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内
修
藤
理
亮
━━━O/⌒ヽ━ロニ>
∧∧(^ω^ )
/ο・Oニ)< >
`/ ノ∥川(ヾゝ
(o_oイ_丶 |(_)ノ⌒i彡
ノリリリリ丶|| ̄ノlノ
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ヽニフ|」 (_/ 丶ノ
(_>
前回、投下し終えたところで規制食らったんだけど、間隔空けたらいいのかな?
今年の大河は色々酷いな。物語を書く者として、ああはなりたくないのう
と言いつつ俺も頭の中でどんどん風呂敷が広がっていって、収拾付かなくなる気がしてきたけど大目に見てくれ
2
一先ず祐長出奔後の関東駿甲信情勢について触れておく。
天文六年(1537年)二月、工藤虎豊、内藤虎資を斬り捨てることで家中の反対を黙らせた武田信虎は駿河へ出陣、興津まで進出していた北条氏綱軍と交戦した。
この時期北条氏は関東にて北進もしており、七月には武田と同盟関係にある扇谷上杉氏をその本拠河越から逐っている。
このこともあって武田と北条の抗争は翌年までもつれ込んだが、古河公方の足利晴氏が氏綱女を娶ったことで公方傘下にある上杉氏と和睦。信虎もこの時に氏綱と和睦した。
講和により信虎は諏訪氏と組んで北へ、氏綱は古河公方の勢力を背景に東へ進出する。
和睦までの一年間、河東における戦況に何ら変動はなかった。
つまり、富士川以東の駿河は北条の支配下のままということだ。
駿河を継いだばかりの今川義元は、甲相の和議によって援軍を失い、更に西の三河では織田信秀の猛攻を受けることになるので、踏んだり蹴ったりである。
(¨・ゝ・¨)義元「…………!」
義元にとっては雌伏の時であった。
天文九年(1540年)、信虎は諏訪頼重を女婿とした上で、海ノ口を足がかりに北佐久へ侵攻。
これに頼重も連動した為、一日にして三十六個もの砦や城が陥落。長窪城の大井氏は逃亡、佐久各地へ隠遁することとなる。
翌十年、武田、諏訪の連合は更に北信の村上氏を迎合し、小県の海野氏を駆逐。悪天候の為進軍速度が遅かった武田氏はほとんど領地を得ることなく退散した。
いずれ村上と手を切り北上することを胸に誓いつつ、信虎は慰撫の為か駿河の今川義元を訪問。――そのまま、生涯甲斐へ戻ることはなかった。
___
/゚ω ゚;::::信虎(甲斐……これが、儂への答えか)
この時より、板垣信方ら老臣や飯富虎昌ら国人層に担がれて、簒奪ともとれる形で家督を継いだ晴信が、武田氏の当主となったのである。
だが晴信は傀儡にはならなかった。
カリスマ性で以って家臣団をまとめあげ、瞬く間に諏訪、上伊奈を獲得。
更に、武田氏の代変わりと諏訪氏の滅亡によって返り咲いた大井氏をすぐに下し、東北部を除く佐久をも獲得した。
路線は全て信虎の継承である。しかし、晴信は名君と謳われるのだった。
さて、祐長とおツンが逃げ延びた関東についても見ておこう。
上杉、武田との和睦の翌年、国府台合戦において、足利晴氏と対立するその叔父足利義明を討伐。
この後、北条氏綱は息氏康に家督を譲って隠居し、三年後に死去する。
( メ゚д゚)氏康「ウツケとでも何とでもよぶがいい! ははははは!」
足利晴氏は、この年下の義兄ならば敵ではないと思ったのだろう。扇谷、そして山内上杉氏と水面下で手を結ぶ動きに出始める。
これに、今川氏や、国府台合戦で義明方についた里見氏、その他これまで北条氏に煮え湯を飲まされてきた諸将が加担していくのである。
二人が足を踏み入れた後の関東には、嵐の前の静けさが漂っていたのだ。
実際は、以上に記したよりも更に熾烈な駆け引きが、武田、北条、今川、両上杉、古河足利、その他あらゆる勢力の間でドラマチックに繰り広げられていたのであるが、本作では涙を呑んで割愛させていただく。
ちなみに、この間に晴信には三男二女の子が生まれている。いずれも嫡腹である。
ミ・A・ミ ミ-∀-ミ ミ´_`ミ
太郎 次郎 三郎
(義信) (信親) (信之)
娘は、後の北条氏政室、穴山信君室の二人である。
3
天文十四年(1545年)の晩夏……
上州大胡城下。
大胡屋敷の庭で、祐長は袋竹刀で素振りをしていた。
この舘の一部屋に、夫婦となった工藤祐長、おツンの二人は、この城の主と知遇を得て厄介になっている。
祐長、二十四歳である。
( ^ω^)祐長(母上はご無事だろうかお)
( ^ω^)祐長(兄上は……どこに行ってもやっていける御仁だお)
( ^ω^)祐長(母上、どうか兄上と共にいてくださいお……)
( ^ω^)祐長(おっ?)
