1
関東より凱旋すると、武田軍は再び碓氷峠を越える姿勢を見せて北条の注目を駿河から逸らした上で駿河に侵攻した。
同年11月には興津城を落とし、これを侵攻の足がかりとする。次いで蒲原城を勝頼以下、
信豊や昌次、昌幸といった若手で一気に落とすと、薩タ峠に居残っていた北条勢を蹴散らし、
今川家臣岡部正綱を調略して年内に駿河府中を手に入れた。
駿府城に戻っていた今川氏真は再び北条領へと追われることになる。
駿府を手に入れると、信玄は途上のまま放棄していた江尻城の築城を再開させ、同時に東西の諸城を得る為に軍勢を送った。
焼津に進んだ勝頼軍は、永禄十三年正月、今川旧臣の大原備前守資良がこもる花沢城を包囲する。
この資良、義元時代から猛将として知られる人物で、元は三州吉田城主として三尾の戦略に大きく関わってきた。
氏真からの信任も篤く、離反した松平(徳川)と、それに従う諸豪に対する先鋭となっていた。
そんな猛将がこもる城だけに、城兵の抵抗は強い。特に鉄砲は激しく、城門前に進んだ勝頼本隊がすぐに引き下がるほどであった。
<丶´`A´`>釣閑「四郎君が怪我をなされてはいかん。御屋形様に申し上げ、後退を願おう」
長坂釣閑斎の意見が容れられ、勝頼隊は大きく後退。その後改めて攻撃隊が編成された。
その先鋒は三枝勘解由左衛門尉守友、武藤喜兵衛尉昌幸、曾根内匠助昌世の三将である。
( ´゚ω゚` )守友「さて、如何致そう?」
(・A・)昌世「付け込むべきだ。城内に備えがあるとは思えぬ。鉄砲も撃ち掛けてきているもので精一杯であろう」
(・∀・)昌幸「同意です。我らが先頭に立って突っ込めば、多くはない城兵ですから、勢いを失うでしょう」
( ´゚ω゚` )守友「うむ、拙者もそう思う。――内匠助、喜兵衛尉、誰が一番槍か競わんか?」
(・∀・)昌幸「イイ!」
(・A・)昌世「・・・よかろう」
( ´゚ω゚` )守友「実は拙者、駿河攻めが終わったら、あるお方と結ばれたいと思ってるんだ。一番槍は拙者が貰った」
(・A・;)昌世「・・・(死亡ふらぐという奴ではないか・・・)」
(・∀・;)昌幸「・・・(宗四郎殿・・・)」
守友の言葉に二人は引きつった表情をしたものの、守友の死に場所はここではない。
2
包囲開始から四日後の1月8日、三隊は花沢城を攻めた。
三枝隊、武藤隊、曾根隊の兵力は、三隊合わせて86騎と足軽170人である。城攻めを行うにはあまりに少ないが、
もはや三人ともこの手勢だけで城を落とす気でいる。
( ´゚ω゚` )守友「我こそは三枝勘解由左衛門なり!」
声を張り上げて、守友が敵中に入っていく。負けじと昌世、昌幸も隊の先頭に立って虎口へ攻めかかった。
(・A・)昌世「曾根内匠助!」
(・∀・)昌幸「武藤喜兵衛、推参!」
着実に押し進めていくのでは、この小勢では勝ち目がない。しかし、80もの騎馬が一気に突き込むと、構えていた城兵も平静を失う。
( ´゚ω゚` )守友「三枝勘解由が一番槍!」
(・A・)(・∀・)「続いて二番槍!」
更にこの先頭を駆けていた大将が、揃って真っ先に敵勢に槍を突き入れた為、寄せ手の士気は大いに昂騰した。
気勢を失った城兵は大きく後退し城内へ逃げ込むが、すかさずその流れを割って三将が駆け抜ける。
この速攻に、使番の初鹿野伝右衛門尉昌次は慌てて後続隊の加勢を要請した。
後続の長坂隊を含む諏訪勢は大きく遅れをとる形を取り、実質は先鋒三将の手勢で花沢城を落としたことになる。
一応後続隊があったとはいえ、城兵よりも少ない兵数で押し進み、遂には陥落せしめるという、前代未聞の城攻めである。
信玄はこの報告を受けて、
(´∀` (彡信玄「なんという奴らじゃ。四郎に勝るとも劣らぬ猪ぶりじゃなぁ・・・」
と苦笑しつつ嘆息した。
いずれも手塩にかけて育てた元奥近習の者達である。長坂勝繁が切腹し、甘利昌忠が落馬死した今、
更に彼らを喪うことは信玄には耐えられないことであろう。
