の、男弓使いバグシー。いずれも、中流貴族の出身である。そして……
「……ちょっとオーウェル、アンタもモンクでしょ。しかも男なんだから、優しくおぶってあげなさいよ」
エリーはそう言って、オーウェルの肩をつついた。今彼女がおぶっているのが、白魔道士のサマンサ。上流貴族の出身で、いかにも「癒し系」といった雰囲気のお嬢様だ。
サマンサは、ミルウーダたち骸旅団との戦いで、気を失っていた。別に肉体的なダメージをくらったわけではなく、精神的なショックからだ。生まれて初めて生で接した、平民の厳しい現実は、彼女にとって刺激が強すぎるものだった。
「ごめんだ。そんなお荷物」
「バカ。私だって疲れてんのよ。それともどうする? ここに置いていく?」
オーウェルは、ブランドルとバグシーに一瞥を送った。しかし、ロッドを杖代わりにするほど疲れているブランドルは問題外で、バグシーも弓矢を背負っていて、手に負えそうにない。
「はい、よろしく」
半ば強引に、背中にサマンサを乗せられた。純白のローブ越しに感じる肌の柔らかさは、紛れもなく上流階級のそれだった。
オーウェルは最初から、サマンサが嫌いだった。サマンサの家は、ベオルブ家ほどではないものの、分類すれば同じ部類に属するほどの上流家系で、彼女はそこで蝶よ花よと育てられた、いわば深窓の令嬢だった。同じ貴族でも、オーウェルとは全くの正反対。アカデミーに入学したのも、白魔道士としての能力や知識を身に付け、上流貴族の娘として恥ずかしくない人間にさせんとする、家の意向である。いつも一人で本を読んでいることが多く、いかにも世間知らずといった、ポーッとした雰囲気を放っていた。アカデミーの同期の中には、その雰囲気がたまらないというファンも多かったが、彼はそうではなかった。
サマンサはアカデミー男子生徒から、それなりに憧れの目で見られてはいたが、実際に声をかける生徒はほとんどいなかった。
純然たる身分差別が当然と思われていたこの世界では、貴族間にもまた、序列が存在した。ラムザなどは比較的気さくで、自分から話しかけたりもしていたが、そうではない上流貴族の方が圧倒的に多く、彼らは彼らだけのコミュニティを作り、自分たちよりも下級に位置する貴族との交流は望まなかった。逆もまた然りで、下から上への働きかけも、基本的に行われることはなかった。
しかしサマンサは、そのどちらにも進んで与しようとはしなかった。エリーとは、幼年学校に通っている時に友人になっていたので、エリーと一緒にいることは比較的多かったが、清楚な令嬢というイメージが先行し、中流貴族以下の生徒からは羨望の眼差しを浴びる以上のことはなかった。一方上流貴族内には、下心を丸出しにして近づいてくる男と、男の人気を集める彼女を妬む女とが多くいた。サマンサはその両方に、何の関心も示さなかった。故に、彼女は基本的に孤独だったのだ。その点で、サマンサとオーウェルには通ずる部分があったはずなのだが、同族嫌悪というのか、オーウェルは全く、サマンサには良い意味での関心を示そうとはしなかった。金持ちのいけ好かない、世間知らずのお嬢様という存在としてのみ、彼の中にサマンサは存在していたのだ。
ラムザ一行は、イグーロスに戻った。帰路は重苦しい雰囲気に包まれ、誰一人として言葉を発する者はいなかった。はっきりと浮き彫りになってしまった、平民と貴族の差、アルガスの思い、ディリータの立場……。それら全てが、一行の上には重くのしかかっていた。オーウェルは、それを少し上から見下ろすようなスタンスにあったが、皆と同じように、何も話さなかった。
戻ったイグーロスには、目も当てられない惨状が待っていた。ベオルブ家当主ダイスダーグが骸旅団に襲われ、重傷。同じく、末の娘アルマが軽傷。そして、
「ティータ……が?」
