桜は勢いを駆って右腕を振り抜いた。
ピンボールのように弾け飛ぶ人形。
鍛錬用の人形である。使い魔の余った部品で組み上げたものだ。
日々の訓練相手として遠坂邸に数体が用意してある。
しかし桜の知る武道は、綺礼の見真似と少し齧った武術のみ。
基幹が脆弱である故に、桜の体術は常識的な範囲を出ることはない。
こうして鍛錬を重ねていても、桜自身が自分の限界を一番理解していた。
その悔しさに拳に力が篭った。
何故、戦に臨む前にもっと自分を鍛え上げなかったのか。
不意に背後で不快な音が鳴り響く。
桜は怒りに任せ、裏拳でそれを叩き割った。
目覚まし時計だった。桜が刻限を忘れないためにセットしたものだ。
「…代わりを、買いに行かなくちゃ」
砕けた時計を見つめ、桜は息を大きく吐いた。
常の鍛錬で桜はここまで忘我に至らない。綺礼の渡したものが、桜に火を点けたのだ。
父の形見、母の病状、冬木での狼藉。どれも桜が聖杯を目指すには充分な理由だ。
昂った。止まらなかった。胸の裡をどうすればいいのか判らず、桜は鍛錬を始めていた。
体を動かす間に堪え難い慟哭は消えたが、熾火は桜の腹の底で未だ燻っている。
しかし、もう刻限である。
桜は右手に付いた目覚まし時計の破片を摘み、部屋を出た。
大広間の時計はもうすぐ午前四時を指そうとしていた。
都合数時間、人形を殴っていたことになる。
「…うん。準備は万端、時刻もよし」
桜は顔を洗った。
鏡に自分の顔が映っている。酷い顔だ。だが戦いに赴く顔には、なっている。
桜は汗を拭き、魔術師としての衣装に着替え、触媒たる石を手に地下室に下りた。
財を惜しまず描いた召喚陣は淡い光を放っていた。
時は午前四時、桜の波長が最も良い時間。
迷いは――なかった。戦うと決めた。決めた以上、動くだけだ。
桜は陣に手をかざした。
「素に銀と鉄。礎に石と契約の大公。祖には我が大師シュバインオーグ。
降り立つ風には壁を。四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ。
閉じよ(みたせ)。閉じよ。閉じよ。閉じよ。閉じよ。
繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する」
口は自然に呪文を紡ぎ出した。
巨大な歯車が動き出すのを、直感で感じ取れる。
だが取り込まれる訳にはいかない。
遠坂桜は、遠坂桜のままで勝利せねばならない。
目を一度閉じ、開いた。
「――Anfang(起動)」
全身の血管が引き摺りだされるような感覚。
だが今の桜には有り難かった。痛みは意識を明瞭にしてくれる。
「告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。
聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」
名状し難い光が地下室を覆う。
視覚は自ずと閉じ、体は奔流のような魔力に晒されている。
「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者。
汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ…!」
突風が吹いた。だが桜の髪は揺れていない。
ならば、それは魂の震えか。圧倒的な存在に恐れを為したのか。
飲み込まれる。そう思った瞬間に、桜は奥歯を食いしばった。
聴覚を超えた轟音が何処かの英霊の現界を報せる。
視覚は未だ戻らない。
見えぬが故の恐怖。それが桜の心を押し潰していく。
「あ……」
桜の手に、何かが触れていた。
それは温かな手の平。何かを探すように、桜の指と触れ合っていた。