するすると廊下を渡る足音がして、祐長は動きを止めた。
( ´,_‥`)「おや、早いの、源左衛門殿」
( ^ω^)祐長「勢州様、お早う御座いますお」
大胡伊勢守秀綱。山内上杉氏配下、上州長野家の家臣である。
剣の達人であり、一城の主でありながらしばしば剣術修行の旅に出ており、工藤夫妻もそんな旅の道中の彼と知り合ったのだ。
ただ、その腕前を褒めちぎる祐長に対して、以前、どこか寂しそうにこう漏らしたことがある。
( ´,_‥`)秀綱「こんなものはな、将にとっては余興に過ぎぬよ」
言葉ではそう言いつつも、秀綱は修行に出るのだ。
( ^ω^)祐長(難儀な御仁だお)
ただ、己と己の間の齟齬――祐長にも、多少は覚えのある感覚ではあった。
4
( ´,_‥`)秀綱「ところで、どうかな、その袋竹刀は?」
( ^ω^)祐長「自分の姿勢が楽に確認できていいですお。己は外から見れないゆえ、こういう工夫は何にでも欲しいですお」
( ´,_‥`)秀綱「中々深いことを言うのう。お気に召したようで、考え出した身としても嬉しいわい」
秀綱は満足げに頷いた
( ´,_‥`)秀綱「袋竹刀は指導にも向いておる。是非役立てられよ」
( ^ω^)祐長「? 僕が誰を指導するんですお?」
( ´,_‥`)秀綱「二人とも若いゆえ、子を成すのもすぐであろう」
(; ^ω^)祐長「……それがどうにも――」
「叔父貴どのぉー!」
言いかけたところで、祐長の声が遮られる。
庭に駆けてきたのは、秀綱の甥疋田文五郎であった。
( +´_`)文五郎「叔父貴どの、陣触れに御座る!」
( ´,_‥`)秀綱「うむ、ふむ、どれ……む」
読み進めて行くにつれ、秀綱の目の開きが大きくなる。
( ´,_‥`)秀綱「管領様直々の……。文五、出陣の支度の差配を頼む」
( +´_`)文五郎「合点で御座る」
頷くなり、再び文五郎が駆けて行った。
( ´,_‥`)秀綱「どうじゃ、源左衛門殿。ついて来てみるか?」
( ^ω^)祐長(関東管領直々の動員……大きな戦になりそうだお。従軍する価値は大いにあるお)
( ^ω^)祐長「是非そうさせて頂きますお」
( ^ω^)祐長「そういう訳で、勢州様と共に出陣してくるお」
ξ(゚、 ゚*ξおツン「そう。気をつけて、ゲ……お、お、お前、さま////」
( ^ω^)祐長「別に無理しないでいいおw」
ξ(////*ξおツン「む、無理なんてしてないわよ! わたしは武家のつ、妻として……っ」
( ^ω^)祐長「留守を頼んだお、おツン」
ξ(゚、 ゚*ξおツン「……ご武運を。お前、さま」
ξ(゚、 ゚*ξおツン(子も出来ず……わたしはただ、ゲンの荷物になるだけ、か)
ξ(゚、 ゚*ξおツン(わたしに出来るのは祈ることだけ。どうか、無事に……)
5
上杉氏の権威回復に燃える若き関東管領、山内憲政は、関東全域に総動員をかけた。
(´^ิ౪^ิ )憲政「小田原、誅すべし!」
憲政は、長年の宿敵である扇谷朝定と和解し、更に北条氏康の妹を妻に持つ古河公方足利晴氏すら旗頭として陣営に取り込み、ほぼ全ての関東の諸将による連合軍を形成することに成功した。
それと言うのも、関東の一時的な平穏と、若い氏康への代変わりとが丁度重なった為である。
河越城の旧主である朝定、北条の傀儡となっていた晴氏、ともに憲政同様士気は高かった。
九月二十六日、まず両上杉氏の軍勢が絶妙の機を突いて河越を包囲した。北条氏康が主力を率いて駿河河東地域に攻め入っている間隙である。
つまりこの時、北条氏は西から北、東、海を挟んで南東にかけての大包囲網の中にあったのだ。
今川義元と同盟関係にある武田氏も、今は直接の抗争状態ではないにせよ、潜在的な脅威であることに違いはない。
