盛岡城(盛岡市)

盛岡城
(もりおかじょう)
所在地盛岡市内丸
別称不来方城(不来方北館(福士館、慶善館)、不来方南館(淡路館))、迂志方城、森岡(森ヶ岡)城
築城年康平五年(1062)、文禄二年(1593)
築城者清原武則、橘頼貞、工藤氏、福士氏、南部信直
城主変遷清原氏、橘氏…工藤氏-南部氏[福士氏、日戸氏、米内氏]-南部氏(15代・1593-1868)
廃城年存城
現状岩手公園、市街地

概要

盛岡城は岩手県盛岡市に所在した城館跡である。平安、鎌倉時代の創建と伝えられ、近世は盛岡藩南部氏の府城となった。国指定史跡。日本100名城の一。

歴史

古くは不来方城と称された。築城年代、築城者は明らかでないが、康平五年(1062)前九年合戦で源頼義、義家父子が厨川柵に籠もる安倍一族を滅ぼした後、合戦に協力した清原武則、もしくはその甥の橘(志万(志方)、逆志方(逆志万)、迂志方(迂志万)、宇志方(宇志万)、越方)太郎貞頼が初めてこの地に城館を構えたのが始まりとされる。

その後文治五年(1189)の奥州合戦で功のあった工藤小次郎行光の所領となり、厨川城の支城となった後、いつしか工藤氏の本拠地となった。しかし元弘二年(正慶元・1332)工藤光家が南部伊予守信長との合戦に敗れ従属すると、南部氏は再び工藤氏を厨川城へ移し、郡代として福士伊予守入道慶善が置かれた。以降不来方城は南部氏の更なる南方進出への足掛かり、そして紫波郡に勢力を拡大した斯波氏に対する備えとして重要視され、福士、日戸、米内氏が不来方北館(福士館、慶善館)、不来方南館(淡路館)にあってその任に当たった。

南部氏の出自は甲斐源氏であり、新羅三郎義光から5代目の光行が巨摩郡南部郷を与えられて南部氏を称したのが始まりである。

光行は文治五年(1189)奥州合戦の功で糠部五郡を与えられ、承久元年(1219)海路八戸に至り、三戸城を本拠として領内各所に一族を配して支配を強化した。そして鎌倉時代末から室町時代にかけて徐々に南下政策を取り、戦国時代には岩手、紫波郡にまで勢力を拡大する。さらに北方の安東氏を攻略して津軽地方をも手中に収め、陸奥国北部に広大な領国を経営した。しかし次第に独立性の強い一族が割拠するようになり、津軽氏の離反を許すなど支配力が衰えて行く。天正十八年(1590)26代信直は豊臣秀吉より所領安堵の朱印状を得るが、一族の重鎮であった九戸政実が叛乱を起こすと自力で鎮圧出来ず、秀吉が派遣した仕置軍の助力を得て漸く勝利するいった有様だった。

叛乱平定後、信直は政実の居城であった九戸城を福岡城と改め居城としたが、その後不来方城の地に新城を造営し、居城地を移転する計画を立てた。これは所領として安堵された岩手、紫波、稗貫三郡を加えると、従来の居城地である三戸城、福岡城では北に偏していたためとされる。またこの移転に関しては、仕置軍の軍監として従軍していた浅野長政、蒲生氏郷らの勧めもあったという。

文禄二年(1593)信直は新城の着工に入るが、領内の浪人による叛乱で中断し、慶長二年(1597)再開された。同四年、信直は新城の完成を見ることなく福岡城で没し、その後は嫡男利直が継続して築城を進めた。その後も関ヶ原合戦や大坂の役などでの中断を挟み、一応の完成をみて福岡城より居城を移したのは元和年間(1615-24)のことであった。

新城へ入った利直は、城名を不来方城から森ヶ岡城と改称、さらに「宝の珠の盛る岡」「盛り上がり栄える岡」の意を込めて盛岡城と称した。しかしその後も度々中津川、北上川の氾濫に悩まされ、利直は一時斯波氏の居城であった高水寺城を修築した郡山城へと居城を移している。

その後更なる修復を加え、遂に完成に至ったのは、工事着工より約40年後、利直の子重直の代の寛永十年(1633)であったという。なお翌十一年、落雷による失火で本丸を焼失したため、重直は再度郡山城へ移っている。

以降、盛岡城は江戸時代を通じて盛岡藩主南部氏15代の居城となった。しかし慶応四年(1868)の戊辰戦争において、盛岡藩15代藩主南部利恭は奥羽越列藩同盟に加わり西軍に抗し、戦後明治新政府より13万石に減封の上白石城への所替が命じられた。なおその命令は罰金70万両を新政府に納める条件で撤回となり、南部氏は盛岡復帰を認められたが、戦後の藩内の疲弊は激しく、また財政も困難であったため、全国の諸藩に先立って廃藩を願い出、藩政の幕を閉じている。

盛岡城は南部氏が白石城へ移されると秋田藩、次いで松代、松本両藩の預かりとなった。南部氏が復した後、明治六年(1873)には存城と決定したが、翌年陸軍省によって天守以下建造物が民間へ払い下げられ悉く破却された。存城であるにもかかわらず破却されたのは、戊辰戦争での新政府に対する敵対行為があったためといわれている。同二十三年(1890)城地は旧藩主南部氏に払い下げられ、その後岩手県が貸与を受けて同三十九年(1906)岩手公園として整備された。さらに昭和九年(1934)公園は県より盛岡市に移管となり、同十二年(1937)盛岡城跡として史跡指定を受け、現在も市民の憩いの地となっている。

本丸、二の丸、三の丸、北郭、東郭、本丸腰郭、居館のといった郭を連ねた連郭式城郭で、北上川、中津川を外堀として利用、各郭間は内堀、石垣で画されていた。創建当初は本丸東南に三層の天守があったが火災により焼失、延宝元年(1673)再建されている。

現状・感想

明治初期の取り壊しで建造物はほとんど残っておらず、平成五年に市内より城内に移築された土蔵、及び市内報恩寺に移築された門のみが現存しています。しかしながら本丸、二の丸の一部には自然石を用いた築城当初の石垣が残り、二の丸西側には貞享三年(1686)に積まれた切石の高石垣が残るなど、東北地方にはあまり見られない石垣造りの城郭として往時の姿を伝えています。

でも…最大の見どころである石垣の画像を撮影していないスットコドッコイなわたし(-_-; 盛岡城へは数回訪問しているのですが、何れも仕事の合間にふらふらと寄ったくらいで、写真を撮っているヒマなどなかったのです(出張の比重がまだ仕事に傾いていた頃)。 岩手県に出張する時は総じて青森、秋田県3県に跨っての5日間でしたので、さすがに主要都市間のセールスと移動で手一杯でした。なにせ北海道を除くと面積にして日本最大の県と同5位、7位の県ですからねー(2位の県から出発し、その間に8、15位があるし)。おまけに暫く岩手県野球場でのベイスターズ戦も開催されておらず、久々のチャンスだった2012年のオールスターゲームも観戦回避…orz

盛岡城跡の高石垣をもう一度この目で見る機会は訪れるのであろうか…?

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最終更新:2012年10月19日 20:36
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