ディリータは呆けたように立ちつくした。妹ティータがベオルブ家の令嬢と間違われて、さらわれたというのだから、それも仕方のないことだ。
ティータを救おうとするディリータと、それに同行するラムザ。一方アルガスは、ラムザと袂を分かち、単独で北天騎士団と行動を共にすることを決めた。
「ど、どうしよう……」
ラムザとディリータを二人にしてやろうと、先がけてガリランドに到着した一行は、今後の身の振り方を相談した。今ならまだ間に合う。ラムザとディリータの行動は、北天騎士団の命令違反とまでは言わなくとも、明らかな独断専行である。ついて行けば、共に処罰の対象となることは免れない。騎士団に頭を下げ、戻るなら今しかない。
「ねえ、オーウェル! アンタも真面目に考えなさいよ! みんな悩んでるのよ!」
気弱なブランドルの言葉に続き、エリーが口を開く。オーウェルは一人窓枠に腰を下ろし、夕空を見ていた。
「……オ、オレは、戻った方がいいと思うんだ」
黙っているオーウェルに代わり、バグシーが話をつなぐ。彼らはいずれも、中流貴族の出だ。国の英雄を排出するほどの名家ではないが、生活に不自由したことはない。
「戻りたい奴は戻れば良いし、行きたい奴は行けば良い。別にオレたちは、ラムザに雇われてるんじゃない。アカデミーの生徒なんだ」
オーウェルは、一同の方を見ずにそう言った。格好をつけてみたわけではなく、それが彼の生き方だった。当然のことを言われて、一同は口をつぐんでしまった。オーウェルは回りくどいことが嫌いで、すぐにこのように核心を突くのだが、そのせいか、人間関係を築くのは苦手だ。
「そ、そういう問題じゃ……」
「だいたい」
エリーの反論を、オーウェルは一瞬で遮った。
「『みんな』っていうんなら、一人足りねえだろ? ちゃんと全員集めたらどうなんだよ」
確かに、今ここに集まっているのは、オーウェル、エリー、ブランドル、バグシーの四人。
「……サマンサはまだ無理よ」
「まだショック受けてんのか、あのお嬢様は」
「しょうがないでしょ。あのコ、平民があんな生活してたなんて、多分初めて知ったのよ」
だからどうした、と言いかけて、オーウェルはやめた。エリーとこれ以上言い争っても、不毛なことになるだけということは、分かっている。
「とにかく、オレは思うようにやらせてもらう。相談はお前らで勝手にしろよ。お嬢様も交えてな」
オーウェルは、そのまま宿を飛び出した。
夜半、雨が降り出した。皆と別れ、一人で飲んでいたオーウェルは、酒場から出てきてそのことに気づいた。
(頭、痛ぇ……)
何をそんなにいらついていたのか、彼自身分からなかった。ただ、酔った感じは、紛れもなくやけ酒のそれだった。
「あの……オーウェルさん」
一瞬、どうしようかと迷っている彼に声をかけたのは、あのサマンサだった。
「……やっとお目覚めか、お嬢様」
「はい。ご迷惑かけて、すみませんでした。あの、えと、ラムザさんとディリータさんが追いついてきたので、その、みんなでオーウェルさんを探していたんです」
オドオドしている。それは、オーウェルのような先入観を持っていなくても、客観的に分かることだ。そういうところが、オーウェルの癇に障る。
「か、傘一本しかないですから、一緒に行きましょ?」
オーウェルは、その言葉を敢えて無視した。サマンサには、最初に声をかけてきた時にだけ一瞥をくれただけで、何も言わずに宿の方に向かって歩き出した。鍛え上げられた身体は大きく、歩く歩幅も広い。大股でどんどん歩くオーウェルの後ろを、「ぽてぽて」といった間の抜けた擬音さえ似つかわしい、心許ない足取りのサマンサが追っていった。
オーウェルが宿に戻ると、ディリータを除く全員がその場に集まっていた。
「あ、オーウェル! アンタ、何してたのよ! みんな探してたんだから」
