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秋まつり

 街から半袖姿の人が日増しに姿を消していき、世界は、少しずつ秋の様相を見せ始めている。僕はその日、秋祭りの縁日で、その人を見た。夜はもう随分と涼しくなっていたが、その人は丈の短い浴衣、と言うよりは着物、を着ていた。色は淡い桃色で、細かい兎の柄が付いている。肌の色は透き通るように白い。僕はその時遠目で見ていたが、すれ違う人は皆一様に、その人のことを振り返っていた。「美人」でも「可愛い」でもなく、「きれいな」という形容詞が最も相応しい人だった。
 地元の秋祭りは、毎年十月の第三週、土曜日と日曜日に渡って行われる。縁日は、その土曜日の夜である。規模としてはそれほど大きくもない祭りなのだが、よほど娯楽がないのか、例年そこそこの盛況を見せる。親子連れなどは言うに及ばず、高校生や大学生までもが訪れる。かく言う僕もその一人なのだが。
 僕にとってこの祭りは、秋というものを語る上で欠かすことのできないイベントになっていた。小学生の頃は親に頼み込んで特別に小遣いを貰い、その千円札を一枚、財布につっこんで友達の家へと急いだ。中学生になっても、その日学校で友人連中に会うと、夜の予定は何となく縁日に行くことに決まった。月の第二週目と第四週目以外の土曜日は、まだ休日になっていなかった。
 高校は学区外に進んだため、それまでの友人と一緒に行くことはなくなった。それでも、同じ高校に進んだ何人かと誘い合って、相も変わらず通い続けていた。それが、この年はたまたま、予備校や塾などで忙しい連中に都合がつかず、仕方なく一人で向かった。
 祭りの雰囲気というのは、別にその運営や実行に関わっていなくても、どこか気分を昂揚させてくれるものだ。受験勉強というストレスの溜まる作業の反動からか、その日の僕は、例年以上に開放的な気分になっていた。インスタントのそれに毛が生えた程度の焼きそばも、値段との釣り合いが疑問なフランクフルトも、この雰囲気の中だと許せてしまう。焦げたとうもろこしを食べる理由など、祭りに来なければ皆無である。ここに来ている人は皆、そんな非日常的な何かを求めているのかも知れない。卑俗的な匂いを漂わせながら、頑張って非日常空間に溶けこもうとしている。最もそれは、油と水を思い切り掻き回したようにほんの一瞬溶け合うだけで、明日からはまた日常へと戻っていくのだが。
 しかしその人からは、そんな卑俗的な匂いが一切しなかった。言うなれば、その人そのものが祭りの非日常空間の一部であるかのような、そんな感じだった。
 不意に僕は、その人が何者であるかを確かめたくなった。これは僕に限らず、その人を見た全ての人間がそうなっていたのではないかと思う。ただ他の人たちは、恋人や友人や家族がいたり、或いは何か他の予定があったりして、それが抑止力になっていただけにすぎない。幸か不幸か、僕にはそのような抑止力は一切無い。
 人波を掻き分けるようにして、僕はその人の後を追った。途中、りんごあめを持ったカップルとぶつかりそうになり、女の方が怪訝な目で僕を見た。男の方は、ついさっきすれ違ったであろうあの人の余韻が残っているのか、僕に絡むこともなくぼんやりとしていた。
 追いついてみるとその人は、縁日にいながら、どの出店にもあまり目を向けていなかった。少し俯き加減で、出店と出店のちょうど真ん中をゆっくりと歩いているだけである。歩くたび、右手に提げている小さな巾着袋が小刻みに前後に揺れる。巾着袋のデザインは、浴衣と全く同じもので、それもまた、洒落ていた。
 例えばどこかの店でも覗いてくれていれば、声をかけるチャンスも生まれそうなものだが、彼女は小さな歩幅ながら全く足を止めようとしない。僕は少し早足になり、前に回り込むことにした。声はかけられなくとも、せめて真正面からの顔を見ないことには、おさまりそうにない。
 一気に彼女を追い抜かし、すぐ先にあるクジ屋を覗くようなフリをして立ち止まった。左手の方からは、少しずつ少しずつ、あの人が迫ってきている。僕は大きく呼吸を整えた。別に何か特別なことをする訳でもないのに、緊張している自分がいる。もう一度、今度は小さく呼吸をしてみる。そして、意を決して左を向いた。
 僕は息を呑んだ。後ろや横から見ている姿はもちろん美しかったのだが、正面から見ると、さっきまでは強烈に焼き付いていたその印象が、全て吹き飛んでしまった。まるで、一個の絵画や彫刻がそのまま現実の世界に映し出されたかのようにさえ見えた。彼女とすれ違った人々が皆、呆けたような顔をしていた理由がよく分かる。さっき僕は、皆が彼女を追わないのは、様々な抑止力が働いているからだと思っていたが、どうもそんなことではないようだ。一瞬芽生えた好奇心など、この姿をまともに見ればそれだけでかき消されてしまうのだろう。事実、僕自身、彼女が横を通り過ぎて行くまで、身動き一つ取ることができなかった。

