756 :もしも遠野志貴が引き篭もりだったら ◆4OkSzTyQhY:2008/01/19(土) 20:06:07
万事がいつも通りだ。都古のノックの数も、強さも、そして遠野志貴が何らアクションを返さないことも。
特にそうしなければならない理由はない。いうならばただの慣習である。
昔の遠野志貴は、何とか自分と接触しようとする外部に対して沈黙以外の答えを持たなかった。
もっとも――今の遠野志貴が何か気の利いた言葉を返せるのかといえば、それも否という他ないが。
万年床からゆっくりと抜け出し、ドアの前に座り込む。
たったそれだけ動作でも、完全な暗闇での作業だ。
転ぶなどして不必要に大きな物音を立てて心配をかけたくないのならば、ひたすらに慎重に行う必要があった。
だから、それはどうしてもぎこちない動きになってしまう。
きっとその気配はドア越しの少女にも伝わっただろう――つまり、遠野志貴が起きているということが。
それを確認してから、都古は僅かに息を吸い込んで呼吸を整える。
「……あのねっ、きのうはなした、ゴローのことの続きなんだけど」
今では日課といっても過言ではない、一方通行の世間話。
発端も、いつからなのかも忘れてしまった。それでもこれは遠野志貴と有間都古の間での暗黙の了解になっている。
話しの内容は他愛無い――つまり小学生が話すこととしては。
その日、彼女が体験したこと。学校でのちょっとした事件や、面白かったテレビ、本。その程度だ。
最近ではゴローの話が高頻度で出現する。ゴローとやらは、クラスで飼っているペットの類らしい。
もっとも都古が何の動物か話すのを忘れているので、志貴にはいまだにそれが熱帯魚なのかハムスターなのかも分からなかったが。
どの道、それが分かっても志貴にはあまり関係ないだろう。
この習慣の存続性は、強固なのか脆いのか測りかねるところがある。
もとより都古が勝手に喋っているだけだ。彼女が気まぐれを起こすだけで、この接点は失われる。
――志貴とて、引き篭もりたくて引き篭もっているわけではないのだ。
外に出たい。日の光を浴びたい。都古の言っていた本を読んでみたい。
だけど、それは決して叶うことのない望み。
この両目がある限り、遠野志貴は暗闇から一歩も出ることはできない。
しかし両目を潰す勇気もなく、唯一の外との接点を失くすかもしれない行為はできない。
その『行為』が何なのかも分からないのだから、何もすることはできない。
底抜けの臆病者。それがこの遠野志貴だった。
やがて、都古の口調に翳りが見え始める。
それはこの日課が終わる合図だった。
あと数分もしないうちに彼女は沈黙し、どこか元気のない足取りで志貴の部屋を後にする。
もっとも千里眼を持たない志貴はそれを知らない。ただ、無様に明日もこの接点が存在していることを祈るだけだ。
やがて、千切れるように幼い声は途絶えた。
微かに吐息のようなものを一つついて、志貴は立ち上がり、再び万年床に潜り込むためにドアに背を向ける。
――これは、日常が変化する序の口。
まるで志貴が背を向けるタイミングを見て取っていたかのように、再び少女が口を開いた。
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最終更新:2008年01月27日 22:50