1
信玄が遠江侵略を本格化したのは元亀2年のことである。
この行軍を担当したのは、駿河方面の司令塔である山県昌景と、宿将馬場信春である。
元々大井川を境に、東の駿河は武田、西の遠江は徳川と取り決めてあったのだが、秋山
伯耆守信友の北遠江侵入が先とも、徳川の今川氏真・北条氏康との同盟が先とも言われる
両者の行動の食い違いから、もはやその約定は有耶無耶になっていた。
信春の築城した駿河田中城には昌景の城代が入っていた。これを拠点に武田軍は徳川方の
遠江小山砦を陥落させた。
これまでも小山砦は徳川方との小競り合いの舞台になっていたが、これを本格的に武田方の
出城にする為に、攻略に先立って信春は信玄より修築の命を受けていた。
彡`Д´ミ信春「よいか、剛健で鳴る三州兵に耐える出城でなければならん!」
この時既に57歳。老いを感じさせぬ大音声で、自ら普請の現場に出ていた。
(・A・)昌世「まだまだお元気のようですな、美濃様」
彡`Д´ミ信春「む、内匠ではないか。来ておったのか」
(・A・)昌世「山本流の築城術を見れると思いまして」
彡`Д´ミ信春「お主もとうとう城持ちであるからのう。・・・ところでその城は良いのか?」
(・A・)昌世「小田原の左京大夫が没してより、駿相の国境は静かなものでしてな。同盟が
回復した今となっては、某が詰めきっている必要も御座いません。――そういえば
獅子の小倅も左京大夫でしたか」
彡`Д´ミ信春「はっは、ややこしいものだの。儂も美濃守と改めておらねば我が子ともども
民部であったがのう」
元々信春は教来石民部少輔景政、馬場民部大輔信房と名乗っていたが、鬼とも夜叉とも言われた
猛将原美濃守虎胤の没後、その受領名をあやかったのである。
信春の嫡男民部少輔昌房は、父の本城である信州深志の城代として信濃経営に携わっている。
(・A・)昌世「しかし・・・あの教来石様が、お孫が出来てもよいようなお歳になられたのですね」
彡`Д´ミ信春「相も変わらず年寄りじみたことを言う奴よ。ま、ゆるりと見てゆくがよい」
昌世は信春の言に従い、十余年前に見た、かの山本道鬼斎の築城を思い出しながら、その弟子
信春の現場をくまなく見て回った。
もう既におぼろげになってしまった道鬼斎の教えも、少しずつ思い出していた。
(メД゚)道鬼斎『城というのは、敵を打ち破る為にあるのじゃい。人が住む、軍が休むなどというのは
その目的の為の方策に過ぎんのじゃい』
昌世は頭の中で、完成した小山城に敵が向かってくる光景を思い浮かべた。
寡兵の城兵は、それでも巧みに寄せ手を翻弄し、敵を打ち破っていた。きっと、信春はよき弟子
であったに違いない。
2
帰り際、昌世は再び信春と顔を合わせた。
(・A・)昌世「よく勉強になりました。道鬼斎様を思い出しておりました」
彡`Д´ミ信春「そうか・・・そうか。うむ、それは何よりじゃ」
(・A・)昌世「では某はこれにて帰りまする」
彡`Д´ミ信春「うむ。・・・あ、内匠よ」
(・A・)昌世「は・・・」
彡`Д´ミ信春「これからの我らの動き、お主はどう見る?」
(・A・)昌世「・・・じきに織田とは手切れになりましょう。一両年の内には三河、濃尾を切り取り、畿内へ進む、と」
彡`Д´ミ信春「儂も同意じゃ。・・・ようやく、武田の旗が京に立ち上ることになるのう」
(・A・)昌世「はい」
駿河侵攻を始めてより、武田は敵に囲まれ、あわやという状況にあった。それが、幾つかの状況が
ひっくり返るだけで、たちまちその包囲が霧散してしまった。
今となっては、前にも後ろにも、武田の邁進を阻むものは、前にも後ろにもないようなものである。
あるとすれば一つ。上杉輝虎、入道して謙信の、関東出兵である。
しかし、翌元亀3年初頭、上野で信玄と対峙した謙信は、北条との手切れもあって思うように戦えず、
越中方面で一向宗門徒も蜂起した為、越後へ戻らざるを得なかった。
晩秋。信玄は三万弱の兵力を動員し、これまでにない規模の一大遠征を決行した。
3
9月下旬、山県三郎兵衛尉昌景の率いる五千の先発隊が甲府を発ち、三州街道を東三河へ向かった。