 それでも僕の好奇心は、どうも他の人のそれよりも若干旺盛だったようだ。すぐに踵を返し、後を追った。今度は真正面から見ないように、背中の方から声をかけた。
「あの、すいません」
 周囲に一瞬、「行ったか」という空気が流れるのが分かった。そういう意味で、僕は期待されていたようだ。よしんば袖にされてしまったとしても、それはそれで一つの見せ物のように思われている。  
「一人で来てるんですか?」
 女の子に声をかけるとしては、最低の感じになってしまった。喉の奥がカラカラになって、声が上ずってしまっている。
「良かったら、一緒に見て回りませんか。僕も一人なんですよ」
 世間ではこのような行為をナンパと言うのだろう。ナンパというのは、そもそも軟弱な男を表す「軟派」から来た言葉であり、僕が何となく嫌っている概念の一つだった。その嫌っているものに自分がなっていることが、少し可笑しかった。
 その時、彼女が何故僕の誘いに乗ってくれたのかは、後々になっても分からない。ただ、事実として、彼女は僕の問いかけに小さく頷き、そのまま並んで歩き始めた。それまでは出店を一瞥しているだけだった彼女も、僕が誘うと、少し躊躇しながらも、一緒に覗き始めた。途中にあった射的の店で、彼女が欲しそうに見ていた小さなクマのぬいぐるみを取ってあげた。ついさっき声をかけて、そこから始まっただけの関係なのに、まるで最初からデートに来たようになっていた。
 僕にとっては歓迎すべき事態だったが、彼女はどうなのだろうか。彼女はまだ、僕の最初の問いかけに応じた時も含めて、一言も言葉を発していない。ただ、僕が取ってあげたぬいぐるみを抱えている姿は、嬉しそうに見えた。
 長い出店の列も、二人で歩いていると一瞬で通り過ぎてしまった。彼女はついに一言も喋らず、また、僕と違って何も食べなかった。ただ、お面やぬいぐるみのように形の残るものだけを大事そうに抱えながら、出店の列を抜け出した。この辺りで彼女と別れなければいけないと思うと、寂しくもある。僕は、彼女の方から「この辺で……」と言い出すのを待っていた。言われなければいいだろう、という卑怯な気持ちがあったことは否定しない。
 僕たちは少しずつ歩を進め、神社の境内に入った。本殿の裏手には小さな山門がある。彼女はそこから出ようとしているのだろうか。もう一度出店街を抜け、大きな扁額のかかった鳥居がある表門の方へ戻ることもできたが、そうしようという気は起こらなかった。戻れば、まだまだ彼女との時間を共有できたのに、だ。彼女は、遠慮がちな足取りながらも僕を導いているような所があった。僕の方もまた。その力に敢えて抗いはしなかった。
 本殿の正面まで来た所で、初めて彼女は足を止めた。出店で僕が強いて止めさせた場面は何度かあったものの、彼女が自分の意志で歩を止めたのは、今日初めてのことだった。
 ここまでか、と思った。それでも良かった。むしろ充分と言っていいだろう。一人寂しく受験勉強のストレスを解消しに来た祭りで、道行く人全てが振り返るような人に出会い、その人と一緒に縁日を見て歩くことができた。これ以上を望めば、今目の前に鎮座されている神様から天罰が下るのではないか。
 彼女はじっと俯いたまま、やはり何も言わなかった。足下の石畳にじっと視線を落としたまま、立ちつくしている。これは、帰ってくれ、ということなのだろうか。言い出せないから察してくれ、ということなのだろうか。
 僕は小さく、「今日はありがとう」と言って、彼女に背を向けた。そして再び出店の方に向かって歩き出した瞬間、彼女は初めて声を発した。
「待って下さい」
 大きさで言えば、蚊の鳴くようなという形容がぴったりなほど、小さくか細い声だった。それでも、祭りの喧噪を貫き、僕の耳に届いた。
「少しだけ、お話しませんか」
 ここまで何も言わなかったのに、という矛盾は、この際脇に遣ってしまうことにした。とにかく、まだこの人といられる、話ができる、ということだけが嬉しくてならなかった。
 本殿の裏の方に周り、山門の方へと続く小さな石段に腰をかけた。飲み物でも、と思ったが、よく考えてみれば、飲み食いを一切しないことを思い出し、止めた。
「今日は、ありがとうございました」
 僕たちが話すような言葉とそれほど変わりはないが、強い京都訛りがあった。まるで花街か何かのようなイントネーションの、ありがとうございましただった。おおきに、と言わないのは、花街の人たちが日常語と商いの言葉を使い分けているのと同じようなものか、と漠然と納得した。
「本当に、楽しい時間でした。物もこんなに買うてもろて……」
 努めて花街言葉を使わないようにしている。そんな印象を受ける。それでも、「買うてもろて」などのような細部に、そういう街で育った様子が見え隠れする。訳ありであることは間違いがなかった。
