俺たち、俺と佐々木はいつもの喫茶店で向かい合わせに座っていた。
なんでかって? そいつはかなり単純な話になる。話したいこと、告げ
たいことがある。そう言って、佐々木に呼び出されたのだ。とはいうも
のの目の前にいる中学時代の友人は、さっきから押し黙ったきりで何も
話そうとはしてくれない。
まぁそんなわけで、ここにいたる経緯を俺が思い起こすぐらいの時間
は十分にあるのだった。
ちなみに、本日はバリバリのウィークディ。昨日の深夜、すなわち今日
が始まってからすぐに、本日の予定を佐々木に握られた俺は、いつもの
SOS団の活動(ちなみに今日は古泉とトランプのスピードで遊んでいた。
戦績は言うまでもないだろう)を終えたその足で指定された場所――御想
像通りにSOS団御用達の喫茶店である――に向かっていた。
佐々木の指定した時間は、団活動の終了時間を読んでいたとしか思えな
いくらいにぴったりだった。どれくらいかというと、北口駅前でほかのメ
ンバーを見送った俺が、取り立てて急ぐわけではないが、どこかに寄り道
をして時間をつぶす必要はない程度に、だ。
チャリを路駐しつつ、喫茶店を覗けば佐々木はもう店にいるようだった。
慎重に周囲を見回す。どうやら、橘や九曜、そして藤原の姿はない。
もっとも、朝比奈さん誘拐未遂事件を思い出せば明らかなように、橘は
古泉と同じく、超能力使いによる涼宮ハルヒ――橘の場合は佐々木だ――
のための組織もしくはグループに所属している。古泉にとっての森さんや
新川さんに相当する人間や彼女らに雇われた人間が監視していたなら俺に
はわからない。
そんな風に俺が周囲に(無駄に)気を配っている間も、佐々木はホット
コーヒーが入っていると思しきカップには手も触れず、一所懸命に手鏡を
覗きこんでいた。珍しいこともあるもんだ、中学時代の佐々木がそのよう
に身だしなみを整えている光景を俺はほとんど覚えていない。もちろん、
それは佐々木が身だしなみに気をつけていなかったというわけではない。
むしろ、逆だ。常に清潔感にあふれ、目立たないようにしつつもちゃんと
していた。ただ、それを整えている所を俺が見たことがなかったというだ
けの話だ。
鏡を覗きながらも、入り口には注意を払っていたのだろう。佐々木は俺
が入ってきたことにすぐ気がついたようだ。
そして、なんともぎこちない笑みを浮かべて右手を挙げた。
俺も軽く挨拶を返し、佐々木の向かいに座る。
うーん、なんだろうな、これは。妙な違和感を感じる。
お冷やとお絞りを店員から受け取り、お返しにブレンドを注文する。
「そういや、今日は予備校なかったのか?」
おしぼりを使いながら、俺は佐々木の用件について思いを巡らせていた。
一体なんだろうな。気の重くなる内容でなけりゃいいんだけど。
この時の俺は、中学時代の友人である佐々木が日常とは正反対の存在に
仕立て上げられてしまったということをきちんと理解していなかったのだ
ろうと思う。我ながら学習能力がないといえなくもない。
「ああ、講義はサボった」
はあ? なんだって? 予備校について聞いたのは、別に佐々木の予備校
のスケジュールに興味があったわけじゃない。とりあえず、当たり障りの
ない世間話的な話題を振っただけの話だ。だが、佐々木がサボりだと?