また、別働隊として秋山伯耆守信友の三千の軍勢が美濃へ侵攻し、予てより切り取りを進めていた東濃の
岩村城を開城させた。
10月3日には信玄率いる二万の本隊が青崩峠を越えて遠江に侵出した。この本隊の旗本に、検使役として
昌世も参陣している。
徳川家というのは、元々は三河の小大名に過ぎない。徳川領の土豪というのは、元々は徳川の同僚であった。
当然、自らの危機となれば敵に降るし、調略もし易い。
10月10日、既に信玄本隊は遠州犬居城に入り、あっという間に天方城、飯田城、各和城などを開城させた。
あまりに順調すぎるので、各隊間の連絡も百足衆だけで事足りていた。多少の小競り合いに参加する
馬場隊はともかく、旗本に組み入れられた者にとっては退屈であった。
( ´゚ω゚` )守友「他愛ないものだな」
(・A・)昌世「此度の戦陣は御屋形様が出陣を決意なされた時点で勝っていたようなものだからな」
(’ー’*)昌信「既に掛川と浜松を繋ぐ後詰の行路を分断した。山県も岡崎と浜松の分断の為に動いている。
浜松は孤立しつつあるんだ」
(・∀・)昌幸「弾正様の申される通り。されど、久野城は堅牢な城だけに、そう簡単にはいかないでしょうね」
( ´゚ω゚` )守友「おぉっ!すると、久野城攻めこそは拙者らの出番だな」
(’ー’*)昌信「いや、残念ながらそれはない」
( ´゚ω゚` )守友「な、何故で御座りますか!?」
(・A・)昌世「久野城に二千や三千の兵が入っているなら別だが、所詮は小城に過ぎないからな。
手間取ってはいけない」
(’ー’*)昌信「落ち込むな、三枝。まだ二俣と、それに浜松も残っている」
( ´゚ω゚` )守友「浜松はともかく、どうして二俣城なので御座るか?あれもそれほど大きい城では・・・」
(・∀・)昌幸「宗四殿、我らが浜松へ向かっている時に敵の残党が集まるとしたらどこでしょう?」
( ´゚ω゚` )守友「迂回して浜松勢に加わるか、後ろに回って挟撃・・・あっ」
(’ー’*)昌信「二俣は放っておけんし、簡単に落ちる城でもないからな」
( ´゚ω゚` )守友「よし、その時こそ拙者らの出番!」
二俣城は一度、只来城を落とした馬場美濃守信春が四千の兵で攻めたが、びくともしない為、わずかな
抑えを置いて信春は本隊に合流していた。
4
10月14日、武田軍は久野城を囲んだ。これがすぐに落ちないと見ると、昌世や昌幸、高坂弾正忠昌信らの
考えた通り囲みを解いて、西へ向かった。
この時、ようやく徳川軍は支城の後詰に動き出し、四千の兵で出陣。大久保七郎右衛門尉忠世、内藤豊前守
信成、本多平八郎忠勝らを物見に向かわせたが、これが武田軍に見つかり、内藤修理亮昌豊、小山田
左兵衛尉信茂が三箇野川でこれと交戦した。
徳川軍は浜松目指して退却するが、今度は馬場隊が一言坂で武田軍に追いついた。
殿軍の奮闘もあって徳川軍は命からがら浜松に逃げ帰るが、徳川三河守家康はこの敗北によって、この状況下
での後詰の難しさを痛感するのである。
10月も下旬に差し掛かると、武田軍は二俣城攻めに取り掛かった。馬場信春、穴山玄蕃頭信君らが徳川の後詰に
備えて南方に布陣し、四郎勝頼と典厩信豊がこれを攻めた。
しかし、河川に守られた要害だけあって、この二人の軍勢を以ってしても攻略は難航した。やがて三河方面から
山県隊合流し、包囲に加わった。
( ´゚ω゚` )守友「義父上も参られたことだし、四郎様方に代わって今こそよき姿を見せる時!」
(・A・)昌世「兵糧攻めとなるそうだ」
( ´゚ω゚` )守友「・・・・・・」
旗本らの退屈をよそに、日にちをかけての兵糧攻めが決まった。甲信と比べて東海の気候は温暖なので、
武田兵の士気に大きく影響することはない。
食料、水ともに城内の蓄えは豊富であり、武田軍は丸二ヶ月を二俣城包囲に費やすことになってしまう。
この間にも徳川軍が後詰に出ようとしたが、馬場信春と穴山信君がこれを防いだ。
12月に入るとさすがに水も尽きてきたのか、城兵が城の天竜川沿いに設けられた井楼から水を汲むように