エリーのこんな台詞はもう定番過ぎて、オーウェルは謝る気にも反論する気にもなれなかった。
「そう言えばアンタ、サマンサが探しに来なかった? 一緒じゃなかったの?」
「……ああ、あの女なら、すぐ後ろ付いて来てるよ。もう来るだろ」
明らかに怒りのボルテージが上がったエリーを諫めるブランドルたちを横目に、オーウェルは一番奥の席に腰を下ろした。
「みんな、サマンサが戻ってきたら大事な話があるんだ」
あえてディリータに席を外させたのか、それとも、ディリータ自身が皆と会うのが気まずかったのかは分からないが、少なくとも、これからラムザがしようとしている話にとっては、ディリータの不在は都合が良かった。
ほどなくサマンサは到着し、ディリータを除くラムザ一行が一堂に会した。
「僕は、ティータを助けに行く。これは、北天騎士団から離れた、独断専行だ」
分かり切っていたことだが、本人の口から確認されてしまうと、一行に緊張が走る。正規の騎士でも許されない独断専行。士官候補生という、見習いにも劣るような身分の彼らに、許されるものではない。事実彼らは、ラムザの兄ダイスダーグに無断で貿易都市ドーターに向かい、一度譴責をもらっている。二度目は、ない。少なくとも、ラムザ以外の者には。
「僕たち貴族が、ミルウーダの言うような人間ばかりだとは思わない。でも、僕は目の前でアルガスのあの言動を見てしまった。何が正しいのか、分からなくなってきているんだ。でも、実の妹のように育ったティータを助け出すことは、絶対に正しい。僕は今、正しいと分かっていることをやろうと思う」
ボンボンの思考だ。オーウェルは冷めた目でラムザを見つめた。自分が正しいと思ったことをやる。立派なものだ。そしてラムザには、それを押し通してもある程度は許される家柄と地位がある。自分がそんなことしたら、どんな末路が待っていることやら。
「今度は本当に、場合によっては後戻りできなくなるかも知れない。みんなは、どうする? 僕は何も強制しない」
誰も強制される気などはなかったが、改めて、強制しない、と言われると、断るのに罪悪感を伴う。無論、ラムザにそんなつもりはないのだが、どうしてもそうなってしまう。
「僕とディリータは明日の朝、レナリア台地に出発する。その時までに、返事を頼む」
ラムザがそこまで話した時、測ったようにディリータが戻ってきたため、一同は散会した。無論、ラムザを除くメンバーは、すぐに一部屋に集まり、話を突き合わせることになる。
夕方の話し合いとは違い、今度は本当に「みんな」だったが、誰も口を開こうとはしなかった。夕方の段階では、ただ、場の流れで集まったような感じがまだあったが、今回は全くそんなことはない。ラムザの決意を直に聞いてしまったメンバーの誰しもに、思う所があり、それが言葉を発することを阻んでいた。
さすがのオーウェルも、「一人一人勝手にすればいい」とは言い出せずにいた。今にも切れそうな糸のように、ぎりぎりまで張りつめた空気を破るほどの勇気は、今の彼にはなかった。
「オ、オレ、茶でも入れてくるわ」
その空気に最初に耐えられなくなったのは、バグシー。普段から気遣いのできる男だが、今はただ、ここから逃げ出したい一心で立ち上がったのだろう。三十分ほど、無言のまま張りつめていた糸が、微かに緩んだ。
窓の外の雨は、激しさを増していた。相変わらず、斜に構えたように窓枠に腰掛けるオーウェルの横で、ガラスがバチバチと音を立てている。バグシーが淹れた紅茶の湯気で、内側がくもっていた。
「……戦争の終わりごろには、脱走が流行ったらしいな」
誰に聞かせるでもなく、オーウェルは呟いた。しかし、低いがよく通る彼の声は、雨の音を掻き分け、部屋にいる仲間たちの顔を上げさせた。
