718 :遠坂桜 ◆0ABGok2Fgo:2008/01/18(金) 18:58:17
霧島が育った家には母が居なかった。物心がつく前に、病で死んだ。
豊かとはいえない霧島家では、父が家に居ないことが多かった。
それを不幸だと思ったことは無い。単にその点では幸せじゃなかっただけだ。
ただ、時間は有り余っていた。家に一人で居ると、どう過ごせばいいのか判らなかった。
だから生徒会に入った。休日にはバイトをして、時々は桜と勉強会を開いた。
父は優しく、飢えに喘ぐこともない。桜という友にも恵まれた。それは幸せなことだった。
なのに、少しでも空白を作るのが怖かった。自分が何者でも無くなってしまう。そう思うだけで眠れなかった。
故に、いつも自分に為すべき仕事を課した。為すべき事さえあれば、不安に襲われることもない。
そうやって生きた。怖いから、冷めていた。本当に心が動いた事はなく、泣いたこともなかった。
…だがそれも、『彼女』に出会うまでの話だ。
『彼女』は不思議な女性だった。歳は三十の半ばぐらいだろう。澄み渡っていて、刃物のような印象だった。
十年前からずっと療養所に居ると聞いていた。最初は患者で、今では住み込みの看護師のようなものだった。
――あなたみたいな娘がいたら、放っておけないでしょうね――
副会長として療養所で『暇つぶし』をしていた霧島に、彼女はそんな言葉を投げかけた。
その時は別に何もなかった。だが水が染み込むように、彼女の声が心に残った。
父は良き親だったが、男親である。彼に理解出来ない悩みも、霧島には当然あった。
いつしか霧島は彼女に悩みを打ち明けるようになっていった。他愛の無いものから、父にも隠していたような話まで。
ある日のことだ。霧島は彼女と話をして、気がついたときには涙が溢れていた。
泣いた理由はよく判らない。苦しくて泣いたのではなかった。泣いていい。そう思えた。それで、体が少しだけ軽くなった。
彼女は霧島が泣くのを止めなかった。
霧島がひとしきり泣いた後、彼女は自分のことを話してくれた。
それは衝撃的な過去だった。自分が何者なのか、まるで判らないのだという。彼女の過去は十年間しか存在しない。それ以前の記憶も記録もなかった。
しかし一つだけ、腕に残っていた感触があった。
いつか抱いた我が子。
会いたい、と。彼女は祈るように言った。
――十年前。
それは紛れも無く奇跡だった。
血は熱とともに流れ、命は土蔵の中で薄れてゆく。
男はその感触を肌で感じていた。誰よりも死に触れてきたから、男は死の臭いを嗅ぎ違えたことがなかった。
故に彼女の目が閉じられた時、男は去った。男の持つ『奇蹟』が、死を間際で食い止めたことを知らずに。
しかし男が彼女の死を受け入れたのは無理もなかった。彼女は発見され、運び出される直前まで仮死状態だったのだから。
そして、その時間は彼女から記憶を奪い取った。名も過去も失い、今一度、彼女の生は始まった――
霧島が扉を開くと、彼女はいつものようにテキパキと仕事をこなしていた。
不意に霧島の胸から抑え難い欲求が溢れ出た。
お母さん。そう呼んだら、彼女は困るだろうか、喜ぶだろうか。
そんな霧島の葛藤をよそに、彼女は笑顔で霧島を迎え入れてくれた。それはまるで、我が子の帰りを待っていたかのようだった。
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最終更新:2008年01月27日 22:38