なったので、勝頼は筏を組んでこれにぶつけるという方法で水の手を絶った。
同月19日、ようやく二俣城は降伏した。
5
22日、武田軍は二俣城を発ち、秋葉街道を浜松へ向かって南下した。ところが、有玉のあたりまで
来ると、進路を西に転じた。
(´∀` (彡信玄「内匠よ。このまま三方ヶ原を過ぎ、祝田の坂を降りると、三河はどう思うかのぉ?」
(・A・)昌世「まさに好機到来・・・ではそれを利用して?」
(´∀` (彡信玄「まぁ、来ないなら来ないで構わんのじゃがな。ここまで来ても味方を助けに行けぬ大名に、
誰がついてくるものか」
(・A・)昌世「詰み、で御座りますね」
(´∀` (彡信玄「まだじゃ。我らが壊滅する恐れがあるとすれば、いつになるかの?」
(・A・)昌世「反転し、陣を組みなおす時こそ」
(´∀` (彡信玄「その通りじゃ。物見と検使が肝要になる。頼むぞ」
(・A・)昌世「ははっ」
武田軍は追分で休止をとり、信玄の策を説明。通常とは逆の、つまり小荷駄を先にし、先鋒を最後尾に
つける形をとった。
そして、そこから姫街道を北へ向かう。この頃から、物見に出ていた加藤丹後守景忠や室賀山城守信俊
といった旗本の面々が、徳川勢を確認するようになっていた。
(・∀・)昌幸「こちらを伺っていると見て間違いないでしょうね」
(・A・)昌世「うむ。だが、出てきたが最後。こちらが乱れさえしなければ、もう勝ちだ」
武田軍は徳川軍の動きに気づかない風を装って、三方ヶ原の台地を北上した。
やがて、最前を行く小荷駄隊が台地の北端へ到達した。
(・A・)昌世「甘利隊が祝田の坂にさしかかったな」
(・∀・)昌幸「これよりが勝負ですね」
(・A・)昌世「徳川三河守も然る者。油断は出来ぬな」
やがて、徳川方の物見が武田軍は祝田の坂を下り始めたと判断したのだろう。徳川軍は一気に速度を上げた。
物見「徳川軍、後方より気勢を上げて向かって参ります!」
(´∀` (彡信玄「さて、行けい者ども」
検使旗本衆「ははっ」
祝田の坂の手前で、武田軍は反転し、最後尾の小山田隊、山県隊を先頭とした陣形を迅速に組み始めた。
しばらくして、甘利郷左衛門尉信康の小荷駄隊も坂を駆け戻ってきた。
6
徳川軍は祝田の坂の始まりを囲むようにして鶴翼に布陣するべく駆けてきたが、その時既に
武田軍は反転を追え、魚鱗の陣を構えていた。
兵力で勝る場合には、両翼で敵を囲みこむような鶴翼の陣は有効であるが、寡兵の状態にあり、
しかも敵が万全を期した構えである場合には愚策としか言いようがない。
徳川三河守家康は、必勝の急襲を、必敗の失策に変えられてしまったのである。
動くに動けなくなった徳川軍は、じりじりと武田軍の攻撃を待たなければならなくなった。
だが、信玄は軍配を振らない。
検使から戻ってきた昌幸が、合流した昌世に言った。
(・∀・)昌幸「もう日が暮れますね」
日が暮れてしまっては、むざむざ徳川軍を逃すことになりかねない。
徳川が、じっと動かずに耐えているのも、それが狙いなのだろう。
(・A・)昌世「御屋形様・・・?」
(´∀` (彡信玄「まぁ、しばし待て。いま百足を左兵衛に送ったところじゃ。ゆるりとやればよい」
(・A・)昌世「・・・夜戦に持ち込むので御座るな?」
日が沈もうとする頃、信玄の指示を受けた小山田左兵衛尉信茂隊が行動を開始した。
(-@∀@)信茂「印地打ちは郡内起源!」
徳川軍のすぐそばまで駆け出してきて、石礫を一斉に徳川軍の先陣に投げつけて、また元の
ところまで退いていったのである。
緊迫状態にあった石川伯耆守数正隊の先鋒が半ば衝動的に駆け出すと、釣られて隊全体が
武田軍の先陣に向かっていく。
これを山県隊が蹴散らしたので、大須賀五郎左衛門尉康高隊と本多平八郎忠勝隊が駆け出して
全面衝突の様相となった。
(´∀` (彡信玄「喜兵衛、勘解由。その方ら、四郎の当たりまで出てみるかの?」
( ´゚ω゚` )守友「是非ともに!」
(・∀・)昌幸「よろしいのですか?」