北条氏康にとって、これは祖父、父の二代の残した負の遺産であり、最大の試練であった。
( メ゚д゚)氏康「うぬぅ……」
こうして始まったのが河越城の戦い――河越夜戦に繋がる一連の戦役である。
北条氏康第一の臣と名高いその義弟、北条綱成が、武蔵の抑えとして河越に置いていた手勢は三千。当時の北条軍における独立集団としては最大級のものである。
しかし、これが仇となる。
''';;';';;'';;;,., ザッザッザ・・・
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上州からきますた vymyvwymyvymyvy、
MVvvMvyvMVvvMvyvMVvv、 常野からきますた
Λ_ヘ^-^Λ_ヘ^-^Λ_ヘ^Λ_ヘ
武州内からきますた ヘ__Λ ヘ__Λ ヘ__Λ ヘ__Λ
__,.ヘ /ヽ_ /ヽ__,.ヘ /ヽ__,.ヘ _,.ヘ 房総からきますた
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その数、少なく見積もっても総勢七万。古河公方軍が参戦していない現時点でも、六万は超えていたと推定される。
関八州の内、この反後北条連合に参画しなかったのは、下総の千葉氏のみとされている。
北条軍のほとんどは駿河である。援軍の見込みは当分ない。
長期の籠城を覚悟するか、無駄死にするか、全面降服か。
(`゚々゚)綱成(玉砕……? 服従……? あり得ぬ!)
流浪の身から取り立ててくれた義父氏綱、義兄氏康の恩義を何よりも大切にする綱成にとって、一つ目の選択肢以外はあり得なかった。
( ´,_‥`)秀綱「三千は、長く籠城するには多すぎると思わんかね」
( ^ω^)祐長「はいですお。兵糧が足りないですお」
無論、綱成は相当の備蓄を城内にしていたが、半年とて持ち堪えられるほどのものではない。
対する連合軍は、万全な補給線を確保している。
北条の善政が領外の土豪や村落に伝わる以前であるから、北条配下の風魔党なども後方撹乱が容易に行える状況ではなかった。
連合軍としては、もはや敵が音を上げるのを待つのみであった。
6
河東の北条軍主力は大きく動揺した。
武田軍が八月半ばから駿河まで出陣し、今川方につくような動きを見せて北条軍を牽制していたのもあって、士気が急激に衰え、あれよあれよと黄瀬川の東岸まで押し戻されてしまう。
今川軍が河東地域を取り戻したのを見計らったかのように、駿河に出てきていた武田晴信が、両者の調停に乗り出した。
(´∀`)晴信「ここらで一度どうだろう、今川殿?」
(¨・ゝ・¨)義元「……・斡旋の労、痛み入り申す」
今川としては黄瀬川までを奪還できたし、三河情勢が不安定なこともあってこれに応じる。
十月二十二日、今川義元と北条氏康は、北条が黄瀬側以西の手放しを認めるという条件で講和した。
連合軍の首脳に動揺が走り、足利晴氏に一刻も早い出馬の催促を出した。
憲政も朝定も、一度権威の失墜した上杉氏を継いだ者である。いかに大軍をまとめるのが難しいかは理解していたのだ。
あくまで祐長は居候の身であるから、管領陣営にいながら、客観的に見ることができた。
( ^ω^)祐長(さすが若様だお)
( ^ω^)祐長
(今管領についたとて、武田家に何の益もないお。むしろ、管領の力を削いだ方が、佐久がうまくいくというものだお)
( ^ω^)祐長(武田家、かお……)
ただ、まだ若い祐長には、どこか先を読み切れていないところがある。
この戦いの流れを追う内に、明らかになるだろう。
連合軍は包囲網の一角が崩れたことで動揺こそしたが、対する北条にとってみれば、現状は今川と和議を結んだだけで打開できるような物ではなかった。