「い、いや、こちらこそ。突然声かけたりして……。すいません、本当に」
 僕が頭を下げるより前に、彼女はかぶりを振った。本当に楽しかったのだ、と、その必死な様相はそう伝えていた。
「お祭り、一回行ってみたかったんです」
 一回行ってみたかったということは、これまで一度も行ったことがなかったということだろうか。どう若く見ても、僕と同じかせいぜい一、二歳下くらいにしか見えない。しかし、そう聞くと、彼女から卑俗な匂いが一切しないことにも得心がいく。
「それで、こっそり抜け出して来たんです。小さい頃から、ずっと出たことがなくて……」
 やはり、花街育ちの人なのだろう。自分の意志で入るとは言え、花街という世界は、一度入ったらそう簡単に出ることはできない。そこから抜け出して来たとなれば、ちょっと事である。僕との逢い引きと疑われれば、僕も一緒に、話を聞かれるかも知れない。それでも、ここまで来て逃げ出す気にもなれない。どうにでもなれ、という気持ちになった。
「でも、お金もないし、どうしたら良いか分からなくて、とりあえず歩いてみたんです。それだけでも、充分楽しかった。でも、声かけてもらって、すごく嬉しかったです。これも、可愛い……」
 そう言って彼女は、手の中に収めたぬいぐるみに目を落とした。射的代三百円でここまで喜んでもらえると、逆にこちらが恐縮した心持ちになる。さりとて、気分が悪いはずもなく、僕は思わず頭を掻いた。
 そのまま、しばらく会話が途切れた。今度は本当に潮時だと思い、僕は彼女の手を引いて立ち上がった。
「送って行くよ。祇園の方、ですよね」
 彼女が許すならば、お茶屋の方まで出向いて、僕が強いて彼女を連れ出したのだ、と説明しようと思った。彼女がそんな嘘を望むようには見えなかったが、僕としても、それなりの罰が待っているであろう彼女を、そのまま返す気にはどうしてもなれない。しかし、彼女は頑として首を縦には振らなかった。
「いけません。あなたもひどい目に遭います。それに、そんなことをしてもらったら、私ももっとひどい折檻になりますから……」
 折檻、と彼女は言った。江戸時代や明治時代ならいざ知らず、平成の現代になっても、そんなことがあるのか。まさか、と思ったが、花街の事情を僕が知っているはずもなく、何となく、そうなのか、と納得してしまった。
「分かってたんです、そうなることは。それでもお祭りに行きたかったんです」
 少し涙声で最後にそう言った彼女は、そのまま石段を下り、山門の方へと姿を消した。

 後日僕は、彼女が一瞬口走った「折檻」という言葉が気になり、花街の事情に詳しい祖父に話を聞きに行った。
「それは、ないわ」
 老年のその人は、僕の問いを一笑に付した。
「昔の遊郭ならいざ知らず、今のお茶屋さんでそんなに暴力振るうことはないで。まあそりゃ、お給金を減らすとか、そんくらいの罰はあるやろうけどね。大体、そんな幽閉されてるように感じるほど、お休みが取れへん訳じゃないよ」
 言われてみれば、その通りである。しかし、あの時彼女が嘘を吐いていたようには、僕には到底思えない。
 僕は、話の前段階である彼女との出会いの部分も含め、祖父に全てを話した。これまでの「折檻」の話をしていた時とは一転して、祖父は厳しい顔つきになり、僕の話に頷き始めた。僕が一通り話し終えた所で、老人は大きく息を吐き、とにかく神社に行ってみよう、と言い出した。
 祭りが去って一週間ほどが経った神社は、驚くほど静まり返っていた。僕は、彼女に声をかけた場所から、最後に別れた場所まで、祖父を案内した。追いかけなかったのかい、と聞かれたので、とてもそんな余裕はなかった旨を告げた。
「石段を下りてみい」
 祖父は何か分かったようだった。僕にはまださっぱり分からない。言われるがままに石段を下ると、小さな山門が見える。その脇に、小さな碑が立っているのを見つけると、祖父はそれを指差した。
「明治時代の初め頃、島原から逃げ出して来た遊女が、追っ手に追われながら、命からがらここへ逃げ込んできたんだが、そこで力尽きたそうや。そのことを知ったここの神官の人が、遊女の霊を供養するために立てた碑や」
 祖父が指差した碑には、「慰霊之碑」とだけ彫られており、一見しただけでは、誰の何なのかは分からないようになっている。遊女に対する配慮であろう。
 碑を見ている内に、僕は、とんでもないものを見つけて、思わず声を上げた。碑の裏に、まるで隠すように置かれていたのは、あの日、僕が彼女にあげたぬいぐるみやお面だった。
「……毎年な、お祭り時になったら必ず一回は出てくるみたいやな。実はワシもな、もう今から五十年くらい前に一回会うとる。桃色地に、兎柄の着物を着てたな」
 祖父の言った通りの姿の人を、僕はあの日確かに見た。今の気持ちは、とても言葉では言い表せそうにない。秋の冷たい風が、山門を通って吹き抜けていった。
最終更新:2009年07月23日 22:15