(´∀` (彡信玄「この戦、検使の備えは内匠のみにて大丈夫じゃ」
前線に加わった守友、昌幸はこの戦いでも戦功を挙げたと云う。
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さて、山県隊に出鼻をくじかれたとはいえ、石川隊は徳川軍の主力の一つであり、大須賀隊や
本多隊も勇猛で成る三河武士の先鋭であった。
特に二月前の一言坂での小競り合いで、馬場隊を相手に奮闘し賞賛された本多隊は手ごわく、
圧倒的な武田軍に対してまたしても善戦している。
(´∀` (彡信玄「さてさて、三河も中々やるものじゃのう」
(・A・)昌世「・・・調子に乗せてみては如何で御座いましょう?」
(´∀` (彡信玄「乗ってくるかのう」
(・A・)昌世「すぐに引き揚げなかった以上は、乗るものと思いまするが」
(´∀` (彡信玄「そうさのう。隼人、どうじゃ?」
{´昌`}昌胤「先陣の崩れで乱れる四郎様、美濃守殿では御座りますまい。修理亮殿もおられまする」
(´∀` (彡信玄「うむ。内匠よ、三郎兵衛と左兵衛に、崩れよと命じるのじゃ。わかるな?」
(・A・)昌世「はっ、承りました」
昌景の本隊が少し後退するだけで、山県隊先鋒の山家三方衆らは崩れた。彼らは徳川から
武田に鞍替えしたこともあって、徳川軍の攻撃が特に集中した。
山県隊の後退に同調して小山田隊も下がり、それに噛み付くように徳川軍の先陣が向かってくる。
更に大きく後退したので、徳川軍が次々と先陣に続いて武田勢の中心に突き込んで行った。
すかさず穴を埋めるように内藤隊が両隊の後退を援け、馬場隊と勝頼隊が伸びた徳川軍に横槍を
突き入れたのである。
この攻撃で徳川軍は混乱を極め、小荷駄隊の攻撃にすら脆く崩れ去るほどに瓦解し始めていた。
(㍾・_・㍾)昌次「おう、孫次殿」
(・A・)昌世「平八か」
駿河攻めなどでの昌世の槍働きを認めていた昌次は、以前よりもずっと親しげに昌世を呼び止めた。
(㍾・_・㍾)昌次「四郎様の采配の見事なことで御座るよな。御当家もよき跡継ぎに恵まれたものだ」
(・A・)昌世「まったく。三河武士といえば東海一の武辺者達と聞くが、それをなあ」
(㍾・_・㍾)昌次「うむ。しかし敵も然る者で御座る。劣勢、混乱にありながらも、我が方へ向かってくる」
(・A・)昌世「恐ろしき者たちだ。ところであちらにも平八郎なる猛将がおるな」
(㍾・_・㍾)昌次「三河守に過ぎたるものなどと言われておるようで御座るが、俺などは御屋形様に
過ぎたることなどない。さて、どちらがよき主従かな」
(・A・)昌世「ふふ、そは言うまでもないことであろうよ」
(㍾・_・㍾)昌次「しかし、本当に過ぎたる者達よ。見られよ、孫次殿。奴ら、前に倒れるならうつ伏せに、
後ろに倒れるなら仰向けに倒れておる」
(・A・)昌世「なんと。これはそうあることではないな」
(㍾・_・㍾)昌次「よき武士どもかな。孫次殿、俺も槍を合わせたくなってきたので、前へ押し出て参る!」
言うや、昌次は手勢を率いて徳川の本陣を目指した。
この時昌次は、将でありなが家康旗本の鳥居忠元という剛勇の者と一騎打ちを演じ、これを討ち取っている。
この一騎打ちを見てもわかるように、徳川方の旗本が戦列に加わらねばならないほどに戦局は傾いてきていた。
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徳川軍の諸隊は次々と潰走していった。徳川軍は死者だけで千三百にも上ったという。
山県隊、内藤隊、馬場隊が残敵を掃討しながら、旗本衆とともに逃げる家康の猛追撃にかかった。
(`・ω・´)昌景「全力で追うのだ!」
( ^ω^)昌豊「徳川三河守を逃がすなお!」
彡`Д´ミ信春「浜松まで追い詰めい!」
しかし、高坂弾正忠昌信はこの流れに反して、
(’ー’*)昌信「深追いはやめるべきです」
諸将の追撃をとどめた。
(’ー’*)昌信「勝利は六分七分が最もよく、八分は危うし。十分の勝ちは大負けの因というのは
御屋形様が常日頃より申しておられます」
