雨が嫌いになったのは、いつからだろう。
昔は、少なくとも自分が室内にいる時の雨は、嫌いではなかった。豪雨や雷といったものがもたらす、一時的な非日常を味わっている時間は、それなりに幸せだった。
雨が嫌いになったのは、どうしてだろう。
今思い出しても、胸が締め付けられるような感覚に襲われる時間が、僕にはある。
突発的に降り出した夕立が、窓枠やアスファルトを激しく叩く。目の前にいる人の息づかいさえかき消されてしまいそうな時の中で、僕の腕は、彼女を後ろから強く抱きしめて、放そうとはしなかった。彼女が何を思っているのかも何も、僕には関係なく、ただ今のこの時間を手放したくない一心で、僕は腕に力を込めていた。
「……ごめん。やっぱりオレも、キミが好きや。放したくないよ」
制服の、無駄に厚いブレザーを通して、彼女の鼓動が僕に伝わる。彼女の、華奢でいて柔らかい身体の運命は、僕の屈強すぎる腕にかかっている。へし折ってしまうことさえ、容易に思えた。暗くなり始めた校舎には今、僕と彼女しかいない。
本当は、分かっていた。彼女には、僕なんかよりもずっと大切な人がいて、彼女の未来は常にその人と共にあることを。僕に見せた好意が、一時の気の迷いでしかないことを。全てのことから目を逸らして、僕は、腕に込める力を強めた。
「ちょ……痛い……よ」
「あ、ああ、ごめ……」
「でも……緩めないで。このまま」
言われなくても、放す気も緩める気もなかった。少しでも腕の力を抜くと、この時間が全て、雨と共に流れ出してしまいそうで、ひどく怖い。
「後悔、せえへんの?」
「うん。私は、片瀬くんが好き。片瀬くんと、付き合いたいよ」
「でも、オレと付き合っても、不幸になるよ。だってキミは……」
僕の良心が、思わず口から零れ出てしまいそうな瞬間、もう彼女の柔らかい唇は、僕の口をふさいでしまっていた。女の子が使う、甘いリップクリームの香りがした。
「私は、幸せになるよ。片瀬くんの腕の中で、幸せになるから」
僕の良心が、もうそれ以上出なくなってしまったのは、彼女の唇のせいなどではなかった。原因は、彼女が幸せになるのならそれでいい、という、卑怯な現実逃避に他ならなかった。
「ありがとう。一生、キミのこと放さへん。約束するよ」
彼女を騙したことへの痛みさえ、まだ僕にはなかった。高校三年生の、秋の日の話。
雨が嫌いになったのは、彼女が僕の中からいなくなった日から。
雨が嫌いなのは、雨は否が応にも、僕の意識をあの日の夕方の教室に引き戻してしまうからだ。
最終更新:2009年07月23日 22:26