「サボり、サボタージュしたと言った。ちなみにサボタージュとは……フラ
ンス語源の言葉でね。木靴で床や工場の機械を殴って不平を表明することを
いう。サボというのは、当時の労働者たちが履いていた木靴のことなのさ。
そこから転じて、わざと仕事の効率を落として生産力を低下させるという抗議
の方法がサボタージュと呼ばれるようとなったのだ。
それが、日本に伝わり、外来語ではよくあるように“サボタージュする”
が“サボる”に省略されたというわけだ。ブルジョワジーに対する抗議が怠
ける、怠けているという意味に変わってしまうあたりに、日本人の国民性を
見るような気がするのだが、キミはどう思う?」
勤勉を美徳とするのは悪いことではないんだろうけどなぁ。それが、他人
に努力することを強制するところにまで進行してしまうのも考えものだよな。
「ふむ、確かにサボるな、という言葉にはほかの人間はもっと努力している
というニュアンスが含まれているね。予備校なんてその最たるもの、だね。
ちなみに僕は病欠のような正当な理由を持たずに授業をボイコットするなど
生まれて初めてのことだ」
そりゃ、また貴重な体験をしたな。
口ではこんなことを言いつつも、俺の背中には冷たい汗が流れ始めていた。
わざわざ、平日に予備校を自主休講して、俺に伝えなければならないこと
がある。しかも、それは電話では不可能でありながら、学校そのものをサボっ
たり、俺の予定を変更させるほど緊急かつ重要な用件でもない。
俺と佐々木の間に、その微妙なプライオリティにふさわしい話題を俺は見
つけられない。辺りから、日常の香りが消え、非日常の匂いが漂い始めた。
いやいや、これから俺の身に起こることが日常だなんてうらやましいヤツ
もいるのかもしれん。だが、少なくとも俺にとってはアレは非日常の象徴み
たいなものだ。しかも、男なら誰もが憧れざるを得ない。そんな甘美で幻想
的な非日常だ。きっと谷口にとってもそうだろう……そうだといいな。ちな
みに国木田についてはわからん。
などと、長々と回想じみた妄想を続けるのには理由がある。そのぐらい、
その後の佐々木の発言が衝撃的だったのだ。
「すまないね、単なる繰り言でしかないけれど、聞いておいてくれ。これが、
……最初で最後だから。
ねぇ、キョン。僕はキミにとってどのような存在なのだろうか? 単なる
中学校三年時のクラスメイト、それだけでしかないのだろうか? 答えて、
くれないか。
二年前、僕は僕なりの方法で、キミにアプローチしていたのだが、僕らの
関係は変わることはなかった。傷心のまま、僕らは別れ、お互い進むべき道
を違えた。
そして、僕らの間の運命は再び交わった。
一年ぶりの再会の後に、キミが待ち合わせているのが、“あの”涼宮ハルヒ
だって知った時に僕の中にあふれた感情!
ああ、キミは僕の前を歩いていたから、気づかなかっただろうけどね。
あれはなんと表現するべきなのかな。
嫉妬? 後悔? 恐怖? ……だめだな、僕の矮小な感性ではぴったりな
言葉など見つからないようだ。
もっともそれは僕の表情にはよく表われていたらしい。
まったく“目は口ほどにものを言い”とはよく言ったものさ。
キミ以外のSOS団のメンバーは、僕の表情に、僕の感情にすぐに気がつ
いていたようだったね。もちろん、確かめたわけではないから、これも僕の
勝手な思い込みかもしれないがね。
その直後だよ。橘さんの企てに乗る気になったのは……橘さんは、あの会
合の時に言っていただろう。“やっとスタートラインに立てた”って。何の
ことはない。あれは僕のことだったのさ。くくっ、僕はキミの興味を引くた
めにあの集団を仕立てたのだよ。僕と涼宮さんの差を縮めるためにね。
ただ、ねぇ。個々のユニットの劣化っぷりは目を覆いたくなるほどだけれ
ど、ね。
そして、僕が君と別れてから初めてのアクティブな行動が、キミを呼び出
したあの電話だったというわけさ。情けない話じゃないか、あれは、僕が精
一杯の勇気を振り絞って行なったことだったんだよ……。
おや、初耳だって顔をしているね。それはそうだろうとも、キミはあの日、
SOS団と僕たちという集団に目を奪われて、僕という個人を見てはくれな
かった。あの時、橘さんと共に僕の内面世界だとかいう場所に行ったらしい
じゃないか、その感想だって“ねぇな”なんて素っ気ないものだった。
それで、僕の勇気もまた挫けてしまったのさ。もしかして、キミは、僕の
ことなんて、本当にどうでもいいと思ってるのではないか、とね。怖くなっ
たよ。『好き』って言葉を胸の中で繰り返すだけになった。誰であれ、他人
に拒絶されるのはイヤなものだろう?