これは若き頃より信玄の側にあって寵愛を受けてきた昌信らしい慎重論であった。
(’ー’*)昌信「常に初心に帰ることを志す三郎兵衛殿はよしとしても、私も含めて他の皆々様方が
驕ってしまうことは充分にあり得ること」
(´∀` (彡信玄「弾正の申すこと尤もじゃ。そもそも夜襲を選んだのはその為じゃ。それに、三河の
戦いぶりは天晴れ。織田を討った後、幕下に加えたいものじゃよ」
城の門を全て開けっ広げにした家康の大胆不敵さを見て、諸将も冷静になって昌信の意見を容れた。
こうして浜松城を放置したまま、武田軍は西を目指すこととなった。
9
武田軍は刑部に宿陣した。三方ヶ原の戦勝を受けて織田軍は岐阜へ、そしてあろうことか朝倉軍も
一乗谷へ、小谷近辺の陣を引き払い、帰国したから、というのが表向きの理由だった。
だが、それよりももっと重大な理由が武田にはあった。信玄の体調が急変したのである。この為に
武田軍はこの地で越年することとなった。
それでも翌元亀四年の1月3日には先鋒が野田城へ行軍を開始し、7日には本隊も出立した。
信玄の命によって急な力攻めはなされず、これは一月以上もかけて水の手を断つ方法で2月15日に陥落した。
戦後処理を済ませ、四郎勝頼隊、典厩信豊隊、穴山玄蕃頭信君隊を背後への押さえとして置いて
三河吉田城を目指した、その時である。
――信玄が倒れた。侍医達は、これ以上の行軍は危険であると診断し、水の手が切れた野田城ではなく
長篠城へ信玄が運ばれた。ほどなくもっと環境のよい鳳来寺へと移っている。
3月9日、武田軍は三州街道から信濃を目指した。同日、馬場美濃守信春が陽動として東濃に侵出している。
宿老達の合議によって、あくまで信玄には美濃へ向かっていると装うように決められていた。
信玄の体調は、小さな上下を繰り返しているようで、気絶したように眠ることもあれば、上体を起こして
駕籠の外の者へ話しかけることもあった。
(´∀` (彡信玄「喜兵衛よ」
(・∀・)昌幸「はい、御屋形様」
(´∀` (彡信玄「もうじき、岐阜か?」
(・∀・)昌幸「然様で御座います」
今までと変わらぬ様子で、昌幸ははきと答えた。
(´∀` (彡信玄「内匠はおるかの?」
(・A・)昌世「ははっ、これに」
(´∀` (彡信玄「弾正大弼はどうでるかの?」
(・A・)昌世「岐阜は織田の本城で御座いますから、江南、湖東を捨ててでも二万、三万の兵を
集めましょう。されど、一両日の内にも四郎様と三郎兵衛様の勢が岐阜城下に迫る手はずで御座います」
昌世もまた、変わらぬ様子で、自らの意見を信玄に伝えた。
(´∀` (彡信玄「・・・内匠」
(・A・)昌世「は?」
(´∀` (彡信玄「やはり、信濃はよいのう」
(・A・)昌世「!」
だが、領国を愛した信玄を、病であるとはいえ言葉だけで欺くことはできなかったのである。
(´∀` (彡信玄「弾正大弼は、どうでるかの?」
(・A・)昌世「・・・その主力を、江北に向けるものと」
(´∀` (彡信玄「そうじゃなぁ・・・。儂の死は、何としても秘さねばならんのう。そう、三年ほどはのう・・・」
昌世には、その言葉がどこか信玄の義務感ではなく願望であるように聞こえた。
10
4月12日、信州駒場にて武田信玄は没した。
この直前に信玄は、山県三郎兵衛尉昌景に「明日は瀬田に旗を掲げよ」と命じた。
そこには、どれだけの想いがこめられていたのだろうか。
四郎勝頼は、信玄の実弟刑部少輔信廉を信玄の影武者に立てて甲府への帰還を下知した。
(;A;)昌世「・・・御屋形様、よく見て、戦う前に勝つのではなかったので御座りませぬのか・・・!」
外のことで予想外が起こるならばまだしも、内のことで予想外が起こるなど、全く以って信玄らしからぬことだった。
それとも、知っていての無理だったのであろうか。
(;A;)昌世「ならば某は、まだまだ御屋形様の片目になど及びませぬ・・・っ!」
そして、時代の流れが、昌世に信玄の眼に及ぶことを阻むのである。
最終更新:2009年12月15日 20:39