和議の五日後、古河公方軍一万余が河越包囲に加わる。
これにより、今川の更なる東進を恐れる氏康も、駿河からの撤収を急いだ。
( メ゚д゚)氏康「……窮して、しもうたな」
しかし、小田原に入ったものの氏康に何の策もなく、動くに動けなかった。
今川や里見に備え、伊豆や三浦半島には未だ多くの兵を残している。
いつでも出陣の号令をかけられるように支度しながら、天文十四年は暮れるのだった。
7
翌年三月。
(`゚々゚)綱成「義兄じゃ様よ、もう飯が尽き申す」
河越城に籠もる北条綱成は、ついに密使を出して氏康に泣きついた。
三河における織田、今川の戦いが昨年の清田畷合戦以降は一先ず沈静化している今、駿豆国境から兵を引くことは大変な博打なのである。
果断になりきれなかった氏康は、機を逸していた。
(゚r,゚´)「覚悟をなさらぬと。捨てる覚悟を」
( メ゚д゚)氏康「乾坤一擲、か」
家臣の多目元忠の言を容れた氏康は、駿豆国境と三浦半島の軍勢を呼び戻し、二十五日に小田原を進発した。
四月一日、氏康本隊は武州三ツ木原に着陣。兵数は八千と云うが、城兵と併せて一万未満とも云われる。
氏康はまず、綱成の実弟福島孫二郎(後の北条綱房)を城中に送り込んだ。綱成に今後の動きを指示したのである。
それからしばらく対陣した後、氏康は連合軍のまとめ役である山内憲政の陣に使者を出す。
( メ゚д゚)氏康「……我ら、分を弁えずに調子に乗っておりました」
氏綱が晴氏に認めさせた氏康の准管領格の撤回、北条軍の武州からの撤退など、北条の全面降伏と言ってよい講和。
その内容に、憲政は思わず眉根を寄せた。
(´^ิ౪^ิ )憲政「信用できぬわ。兵を繰り出して一押ししてみたいが、どうかな義親父殿?」
/l、
(゚、 。`フ「そういう事なら儂にお任せを」
憲政は岳父である長野業正以下の軍勢を氏康軍に差し向けた。
長野勢には秀綱、祐長も加わっている。
しかし、先鋒の藤井友忠が攻め立てただけで北条軍は散り散りに後退を始めてしまい、彼らが働くような場面はなかった。
( ФωФ)友忠「どうした、どうしたァ! 小田原方は所詮、へっぴり腰の浪人集団か!」
剛勇で鳴る友忠の苛烈さもあったろうが、それにしても氏康軍は烏合の衆と呼ぶに相応しい有様であった。
士気は低く、隊伍もあっという間に崩れる。
あるいは北条側では完全に降伏する意図が兵卒にまで伝播していたのだろうか。
( ^ω^)祐長(これは武田にとってもまずいお……)
どうあれ、今月中にも決着はつきそうであった。
( ^ω^)祐長(相駿の講和も、焼け石に水に過ぎなかったんだお)
北条軍の有様を見てとった業正は引き揚げを指示。
この時、北条方の計略の可能性を考慮して慎重に後退したが、混乱した北条軍はそれどころではないように見えた。
/l、
(゚、 。`フ業正「小田原勢は及び腰で御座る」
(´^ิ౪^ิ )憲政「御苦労だった。さて、もう一度和を乞うてくるのを待とうぞ」
(´^ิ౪^ิ )憲政(だ、駄目だ、まだ笑うな……堪えるんだ。し……しかしwwww)
この時、憲政は二十四歳。扇谷朝定は二十二歳。
名目上の総大将足利晴氏は三十九歳だが、実際に指揮する二人の上杉は余りに若かった。
しかし二人に責任を問うのも酷である。この時、連合軍の諸将の大半は、大なり小なり憲政と同じ思いであったのだから。
8
それは、突然の出来事だった。
4月20日夜半。
雄たけびと悲鳴で祐長は目を覚ました。
「勝ったぞ、勝った! 北条の勝利じゃァ!」
目の前を、黄地八幡の旗を指した騎馬武者が駆けてゆく。その大音声は、空気を震わせた。
(`゚々゚)「それ、残党を討ち取れぇィ!」
まさしく北条綱成。河越城の籠城軍を率いる主将である。
( ^ω^)祐長(打って出た……!?)