「脱走は重罪。一度脱走者になっちまえば、謝っても許してくれない。家族まで巻き込んで、悲惨な人生が待ってる」
次の瞬間、オーウェルの体は一瞬で床に叩き伏せられていた。やったのは無論、エリーだ。
「アンタねえ! こんな時に何不謹慎なこと言ってんのよ! ふざけるのもいい加減に……」
エリーはそこで口をつぐんだ。オーウェルの目が、茶化すようなそれではなく、もっと真剣で、奥の見えない影をたたえたものになっていたからだ。
「オレは事実を言ったまでだ。恐らくこの独断専行は、脱走扱いになる。ラムザ以外はな。お前らは、そうなったらまずいんだろ? 特に、そこのお嬢様なんかは」
そう言って、オーウェルがサマンサに顔を向けると、ブランドルとバグシーが目を伏せた。サマンサに遠慮しているのだ。今でこそ、アカデミーの同期生だが、家柄を考えると、到底同席できるような立場ではない。下位の学校にいたころに知り合ったエリーは、ようやくサマンサへの遠慮はなくなってきているが、それでも彼女なりに気は遣っている。名指しされた当のサマンサも、オーウェルと直に目を合わせようとはしない。
「大事なモンがあるんなら、やめとけ。オレたちはラムザとは違う。あの骸旅団の女は、『生まれた家が違うだけじゃないの』とかぬかしてやがったが、それが一番重要なんだ。アイツはベオルブ家で、オレとも、お前たちとも、あの女とも、ディリータとも、違うんだよ」
場の空気は、決した。ラムザと袂を分かち、戻らざるを得ない。迷い、張りつめていた空気は、その方向に傾こうとしている。明らかに特別扱いを受けるラムザへの羨望、そのラムザから更に特別扱いを受けるディリータへの嫉妬、平民を見下したアルガスへの反感と微かな共感、ミルウーダの発した言葉への動揺とほんの少しの軽侮。色々な感情が入り交じるが、それでも、自分の「これまで」を賭けることはできない。自分たちは「貴族」で、ミルウーダやディリータとは違うが、ラムザとも違う。暫時の時間を共有し、共に任務に当たることで薄れていた当たり前すぎる観念を、誰もが思い出した。思い出してしまった。
重い沈黙が流れた。原因を作ったオーウェルは、散会のきっかけを作ろうと、立ち上がった。同調するように、ブランドルも自分の部屋に戻ろうとする。
「……私は、戻りません」
あまりにも意外な人物が沈黙を切り裂いたため、誰もが、足を止めて立ちつくしてしまった。オーウェルでさえ、ドアノブに手をかけたままで。
「私は、何も知らなかった。平民の人たちの生活も、貴族がそれをどう見てきたのかも」
サマンサのオーウェルとは正反対の、高く、か細い声だったが、一本芯が通っていて、不思議とよく通る。彼女の中に芽生えた決意が、そうさせているのだろうか。
「それが当然だと、それでいいんだと思っていた自分が恥ずかしい。だから、私は戻りません。自分の目で、まだ知らない真実を確かめに行きます」
先程とは質の違う沈黙が、また流れ始めた。サマンサの決意にあてられたのか、オーウェルでさえも、呆気にとられたように立ちつくしている。場の空気が変わり始めた。
「サマンサが行くなら、私は行くわ」
エリーの言葉に、迷いはなかった。誰が見ても、気の強いエリーが世間知らずのサマンサを引っ張っているという構図がこの二人には成り立っているように見えるが、真実は少し違うのかも知れない、とオーウェルは思った。同時に、そんな身近な真実さえも見えない自分にも気付いた。
「アンタら、どうすんのよ? 女の子だけで行かせる気?」
その言葉に過敏に反応したのは、バグシーだった。持っていた紅茶のカップを置き、部屋の出入り口に立ちつくすオーウェルとブランドルに向き直る。
「オレは行く。悪いな、ブランドル、オーウェル」
