岩尾館 (いわおだて) | |
所在地 | 喜多方市熱塩加納町(旧耶麻郡熱塩加納村)大字宮川字八反田、ほか |
別称 | 佐原城 |
築城年 | 宝治元年(1247)以降か |
築城者 | 佐原氏か |
城主変遷 | 佐原氏 |
廃城年 | 応永九年(1402)頃か |
現状 | 宅地、耕作地、稲荷神社 |
岩尾館は福島県喜多方市(旧耶麻郡熱塩加納村)に所在した城館跡であり、三浦氏惣領となった佐原(加納)氏の城館の一である。
築城者、年代ともに不詳であるが、黒川城に拠って会津に勢力を拡大した蘆名氏の祖、佐原十郎左衛門尉義連が、文治五年(1189)奥州合戦で功を挙げて会津を与えられた際に築城、居住したのがこの館であるという伝承がある。南東の上三宮には青山城が所在し、南西の半在家には義連の墓と伝えられる宝筺印塔があることから青山城の支城であったと推定されており、佐原氏が加納荘の地頭もしくは地頭代に任ぜられた宝治元年(1247)の宝治合戦以降、13世紀半ばから後半に築城されたと考えられている。
義連の孫とされる五郎左衛門尉盛時は、宝治合戦で滅亡した三浦泰村に代わって三浦氏の惣領を継いで三浦介を称し、青山城を本拠とした。しかし応永九年(1402)、新左衛門実詮が同族である新宮城主新宮次郎盛俊に攻められ滅亡、その頃にこの岩尾館も使用されなくなったものであろう。
濁川西側の標高約260m、比高約10mの段丘上に築かれ、現在は宅地や太子堂、稲荷神社の社地となっている。東西約200m、南北約800mほどの細長い館で、南北に北及び東側が段丘崖、南は沢の自然地形を利用、西側は二重以上の土塁によって防備されていたと考えられている。以前は中央の稲荷神社から南端の南沢まで延びる土塁、および稲荷神社西約100mほどの場所にも南北に延びる土塁があったとされているが、現在は神社南側にのみ土塁が残っている。北端は若宮八幡宮の社地となっており、そこから太子堂周辺までの段丘崖には帯郭とされる遺構が残る。
何度かだらだら訪問したことがありますが、東側は雰囲気を残していますが西側は全く雰囲気を感じません。もうちょっと全体を詳しく見て見たいな~と考えています。