僕の気持ちは二年前から変わってはいない。少なくとも僕はそう思ってる。
だけど、キミの気持ちはわからない。他人の心の中のことなんて何もわかり
はしないさ。わかるという人がいたなら、それは妄想だ、そう断じさせて貰
ってかまわないとすら思うね。
僕にとってのキミ、キョンとは中学三年のキミのことだ。去年一年間のキ
ミについては何も分かっていない。だから、さ。僕はキミとの新たなる思い
出を欲していた。キミに好意を寄せられる、そんな存在になりたい、そう思
っていたんだ。
そう、……涼宮さんのようにね。ああ、止めたまえ。そんな否定するよう
なそぶりをするのは。嫉妬とともに後ろ暗い感情が浮かぶじゃないか、キミ
は僕を生き霊か大蛇にしたいのかい。
でもね、どんなに変わろうとしたところで、キミのことはわからない。
キミに求められない存在になっても意味はない。
そして、キミが何を求めているのか、僕にはわからない。分かるのは僕が
未だにキミに未練たらたらの恋情を抱いている、ということだけだ。正直、
こんな話を聞いた所で、キミにとっては迷惑以上の何者でもないだろうね。
キミは、僕との友情を覚えていてくれた。忘れずに、いてくれた。ただ、そ
れだけでよかったはずなのに……。
でも、だからこそ、僕はひとつの疑念に囚われてしまった。キミにとって
の僕とは何だったのだろう、とね。
怖くなった。僕はキミに過去の友人として扱われることが怖い。中学三年
の時と同じような関係をもう一度、構築すること、維持することすら不可能
なんじゃないか? そう感じたんだ。キミとの間には友情があった、僕はそ
う思っていた。だけど、そんなものは僕の妄想に過ぎない。事実だけを言う
のであれば、キミにとっての僕は中学三年時のクラスメイト、そして同じ塾
に通った生徒のひとりに過ぎないんだ。まだ、僕よりも、国木田の方がキミ
に近いんだろう。
こんなことはホントは言うべきじゃない。
僕はきっと、今日のこの時をひどく後悔するだろう。でも、言わせてくれ。
……キミは、……キミは僕の気持ちに気が付いていたかい? 僕の心はキミ
に触れることはできたのかい?」
正直、何を言ったらいい。何を告げたらいいんだ。
冷静で、理知的だと思っていたヤツが熱烈に恋を語る。しかも、あり得な
いことにそれは俺に対する気持ちだという。佐々木は瞳を潤ませ、切々と俺
に訴えかけている。
佐々木さんや、恋なんて麻疹のようなものじゃなかったのか。
「何を言ってるんだ。麻疹だからこそ僕だって罹ってしまうのだ。今、思い
返せば、あれは僕なりのアプローチだったのだなぁ」
あんな分かりにくい恋の告白があるか。
「いやはや、まったくだ。この年で言うようなセリフではないが、僕も若かっ
た。まったくとんだ天の邪鬼だよ。恋になんて興味はない、そんな態度こそ
が興味がある証拠みたいなものだ」
マジなのか。いや、しかし……。佐々木はこんなことを冗談でもやるヤツ
ではない。そうなら、これは本気……いや、待て、待て。これはワナだ、何
かの陰謀なのだ。俺の人生にそんなうまい話があるわけはない。そうだよ。
どっかで、誰かがカメラ回しているんだろう? 俺は挙動不審にあたりを見
回す。そして、佐々木は俺の行動を見逃すようなヤツではなく、なおかつ、
それが俺のどのような考えに基づいてのことか、正確に理解できるのだった。
「キョン、銅鑼が鳴ったりはしないよ。それに、関羽も来ない。いまこの場
で録画録音盗聴盗撮の類は行なわれていない。それは僕が保証しよう。さす
がに、そんなことをされては明日から生きてはいけないしね」
佐々木はそう言って、唇の右側だけを引き上げて、悪魔的な微笑みを浮か
べた。佐々木さんや、そんな風に微笑まれると、今のセリフから説得力がさ
らさらと流れていってしまうんだけどね。それも計算の内なのか。
「キョン、キミが韜晦(とうかい)と誤魔化しがうまい朴念仁であることは
よく知っているよ。そして、場を流す才能に優れているってこともね。だが、
まぁここではその才能を発揮するべきじゃない。正念場というものは誰にだっ
てあるものだ。キミのそれは、今、この時、なのさ」
そんな風に勝手に俺の人生のクライマックスを持ってくるな、と佐々木に形
ばかりの抗議をしつつも、俺は結論のでない問いを頭の中でぐるぐると回す。
