慶徳城 (けいとくじょう) | |
所在地 | 喜多方市慶徳町豊岡字今町 |
別称 | |
築城年 | 弘治元年(1555)か |
築城者 | 武藤氏、慶徳資連か |
城主変遷 | 武藤氏…蘆名氏[慶徳氏](1555-1589) |
廃城年 | 天正十七年(1589)か |
現状 | 慶徳小学校、慶徳幼稚園、宅地、耕作地 |
慶徳城は福島県喜多方市に所在した城館跡であり、蘆名氏重臣慶徳氏の居城であった。
築城年代は不明だが、天正年間(1573-92)には黒川城主蘆名氏家臣、慶徳善五郎範重が居城したと伝わる。また弘長年間(1261-64)武藤某が代々居住したとも、弘治元年(1555)蘆名氏一族とされる会津新左衛門経光の子孫九郎資連が築城し、以後慶徳氏を称したとも伝わるが、いずれも確証はない。
慶徳氏の由緒は明らかでないが、天文七年(1538)黒川城下が大火に見舞われた際、蘆名氏の居館のほか松本氏、富田氏ら重臣の屋敷と共に経徳新左衛門の屋敷も焼失している。また永禄三年(1560)、蘆名盛氏が石川郡松山へ出兵、常陸国太田城主佐竹義昭、田村郡三春城主田村清顕と戦ったが、この合戦で慶徳善五郎盛勝は新宮吉田新左衛門重秀らと従軍し活躍している。しかし元亀二年(1571)、盛氏が白河郡へ出兵して佐竹義重と戦った際、従軍した慶徳次郎左衛門は嗣子がないまま討死し、慶徳氏は断絶したという。
天正年間に城主であった慶徳善五郎範重は幼名を契力(チギリキ)といい、蘆名氏四天宿老と称される重臣の一、平田是亦斎舜範(ゼヤクサイキヨノリ)の長子であった。舜範は初め子が無く、弟の左京亮氏範を養子として迎えたところ、契力が誕生したためこれに慶徳氏を継がせたという。また一説には、天正元年(1573)源太屋敷村鏡ヶ城主平田周防守舜範が本城を弟の氏範に譲り、実子契力丸を伴って慶徳氏の旧館へ移り住み、以後規模を拡大して慶徳氏を称したともいわれる。
天正八年(1580)蘆名盛氏が没した後、蘆名氏麾下にあった在地領主の叛乱が相次ぐようになる。善五郎は天正十二年(1584)、大沼郡船岡館主松本太郎行輔が蘆名盛隆に叛して黒川城を占拠した際、これに与した耶麻郡松野館主勝(スグレ)次郎を討ち取り、また翌年、耶麻郡関柴館主松本備中守が伊達氏に内通、原田左馬介宗時、新田常陸を引き入れて北方(喜多方)へ侵攻した際は、中目式部大輔らと共にこれを撃退した。この様に一貫して蘆名氏の部将として行動した善五郎だったが、以後の消息は不明である。天正十七年(1589)摺上原合戦の翌日、伊達政宗は塩川、北方の諸城館へ兵を動かしており、その際に善五郎は討死、以後慶徳城も廃城となったものと思われる。なお翌年、政宗は経徳因幡に「会津北かた新宮」の知行を与えており、善五郎との関係は不明ながら一族が伊達氏に臣従したものであろう。
現在は慶徳小学校、幼稚園の敷地や宅地、耕作地となっている。小学校地となっている本丸は、東西約80m、南北約92mの規模を持つ。その東側に東西約60m、南北約76mの二の丸、二の丸の南側に東西約72m、南北約60mの三の丸が隣接する、連郭式の平地方形館であった。慶徳城は当初から3つの郭によって構成されたものではなく、初めは本丸が単郭の方形館として築かれ、天正元年に平田是亦斎が移住した後、二の丸、三の丸を整備したものと考えられている。
跡地がまさに小学校の周辺であり、さすがにウロウロしづらいところです。そんなわけで以前行った時は詳しく見て歩きませんでしたが、資料もだいぶ揃ったので周囲も含めて再訪したいと考えています。なお仕事で慶徳小学校に伺った事があり、その時に対応して下さった先生と慶徳城について話した記憶があります。その頃は知識もなく大した話もしませんでしたが、今思うと非常に残念ですなー。