何を決めるにも「二番手」になることの多かったバグシーの目に、少しだけ決意が宿っていた。そして、
「……ボ、ボクも行きます。ごめん、オーウェル。やっぱりボクも、自分の目で見なければいけないものがあると思うんだ」
残るはただ一人。その一人の決断が、一行にとって重大な意味を持つことは、場にいる誰もが分かっていた。誰もオーウェルを蔑視するようなことはしないが、彼は言うまでもなく最下級の貴族。事が大きくなった時、真っ先に「切られる」のは、他でもない。ラムザがどれだけ嘆願しようとも、事態収拾のためには、必ず誰かが処罰されなければならない。
「キレイ事じゃねえぞ、脱走は」
それは、オーウェルが初めて、仲間に対して見せた心根だったのかも知れない。これまでのどの言葉よりも穏やかに、かつ冷酷な口調で、彼の口から発せられた言葉に、誰もがただならぬ気配を察した。
「かつての仲間に追いまくられて、見せしめのような公開処刑だ。残った家族は後ろ指差されて、死ぬしかない。それを分かって言ってるんだろうな?」
若い士官候補生の間に、恐怖が生まれる。意を決したお嬢様の発言とは違う、闇のように暗くて深い説得力が、オーウェルの言葉にはある。
「とにかく、オレは今日は寝る。お前らも、もう一度考えた方が良い」
それ以上、誰も言葉を発しようとはしなかった。一層激しくなる雨の音だけが、世界を包み込んでいた。
「ねえ、オーウェル、私、白魔道士になりたいんだ」
少し富裕な平民の住居に遙かに劣る、粗末な民家が立ち並ぶ一角。オーウェルにとってはそれが世界の全てで、そこから這い上がる術もその気力もない。
「ハッ、バーカ。俺らみたいなのがそんなのになれるかっての。アカデミーにも入れねえんだぞ」
同じような境遇の少女が、いつも彼の側にはいた。名前は分からない。思い出そうとしても、どうしても思い出せないのだ。彼らはなけなしのパンや本を交換し、ほんの少しだけ夢を語り合う隣同士だった。
「俺らになれんのは、元手のいらない兵卒だけだ。仕事で言えば、モンクとか、せいぜいナイトまでだな」
魔道士になるには、それなりの勉強がいる。それなりの勉強は、アカデミーに入らなければ不可能だ。
「ふっふっふ。オーウェル、アンタ何も知らないのね。アカデミーには奨学金制度があるのよ。成績が優秀だったら、私たちみたいな貧乏人でも勉強できるんだから。こんな制度を作ったバルバネス様って、本当に偉大な人だわ」
そんなことは、オーウェルも知っている。しかし、その「奨学金」がくせ者なのだ。無論、制度を作ったベオルブ家にそんなつもりは毛頭ないが、現実には、奨学金などでアカデミーに通える生徒はいない。他の貴族に馬鹿にされ、挙げ句は教師にまで蔑まれる。そんな張り子の虎のような制度に望みを託す少女が、馬鹿馬鹿しくもあり、愛しくもあった。
「そんなんにならなくても、お前はオレが一生守ってやる。オレのお嫁さんになるんだろ?」
オーウェルもかつては、これほど素直に、自分の感情を表現できる男だった。
「それとこれとは別なの。私は白魔道士になって、アンタと一緒に北天騎士団に入るの。夫婦で騎士団員ってのも、悪くないんじゃない?」
「戦争が終わった騎士団なんか、意味ねえよ。どうせ、こっちは負けるんだ」
同時に彼は、この頃から既に徹底したリアリストで、五十年戦争の行く末を完全に見極めていた。実直な歩兵であった父が、盲目的に戦争にのめり込んでいくほど、彼は冷めた目でそれを見つめることが出来た。
「むー、何よ。オーウェルのバカ。そんなこと言うんだったら、今度手に入った本、貸してあげない」
「あ、待てよ。今のはナシだ。それ、ずっと読みたかったんだよ、頼む」
二人の間には確かな信頼関係があり、それが壊れることなどは微塵も疑う余地がなかった。「お嫁さん」などという言葉が出るほどにプラトニックな関係ではあったが、二人の間には愛と呼べるものさえも、確かにあった。