ちなみに守友は、この後も駿河攻めでは死ぬことなく、一年後の第二次深沢城攻めでも一番槍を果たし、
想い人の父である山県昌景に気に入られてその娘と夫婦になるのである。
3
この年、年号が変わって元亀元年の4月、北条軍三万八千が相駿国境を越えて駒井右京進政直が守る
深沢城を落とした。城代となったのは北条上総介である。
武田軍は駿河の東の国境の敵を掃討すべく、6月に深沢城を包囲。長く囲んでいたが、やがて守りが堅いと見て、
駿豆国境まで南下する。
ここで軍を二つに分け、四郎勝頼、典厩信豊、山県三郎兵衛尉昌景、小山田左兵衛尉信茂らは伊豆韮山城を、
馬場美濃守信春、高坂弾正忠昌信は駿河興国寺城を攻めた。
信玄は韮山城への物見として昌世と昌幸を指名した。
それにしてもこの韮山城、要害である。
(・A・)昌世「聞いてはいたが・・・」
(・∀・)昌幸「なんというイイ要害。一周まわって見ただけで畏怖してしまいました」
(・A・)昌世「わずか八千ではイクナイ!」
両名は意見の一致を見ると、すぐに信玄本陣に駆け戻った。
(・A・)昌世「申し上げます。韮山城、池をふんだんに利用しており、聞きしに勝る堅牢な城に御座います。
また、城兵の士気はいよいよ盛ん。城主の美濃守氏規は、兄の氏邦や氏照に勝る智勇の持ち主と聞きまする」
(・∀・)昌幸「城の周囲には北条兵のこもる砦が多く点在し、いかに四郎勝頼様、山県様、
小山田様といった方々の勇猛な精兵達でも、たやすくこれを抜くことは出来ないでしょう」
(・A・)昌世「たとえ二万の兵力があろうと、下準備の少ないこの城攻めは難しゅう御座います」
(・∀・)昌幸「最悪、砥石城攻めの二の舞となり、小山田様がお父上と同じ死に様を晒されてしまいましょう」
(´∀` (彡信玄「・・・」
遠慮のない二人の発言に、信玄はゆっくりと頷いた。
(´∀` (彡信玄「二人ともご苦労じゃった。まさに喜兵衛、内匠は我が両目じゃ」
4
この時既に勝頼らが、城将で北条氏康の子である美濃守氏規と左衛門佐氏忠の軍勢と小競り合いを始めていた。
しかし、二人の物見の意見を容れ、これに撤退を命じる。
同じ頃、興国寺城を攻めていた馬場・高坂の両隊も城攻めにてこずり、信玄の命で諦めることとなる。
(´∀` (彡信玄「(喜兵衛め、やはり源太の勇敢さと兵部の聡さを兼ね備えた逸材じゃなぁ。
近頃は一徳斎の智謀も身に着けつつあるようだしのぉ)」
それこそ子のように可愛がってきた昌幸の成長を、信玄は大いに喜んでいた。昌世も同様ではあるが、
(´∀` (彡信玄「(それに内匠も、いきなり若返ったかと思うたが、目も衰えておらんようじゃ。
箕輪の修理には出遅れたが、後数年も経験を積めば、立派に四郎の副将となってくれよう。じゃが・・・)」
昌世の将来を思い描けば描くほど、一度駿河へやってしまったことを残念に思う信玄であった。
この年の暮れに武田軍は再び深沢城を包囲。元亀二年の正月に入ると一隊を興国寺城に送り、
本隊は金堀衆を動員して城の掘り崩しにかかった。
更に援軍を待たずに打って出た城兵へ三枝守友が一番槍を突き入れ、昌幸の弟である
加津野市右衛門尉信昌らも果敢に吶喊した為、北条軍は相州鎌倉の玉縄城へ退いた。
北条家随一の猛将、北条上総介綱成が旗指物を捨てて逃げ出すほどだったというから、
この時の武田軍の勢いは推して知るべしである。
ちなみに興国寺城はまたしても攻め損じたが、この年の10月に北条氏康が没すると、
その遺言で北条家は武田家と再同盟を結び、駿河を完全に武田に割譲することとなった。
従って興国寺城も武田家に属することとなり、他家の領土との境界に間近なこの城には、
曾根内匠助昌世が城主として入ることとなった。
(・A・)昌世「某が城主と・・・」
もしまた北条とことを構えるような事態になれば、興国寺城の守りは武田領の入り口として大きな役割を果たすことになるだろう。
つまりそれは、北条への目として期待をかけられているということに相違なかった。
最終更新:2009年12月15日 20:29