725 :遠坂桜 ◆0ABGok2Fgo:2008/03/01(土) 23:27:12
赤く塗られた校庭。
由紀香が陸上部の面々に水を配っていた。
疲れきった彼らには、体の奥底まで染み渡る水だ。
こんな些細なことが、もう一度立ち上がる力を沸き起こすのだろう。
「おーい、三枝」
士郎が手を振ると、由紀香は小走りに駆けてきた。
「衛宮くん。どうしたの?」
「怪我しても、すぐには気付かないことってあるだろ。それが気になったんだ。
見た感じは平気そうだけど、大丈夫か?」
「うん、衛宮くんが助けてくれたから。本当にありがとう」
人間の目に映るのは光の反射だ。
照明が違えば、同じ物でも変わって見える。
斜陽に照らされた由紀香の笑顔は士郎の心をくすぐった。
今すぐに走り出したいような、妙な感触が胸に広がる。
「そうか。なら、いいんだ」
「衛宮くんは大丈夫だった? わたし、衛宮くんの上に乗っちゃって…」
「大丈夫だ。三枝、軽かったし」
嘘だった。
本当は、今になって体の数箇所が痛みに疼いている。
だが助けたときの怪我の事を、助けた少女に泣きつくなど間抜けな話だ。
そんな真似はごめんだった。
「でも左手に痣が――」
「こらーっ! 何やってんだ、ソコ!
あたしの許可なく由紀っちに近づくとは何事かーっ!」
由紀香の言葉を遮って、叫び声が校庭に響いた。
見れば、右前方から蒔寺楓が走ってきていた。
予想だにしない事は起こる。その善し悪しは関係なく、だ。
士郎は顔を、やや左に回した。それで妙な生物は視界から消えた。
「じゃあ、俺は帰る。
通り魔とか、ガス漏れで集団昏倒とか、色々と物騒だから三枝も気をつけろよ」
「うん。ありがとう」
「衛宮なんかに言われるまでもないぞーっ。
由紀っちはあたしがしっかり守ってるんだからナ!」
二足歩行の黒豹は、あっという間に到達していた。
来なくていいと思うものは、来るのが早い。人生はままならないものである。
「一人だと危ないからな。
藤村先生がまだ残ってるから、場合によっては一緒に帰ってもらうといいぞ」
「衛宮くんも気をつけてね」
「おう」
「こら! あたしを無視すんな!」
「じゃあ頼むぞ、蒔寺。おまえなら足速いし、声でかいから安心だ。
あと、一応おまえ自身も気をつけろよ」
「えっ、あ……うん」
二人に別れの挨拶を言い、士郎は帰宅の途に着いた。
黄昏時はすぐに過ぎ行き、紺とも紫とも見える空が街を覆った。
そして士郎は固まっていた。
格好つけて怪我を隠したのはいいものの、痛みは確実に増していた。
坂道を下るあたりからは、もはや拷問だった。
それでも衛宮邸付近まで耐えられたのは、頑固なまでの意地の賜物だろう。
だが玄関まで十メートルというところで、士郎の体は限界を迎えていた。
六時間以上放置した打ち身は、士郎の神経をひどく圧迫している
それでも士郎は、必死で苦痛に打ち克とうとした。
休めばいいものを休まないのは、それが敗北のように思えたからだった。
冬の風が家々の隙間で鳴き声を上げる。
雲を散り、月が顔を出した。
影。士郎はそれに気付き、顔を上げる。
士郎の行く先に、少女が立ち塞がっていた。
「こんばんは、お兄ちゃん」
流れるような銀の髪とルビーよりも深い赤に染まった瞳。
士郎の胸ほどの背丈の少女は、しかし見下すようにして士郎を見ていた。
「あとちょっとしか待たないからね。早く呼び出さないと死んじゃうよ」
それは罪人に最後通告をするかのように。
少女の口の端から零れたのは、背筋が凍るほど酷薄な言葉だった。
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最終更新:2008年04月05日 17:42