(`゚々゚)綱成「公方は生け捕った! 管領や修理大夫も討ち取ったりィ! もはや敵は総崩れぞ!」
( ^ω^)祐長(る、流言だお! でも、あるいは……)
思考しつつも、祐長は急ぎ武装する。
闇の中を、縦横に北条軍と思しき影が駆け回っていた。その中の一人の騎馬武者を、松明の炎が照らし出す。
( ^Ω^)
祐長は目を疑った。
( ^ω^)祐長「あ、兄上!」
( ^Ω^)「ぬ? ……源左衛門か!」
工藤昌祐。九年前に甲斐を飛び出して以来、安否もわからなかった兄である。
( ^Ω^)昌祐「上杉の臣となっておったか!」
( ^ω^)祐長「上州大胡の大胡勢州様の下に居候させて頂いているお!」
( ^Ω^)昌祐「そうか……儂は北条への仕官が叶った! 長門守の官途も頂いた!」
工藤氏が小山田氏と共に武田信虎に反抗した際、一族の一部は北条早雲を頼って逃れており、その遠縁を頼ったのだろう。
( ^ω^)祐長「御息災で何よりですお!」
( ^Ω^)昌祐「母は伊豆の漁村で静かにお暮らしじゃ!」
( ^ω^)祐長(よ、よかったお……)
( ^Ω^)昌祐「それより、公方方は総崩れじゃ! 早いところ逃れよ! ではな、達者にしておれ!」
告げるなり、昌祐の馬は駆け去って行った。
( ^ω^)祐長(あの状況で、総崩れかお……? そんな、まさかだお……)
連合軍は圧倒的優勢にあったのだ。ただ、兄の言である。流言とも思えなかった。
( ^ω^)祐長(ともあれ、兄上も母上も、無事でよかったお)
( ^ω^)祐長(北条方の勢いが増してきたお……とりあえず勢州様を探すお!)
9
( ^ω^)祐長「勢州様!」
( ´,_‥`)秀綱「無事だな、源左衛門殿」
( ^ω^)祐長「どうにかですお。して、どうされますお?」
( ´,_‥`)秀綱「我が主の行方もわからぬが……退く他あるまいよ」
ほんの少しの気の緩みであったろう。
しかし、この結果はその後の関東戦国史の流れを大きく変化させる。『よそ者の北条』が、『関東の北条』へと変わっていく転換点であった。
( メ゚д゚)氏康「……」
(゚r,゚´)元忠「殿?」
( メ゚д゚)氏康(勝った、のか?)
(゚r,゚´)元忠「殿! ……まあ、お疲れであろう」
呆然たる様子の氏康に代わって、多目元忠が法螺を吹いたことで、河越の戦いは終わりを告げる。
扇谷朝定は討ち死にし、扇谷家は瓦解。家臣の太田氏が傍流の上杉蔵人を立てて舵を取ろうとするも、遺臣たちは次々と北条氏に服従してゆく。
古河公方晴氏も命からがら逃れて再び北条の傀儡となる。
山内憲政と山内家は致命傷などは受けなかったが、影響力と威信は大いに失墜した。
/l、
(゚、 。`フ業正「お、おのれ……!」
秀綱の主で、稀代の謀略家にして勇将の長野業正も、嫡男吉業を喪い、這う這うの態で上野に逃げ帰る有様だった。
裏も表もない。まさしく総崩れとはこのことである。
祐長は居候の身である。だから敗戦について悔しい思いはないものの、戦いの流れが自分の思考の数歩先を行っていたことは悔しかった。
( ^ω^)祐長(まんまとしてやられたお……!)
( ^ω^)祐長(イタチの最期っ屁どころか、懸命かつ鮮やかな起死回生。まるで軍記物語の開幕だお!)
( ^ω^)祐長(小田原後北条、恐るべしだお)
この時の勝利が、北条氏に――特にこの時九歳の新九郎(後の氏政)に、防戦に関する根拠のない自信を与えてしまうことにもなるのだが、それはまた別の話である。
大打撃を受けた連合軍は瓦解。北条氏の武蔵経略は一気に進み、関東管領の影響力は上野一国に押し込められる。
このことは、祐長の予想した以上に武田氏の北上を助ける。最終的には上杉憲政の目は佐久に向いてくることとなるが、それはすぐにという話ではない。
河越夜戦から間もない五月、武田晴信軍は瞬く間に大井氏残党の籠もる内山城を開城させ、大井一族を臣従させる。
佐久には上杉憲政の影響下にある志賀城のみが残っていた。
補足だが、扇谷家が事実上の滅亡を遂げた為、これよりは山内憲政を上杉憲政と表記する。
後に祐長は、この戦いに際して氏康が「首級を取るな」と厳命していたことを知る。
その命令は祐長に感銘を与え、元から彼の中に培われてきた考えと混ざり合い、次第に彼の将としての美学へと繋がってゆくのである。
最終更新:2010年06月14日 00:38