どうする。どうする俺。どうしたら、どうしたらいい。これがゲームなら、
ここで選択肢のひとつも出るだろう。だが、これは現実、冷たいリアル。
俺の目の前には選択肢も、メッセージウィンドウなぞありはしない。
……俺がこんな風に焦っていることからもう明らかだろうが、佐々木が俺
に対して持っているような、もっているであろうと思われるような感情を、
俺は佐々木に対しては持っていない。
そりゃ、中学時代ってんなら話は別さ。だけどそれは二年前の俺の話なの
であって、今の俺とは何ら関わりはない……とまでは言わないが、まったく
のイコールで結ばれる存在ではないのだ。考えても見てくれ、15の頃にだぞ、
一年間で一番顔を合わせたツレが女の子なのだ。そりゃ、そんな気持ちがまっ
たくなかったら、それはソイツが女に興味がないゲイだってだけの話ではな
いか。そして、俺はゲイではないのだ。
だが、それを素直に言ったら、佐々木は傷つくだろう。それは、こうなっ
てしまった以上は、どうにもしようがないことなのだろう。とはいえ、でき
れば避けたい。しかし、どんな言い方をした所で、俺の気持ちが……。
ん、なんだろう。俺、どうかしているのか。なんか、目の前の佐々木が妙
に愛しく感じる。俺を見つめるふたつの瞳には不安の色が濃い。だが、しっ
とりと濡れた黒色で水晶のように輝く瞳はとても魅力的だった。
唇が乾いていた。たまらず、お冷やを一口含む。
「俺は……」
のど元まで、言葉が出る。だが、止まってしまう。なんだよ、俺。女の子
にここまで言わせて、何もしないのはどうかしてるぜ。だが、俺の口からは
佐々木に対する回答の代わりに適当な疑問が、時間稼ぎの質問があふれ出た。
俺はよくわからんのだが、佐々木よ。お前は俺の何がそんなに気に入った
んだよ。
「さあ、分からないよ。そのことなら、この二年間何度も自問自答したよ。
分かっていたなら、対策も取れただろうに」
佐々木はあらかじめ用意していた解答を読み上げるように、するりと答えた。
俺には何の取り柄もない。顔だって十人前、スポーツも勉強も人並み以下だ。
俺の顔を見て、得る感想なんていいところ、冴えない、だ。
「そこまで、ひどくないと個人的には思うがねぇ」
慰めてくれてありがとうよ。
「ただまぁ、あばたもエクボというからね、僕のキミに関する評価はまった
くもって公正なものではないのだけど」
喜んで損をしたか?
「高校生の頃の美醜など大した意味をもたないよ、僕らは成長期だ、身体を
作っている最中だからね。そりゃ、不摂生は慎むべきだが、必要以上に悩む
ことでもない」
そりゃ、お前が世間一般から見ても、美形に入るからそんなことが言える
のだ。持つものは持たざるもののことは理解できないものだ。
俺のセリフを聞いていた佐々木の顔に暗い影が落ちる。
……しまった。地雷踏んだか?
「そう、僕にはキミの気持ちは分からない。今、僕はとても怖い。だけど、
もう、引き返せないんだ。なんの波風も立てずに植物のように生きていたい。
昔、そんな話をしなかったっけ」
さてね、答える代わりに肩を揺らした。
お前とは、いろんな話をしたさ。いちいち覚えちゃいないが、あの会話で
できたものがいまの俺の何分の一かを占めているのは間違いないだろうな。
「人間を構成する全細胞はおおよそ五年で入れ替わるそうだから、二年前の
キミは、今のキミの中で六割程度しか残っていないことになる。もし、その
中の何分の一かを僕との会話で生まれたものが占めているというのなら、そ
れはとても嬉しいことだね」
自分を縦に五等分した図を想像してしまったではないか。
「ふふ、そして入れ替わった四割のほとんどを涼宮さんが占めているわけだ
……自分で言っておいて何だが、それはとても……ああ、この気分はイヤだ、
とてもイヤだな」
そんなにお前とハルヒが合わないとは思っていなかったな。そう言うと、
佐々木は頭を振って俺の言葉を否定した。
「あ、ああ、違うんだ。涼宮さんがイヤだと言っているわけではないのだ。
イヤなのは僕の心さ。一年あまり僕とキミには接点はなかった。キミの中に
新しい僕が刻まれるはずはない。そんな当然のことを想像して、そのことに
嫉妬して心を乱している僕の中の情けない自分がイヤなのさ」