オーウェルと少女の家は、家族ぐるみの付き合いをしていた。父親同士が幼なじみで、母親も仲が良かった。同様に「貧乏人の子だくさん」で、オーウェルと少女以外の子も、同年代同士で、いつも遊ぶような仲だった。
暗転は、突然訪れる。ある日、母が言葉を絞り出すように「もう、あの子とは会うな」とオーウェルに告げた。
「ど、どういうことだよ? それ」
母はそれ以上何も言えず、父に話を振った。父は、騎士団で支給される煙草を大事そうにふかしながら、オーウェルだけを自分の部屋に呼んだ。
「アイツが、脱走兵になった。アイツというのが誰か、分かるな?」
脱走兵。その言葉は、何度も何度もオーウェルの頭をかけめぐった。そんなはずはない。少女の父は、自分の父と同様、馬鹿なほど愚直な兵卒をしていたはずだ。この不毛な戦争の勝利を信じ、前線で命を張っていたはずなのだ。
「昨日、討伐隊が選抜された。もちろん、上の方々はそんなことはしない。父さんな、初めて一つの隊を任されることになったんだよ。ただ、選ばれた三人の中で一番年上だからってだけだけどな」
父親の複雑な気持ちを、まだまだ幼いオーウェルは読み取ることが出来なかった。かつての親友を殺すというのに、口調だけは妙な誇りに満ちている父親が、憎くてたまらなくなった。
「それは……」
「なあ、オーウェル。脱走なんてのはな、自分のためだけにやるんじゃないんだ。必ずそこに、家族が絡んでくる。オレは明日、アイツの家族から事情を聞かなくちゃいけない。アイツが何処に隠れてるのか、なんてこともな。もう一度聞くぞ。分かるな? オーウェル」
父からその話を聞かされた翌朝、彼はベッドから起きあがろうとはしなかった。安普請の壁は想像以上に薄く、隣の家の物音がひどくよく聞こえる。三人の男の声と、泣き崩れる女の声。そして、強制的に家から連れ出される音。布団を頭からかぶり、耳を塞いでも、オーウェルを追い立てた。
「助けてよ、オーウェル。守ってくれるんでしょ?」
そんな声も、聞こえたような気がした。
オーウェルは低くうめいて、布団をはねのけた。横では何も知らないブランドルとバグシーが、低く寝息を立てている。背中は汗でじっとりとし、喉がカラカラになっていた。まだ寝入ってから二時間ほどしか経っていないのに、永遠にも等しいような悪夢の中に、オーウェルはさらされていた。
(久しぶりだな、この夢は……)
喉が渇いて、とてもではないが眠れる気がしない。上着だけを羽織り、部屋を出た。
雨は相変わらず、音が聞こえるほど降り続いていた。この分だと、レナリア台地に向かう道には、土砂崩れが起こっているかも知れない。先を急ぐディリータとラムザにとっては死活問題だが、決断に迷う一行のためには、ちょうど良いのかも知れなかった。
オーウェルは宿の裏にある井戸に向かった。暗がりにある井戸の水はいつも冷たく、彼の今の渇きを癒すには、格好の場所に思えた。
井戸へと繋がる扉は、わずかに開いていた。誰かが出入りしたのか、雨が室内に吹き込んでいる。オーウェルは傘も差さずに、走った。井戸の所は東屋になっていて屋根がある。そこまで行けば、傘は要らない。
想像通りと言うべきか、井戸には先客がいた。オーウェルは最初、エリーだと思った。しかし、雨の音に混じって微かに聞こえる、「こくこく」という水を飲む音は、エリーのような大ざっぱな人が、夜中の渇きを癒すにはふさわしくない、おとなしすぎる音だった。
「またお前か、お嬢様」
桶から小さな両手で水をすくい、喉に流し込んでいたのは、サマンサである。オーウェルはその前から桶を奪うと、井戸の中に降ろし、たっぷりとくみ上げた。
「オーウェルさん? 何してるんですか、こんな時間に」
