761 :隣町での聖杯戦争 ◆ftNZyoxtKM:2007/11/25(日) 04:11:31
振り返ったとき、彼女は両手で刃を握っていた。
未だ空中を舞っている刃物とは、同じ形でありながらまた違うあの武装をいつ取りだしたのか、視線を決して逸らしていないはずの彼にも理解は出来なかった。
「外した……」
その言葉はエンジンのアイドリングに掻き消される。
だが彼はその言葉を聞いてしまったし、直後にはその言葉の意味は理解した。
空中を舞っていた刃が地面に浅く突き刺さり、それと時を同じくしてクロームメタルの猿轡の側面が割れ、地面への落下を始めたのだ。
落下していくその猿轡は、真一文字に割られており、それがなければ口元は耳まで裂けていただろう。
いつ切られたのかは分からなかった。
だが、それを為しうる『種族』ならば答えのストックは幾つか心当たりはあったし、その内の一つはもう一つの疑問にも回答出来た。
「……そうか、『感染者<<ファージ>>』か」
男の発した言葉にシャリフの顔が強張る。
この時代に彼女の事は知られているはずがなかった為だ。
ファージとは、あるウイルス感染者の総称である。
ファージには幾つかの特徴が知られていた。
驚異的な身体能力や生命力をを発現することや、犬歯が人のそれを上回り伸びることなどがそれである。
吸血鬼症候群とも言われたそれは人類社会に大混乱と、別種の秩序を生み出し、人類社会の一部に対吸血鬼機構を組織させるに至った。
古くからの対異端機構であるヴァチカンや王立国教騎士団のようなノウハウのない組織であり、彼等は楽観視していたが、用いられたテクノロジーは古来より彼等を守護してきた神秘に勝利し、その存在を人類社会の白日に曝した。
結局の所、それはワクチン開発後に発生した第三次世界大戦の混乱の中で失われ、残された噂は感染による混乱が生み出したデマゴーグとして処理され、その後の未来には残される事は無かったが、それでもその時代、最愛の女性と共に『追われた』存在としては、忘れる事の適わぬ存在であった。
シャリフは少しだけ感動していた。
自信と同じように未来の記憶を有する存在が居たこと。
そしてそれが神秘の塊である吸血鬼であるという事実に、である。
だがそれは彼女の思考に淀みが生まれる要因にはなりえない。
その最大の理由は、目の前で獰猛に咆え立てようとしているバイクにある。
加減速だけでも生身で相手をするには危険な相手であるのに、その正面に取り付けられたブレードは、人体など容易に切断するだろう事が自信の思い込みではないという事を完全に理解した。
「……そういえば誰かが言っていたな、あの女ならば捕らえる事が出来ただろうと」
未来という過去を思い出して笑う。
確証はないが、話に出た女とは目の前の人物なのだろうと直感する。
「確かその名前は……」
「ヴァイオレット?」
言葉を遮り、シャリフが応える。
何故かは分からない、どうしてもこの男に名前を覚えていて欲しいと思ったのだ。
「そうだ、『ヴァイオレット・ソン・ジャート・シャリフ』、そんな名前だったな」
「そうね、私も噂だけならば聞いたことがあるわ……実在するとは思っても見なかったけど」
何気ない言葉を交わしながら、空気だけが張り詰め、温度が下がっていく。
「夜魔の森の女王と名も無き伴侶……」
唐突に、笑みが溢れた。
「そういえば、そうだなぁ……あの時代、俺を知っている人間は全て死んでしまった、だから知ってる人間が居るはずもないか」
この時代ならば、生きている。
そういう風にシャリフには聞こえた。
「貴男、名前は?」
「ソウタ……そう、『伊藤惣太』だ」
久しく口にしていなかった己の名、それをあっさりと口にした。
この時二人は、どこか純粋に人として知り合おうとしていた。
名前は知った。
聞きたいことは、あと一つだけ。
「御伽噺の存在が、この戦いに何を望むの?」
惣太には、もう聞かせたいことも、聞きたいことも既に無かった。
ファージの望みなど、たった一つしかあり得ない――少なくともそう思いこんでいる――のだから。
「……言いたくないほど、女々しい理由さ」
銃口が道路から彼女へと向けられた。
銃声にコンマ1秒先んじる回避運動で銃弾の雨を潜り抜け、同時に真横に跳んだ。
瞬時に5発を撃ち尽くしたレイジングブルを仕舞い込み、脇から大型のグレイブ『聖者の絶叫』を引き出す。
停止していたという鬱憤を晴らすかのようにバイク――名をデスモドゥスと言う――のエンジンが咆えた。
最終更新:2008年01月17日 19:31