自分のことが好きだと告白してきた女子に、いま一番親しいといっていい
相手に対して、嫉妬しているという風に言われることなんざ想像すらしてい
なかった。
一応言っておくが、俺とハルヒは、別に男女の付き合いをしているわけで
はないんだ。そこの所は誤解しないでくれよ。
「ふぅ、2年前の僕と涼宮さんは同じ状態なのだろう。もっともそれは僕の
勝手な想像、いや妄想だけどね」
妄想って、お前ね。半ばあきれつつ俺はそうつぶやいた。
「さっきも言ったじゃないか、他人の気持ちが分かるというのは傲慢な行為
さ、この世の誰もが、心の奥底で、絶対の孤独を抱えている」
なんだかな、さみしい話だ。
「そうだね、寂しい話だ。針ネズミのジレンマ、さ。聞いたことぐらいある
だろう。近づきたいけど、これ以上踏み込んだら、身を守るために生やして
いる互いの針によって傷ついてしまう」
好きな相手を傷つけてしまう。好きな相手に傷つけられてしまう、か。
「ねえ、キョン。聞いてくれ。僕は踏み込みすぎてしまったようだよ。自分
の生殺与奪権を他人に与えるというのはなんと恐ろしいのだろう。これが、
こんな苦しみを与えるものが恋だというのなら、僕はもう恋なんてしない」
ずいぶんと、詩的じゃないか。恋は人を詩人にするってヤツかな。
「うふん、そうかもしれないね。くつくつ、さすがはキョンだね」
佐々木は納得いったとばかりに、頷いて、薄く微笑んだ。佐々木特有の水底
からあがってくるあぶくのような笑い声がそれに続いた。しかし、どうした
ものだろう。何が起こっているのか、よくわからない。さっきから、佐々木
がキラキラと輝いて見えるのだ。右手は無意識的に目をこすった。瞳の中に
ちらちらと星が飛ぶ。
「どうしたね、キョン?」
いや、なんでもねぇよ。どうしたものかと思ってね。
「すまないね。こちらは2年間ため込んだ重荷を下ろして清々しい気分になっ
ているところだ。元旦の澄み切った朝の空気を深呼吸しているような気分さ」
おろしたてのパンイチってヤツだな。ま、その重荷は丸ごと、俺のハート
に投げ込まれたわけだ。
「まだ、ホンの数分じゃないか。僕の二年に比べればなんてことはないさ。
少しはその重さを楽しんでおくれよ。僕としてはキミは、こんな事態に慣れっ
こで“美少女から告白を受けるたびにダイムを貰っていたら、今頃大金持ち
さ”なんていうような人間ではないと思っているのだけれども、ね」
そんなくだらないセリフをいえるようなヤツがいたら、ぜひ会ってみたい。
同じ人間とは思えない。恥ずかしい話だが、俺の人生で初めての体験づくし
さ。というより、こんなイベントが俺の人生用に存在していたことに一番驚
いたね。
「なるほど、僕はキミにとって初めての女になるわけだね。それは光栄だ。
今日という日を僕のカレンダーに記念日として記しておくよ」
その表現はやめれ、高校生女子が言うには刺激が強すぎる。
「さて、どうかな、考える時間は十分にあったと思うのだけどね。キミとこ
んな風に無為な会話を続けるのはとても楽しいし、僕がこの2年で一番欲し
かったのはこんな時間だと断言することもできるけれど、そろそろキミの答
えが聞きたいと思う。これ以上は僕の感情をうまく抑えることができそうも
ない」
これ以上は流されないぞ、そう断言されてしまった。さっきから、佐々木
のことがまぶしくて仕方がない。どうしたことだろう。ひとつ、咳払いをす
る。佐々木の顔に緊張が走る。俺はゆっくりと口を開いた。
佐々木、正直に言うととまどっている。今の事態を受け止め切れていない。
だけど、ひとつだけ、ひとつだけは言える。中学の頃、俺はおまえに憧れて
いたよ。あ~~、やっぱり、違うな。あの気持ちを表わすよい言葉が思いつ
かない。仕方がないから、思いつくままに言うぜ、結構恥ずかしいな。俺は
おまえがイイなってそう思ってた。世間の雑音をシャットアウトして、他人
に自分を合わせるのではなく、他人に自分を認めさせていたよな。
佐々木はちょっと困ったような顔をして耳にかかっていた髪の毛をなでつ
けた。
「ふむ、なるほどね。中学時代の僕をキミはそのように見ていたのか。ほめ
られているととってもいい、のだろうな。これは」
ほめてるよ、尊敬していた……う~~ん、コレも違うな。俺はもっと現国