それはオレの台詞だ、と言いかけたが、面倒くさいので黙殺し、桶から直接口に水を注いだ。水は思った通りの冷たさで、渇ききったのどに染み渡る。
「お嬢様は、お部屋のデキャンタに汲んである水を飲むんじゃないのか?」
「……その、お嬢様っていうの、止めて下さい。私だって、士官候補生です。みなさんと同じなんです」
仲間を「みなさん」なんて呼ぶのは充分お嬢様だ。サマンサは、芯からそのことに気付いていない。
「何してんだ、お前。自分であんなこと言っておいて、眠れないのか?」
サマンサはその問いに、唇をきゅっと結び、拳を握った。世間知らずで、気が弱いように見えて、芯は強い。寝る前のやりとりくらいから、オーウェルは何となく、それに気づき始めていた。自分が言ったことに、少しだけ後悔しているのを悟られたくないのだろう。
「オーウェルさんも、来て下さい。お願いします」
オーウェルの問いには答えず、サマンサは深々と頭を下げた。身に着けたローブの頭巾がふわりと舞い、洗いざらしの心地よい匂いが、オーウェルの鼻をつく。
「……まだ、返事はできん」
「明日の朝には決めなくちゃいけないんですよ。ティータちゃんだって、いつまで無事か分からない……」
粘るな、とオーウェルは少しだけ感心した。上流貴族なんてのは、普段は威張りくさっていても、自分が少しおどかし、一睨みすれば、すぐに折れるものだと思っていた。中流貴族であるエリーたちでさえ、一度はそれで折れかけたのに、サマンサは折れない。
「じゃあお前、今からオレと寝るか?」
顔を上げたサマンサが、瞳をぱちぱちさせる。オーウェルの言ったことが、とっさには理解できていない。
「お前がオレと寝るなら行ってやっても良い、って言ったらどうする?」
サマンサは、本当に意味を理解していないようだった。「寝る」という語が意味する所など、十六歳にもなればとうに理解していそうなものだが、彼女はただ、「そんなことで良いのか」といった顔つきで目をぱちくりさせるだけである。
「何処かの部屋で、オーウェルさんと朝まで一緒にいればいいんですか?」
オーウェルはよっぽど、露骨な単語を使ってやろうかと思ったが、もしかするとそれすら意味がないかも知れない。そう思うと、目の前の女を折れさせようとする気概が、潮が引くように冷めていった。
「馬鹿なこと言って悪かった。今のは忘れろ」
そう言い捨てて、井戸を後にしようとするオーウェルの上着の裾を、小さな手がつかんだ。
「……私だって、男の人と女の人が朝まで一緒にいたらどうなるかくらい、分かってます」
その時、雨が一段と激しさを増し、地面を叩く轟音が、二人の息づかいさえもかき消すほどになった。
オーウェルは上着に入れた煙草を取り出した。同時にマッチも出そうとしたが、雨で湿気てしまっている。別に今すぐに煙草を吸わなければいけない理由などはなかったが、雨が激しすぎて動けず、間を持たせるにはそれしかなかった。
「どうぞ」
思いがけない所から火が現れた。サマンサが指先に炎を灯し、オーウェルに差し出す。オーウェルはとりあえず、素直に受けることにした。
「白魔法のお勉強しかしてないと思ってたがな、お嬢様」
「私もそのつもりでしたけど、足手まといにならないようにと思って、ブランドルさんに少しだけ教えてもらったんです」
それにしても、指先だけに魔力を集めて小範囲で黒魔法を放つというのは、高等技術だ。「少しだけ教えてもらった」程度で会得できる技術ではない。
「オーウェルさんだって、もうチャクラとか蘇生とか、卒業年度にマスターするようなことができるんでしょ。エリーが悔しがってました。『私はまだまだだー』って」
エリーには「さん」を付けないのか、と、どうでも良いことがオーウェルには気になった。核心を外した会話は、長くは続かない。雨の音しか聞こえない時間が、すぐに戻ってきてしまう。