を勉強しておくべきだな。表現力が足りないぜ。圧倒的に。とにかくさ、俺
はお前の理屈っぽいところが嫌いじゃなかった。お前がさまざまなことに講
釈を垂れるのを聞くのは嫌いじゃなかった。ま、苛ついてるときとかはウゼェ
とか思わないでもなかったけどな。お前がそう思ってくれていたように、
俺はお前と何の役にも立たない話をしたり、聞いていたりする。そんな、空
気が、時間が大好きだった。夏期講習の昼休みにマクドで夏の甲子園の経済
効果について講義されるのも、人間の皮膚感覚とエアコンの温度設定の話を
聞くのも、同じように好きだったんだ。今、思い返すなら、俺はお前が好き
だったんだろう、だけど。
「だけど?」
佐々木は冷め切ったコーヒーカップを温めるように両手で持ちながら、続
きを促した。
俺はゆっくりと、言葉を選んだ。そして、言った。格好よく、綺麗になん
か装飾できなかったから、思うままに口に出した。
俺は、あの空気が男女になるのがイヤだったんだよ。ハリネズミのジレン
マだよな。もっと近づいていたら、もっと気持ちよかったのかもしれない。
お前との時間がもっとすばらしいものになっていたかもしれないよな。だけ
ど、そうじゃないかもしれなかった。俺はお前に拒絶されていたかもしれな
かった。
「そ、そんなことは……」
いや、ほら、中学時代の話だからさ。恋人になっても、振られてしまって
も、どちらに転ぶにせよ、あの空気はもう味わえなかっただろう。佐々木、
あのときの俺は、あのままでいたかったんだ。あの気持ちのよい空間をその
まま維持していたかったのさ。勇気とかそういう問題じゃない、恋よりそっ
ちを選んだのさ。
「……そうだね、キョン。僕も、僕もそう思っていたよ。そして、キミがそ
う思っていることも、うすうすは感じていた」
まぁ、そうだろうな。俺もお前も、お互いに踏み込まないようにしていた
んだよな。
「……そして、僕の二年越しの初恋も……これで終わりだ」
佐々木はしみいるような声音でそう、ささやいて、一粒の涙を流した。
覚悟していたとはいえ、真っ正面に座る女の子の涙はズキリと来るな。喫
茶店の周りすべてが俺と佐々木のやりとりに聞き入っているような気がする。
ま、自意識過剰なのはわかってるけどな。
「ありがとう、キョン。言いにくいことを話してくれて。そして、僕は僕の
愚かさに、悲しみすら覚えるよ。そうだね、あのころの僕らに恋は必要なかっ
た。それは僕が一番よくわかっていたはずなんだけど、ね。まさに言うは易
く行うは難しだな」
そんなこと言うなよ、麻疹のようなもの、なんだろ。罹りたくて麻疹にな
るヤツなんかいねぇよ。
佐々木はハンカチを取り出して、涙をぬぐい、晴れやかな笑顔を浮かべた。
「さ、キョン、昔の話はもういいだろう。新しい話をしようよ、新しく僕ら
の間に生まれる空気と僕の新しい恋について語らせて貰うよ」
……あれ?
「僕は認識を新たにしたのさ。三月のあの日、僕はキミに出会った。あの時
には、もう僕はキミのことが好きだったのだ」
……え~と。佐々木さん、何を言っているのですか?
「だから、僕の新しい恋の話さ。友達時代はもういいよ。あの頃の僕らの心
は通じ合っていた。それがわかったんだ、もうそれはそれでよい。だから僕
は次の段階に進むとする。僕はキミのことが好きなんだよ、キョン。男友達
を好きになっちゃいけないってルールはないだろ?」
そりゃそんなルールはないな。つうか恋愛にルールブックがあるのか?
あるなら、是非一度拝見したいもんだ。
「僕も見てみたいな、キョン、書いてみたらどうかな?」
勘弁してくれ、そんな本が書けるのは、“美少女から告白を受けるたびに
ダイムを貰っていたら、今頃大金持ちさ”なんていうような人間ぐらいだろ。
佐々木は、じゃれつく子猫のように笑った。かつて聞き慣れていた、いま
聞くと新鮮な笑い声が俺の耳をくすぐる。やっぱり俺の目には、佐々木は輝
いて見えた。この新しい友達との間に生まれる空気は、かつて中学時代に好
きだったあの空気とは違っている。だけど、あれはあれ、これはこれだろう。
俺の知らない一年を積んだ、この変な女が一体どんな話をしてくれるのか、
それを楽しむのは決して悪いことではない。そんな風に感じていた、そうまっ
たく悪い気分じゃない。