ふかした紫煙が、雨にけぶる。二人に何をさせたいのか、雨脚は強まるばかりである。
「おさまりませんね……」
「そうだな……」
二人は、少しだけ距離を置いていた。オーウェルは、さっきのサマンサの言葉が頭から離れない。もしかして、初めてじゃないのか。そんな下世話な妄想さえ、脳内を駆けめぐる。
「脱走に、何かあったんですか?」
何もない所から突然核心を突くことができるのは、お嬢様育ちのなせる技なのか。或いは、単に空気が読めないだけなのか。饒舌になったサマンサは、遠慮を知らない。
「ご、ごめんなさい。でも、私はバカで、本当に何も知らないから……。自分の言ったことが軽はずみなのかどうかも、分からないんです」
オーウェルは、すんでの所でサマンサの胸ぐらにつかみかかってしまう所だった。相手がサマンサでなければ、おそらくはそうしていただろう。
「……バカなら、許されるってのか?」
穏やかで、かつ冷酷ではない口調。言葉は嘘を吐けない。心情が自然と、口から流れ出るようにこぼれる。
「そうだ、お前は許される。突拍子もない発言も、戦いで気を失うことも、脱走も。何もかも許されるんだ。じゃあ、何でアイツは許されなかった? アイツはバカで、突然訳の分からないこと言い出して、その上弱くて、それでも許されなかった。何故なんだ? 何故なんだよ!」
サマンサには無論、アイツ、が誰を指すかなどは知る由もない。言いながら、雨の中に走り出したオーウェルの頬に伝うものが何なのかも、雨に混じってしまって、やはり、知る由もない。そのまま彼は終ぞ後ろを振り返ることなく、雨の中に消えていった。
翌朝、ラムザを除く一行は、一足早く食堂に集結した。オーウェルは、もういつものオーウェルに戻っている。サマンサも、エリーの後ろで小さくなっており、昨日の決意の面影はほとんど感じられない。必然、場をリードするのはエリーになった。
「私とサマンサは、寝る前と起きてからと、もう一度話し合ったわ。私たちは行く。それでいいのよね、サマンサ」
小さくこくりと頷くサマンサは、もういつものサマンサだ。
「オレはもう、変えるつもりはなかったよ」
「ボ、ボクも……です」
バグシーとブランドルの決意は、固まりにくいが、一度固まれば揺るがない。それだけ、彼らが勇気を振り絞ったことが、痛いほど伝わってくる。
全員の目が、一斉にオーウェルに向く。サマンサでさえも、遠慮がちな視線をオーウェルに送った。もうオーウェルの決断しかない。仮にオーウェルが行かないという決断を下したとしても、今さら結論を変更する者はいないだろうが、少なくとも旅のモチベーションは変わる。厳しいようだが、オーウェル以外の貴族育ちに慣れすぎた一行にとっては、これから待ち受ける運命は過酷すぎる。命を落とすかも知れない。「経験者」の有無は、それだけ、パーティーの行く末に影を落とす。
「オーウェル!」
「オレは、戻るなんて一言も言ってなかったはずだがな。お前らみたいな足手まといと一緒に行くのが嫌だっただけだ」
エリーの拳が、オーウェルの頭に飛んだ。本気で殴ろうとした訳ではない。喜びと安堵が入り交じった鉄拳だった。
「もう、気を持たせるようなことばっかりして! このバカ!」
「うるせえよ、男女」
バカでも許されない世界に、オーウェルは生きてきた。しかし、賢かったからといって、許されてきたわけでもない。それならばいっそ、行けるところまでバカになってやろう。その結果として命を落とすならば、それも悪くない。オーウェルに芽生えた、暗くて明るい決意は、まだ誰にも伝わっていなかったが、彼らはこの時から、本当の仲間になれたのかも知れなかった。
最終更新:2009年07月23日 21:56