743 :遠坂桜 ◆0ABGok2Fgo:2008/03/02(日) 21:58:16
士郎の耳に、少女の言葉は届かなかった。
尻に走る激痛の方に意識が向いていたのだ。
「あー、その、悪いんだが。手を貸してくれないか」
「え?」
「し…足が痛くて動けないんだ。
ちょっと助けてくれ。家の中まで行けば、何とかなる」
「……わたしが?」
少女は明らかに戸惑っていた。
無理もない。幼い少女ならば、脂汗にまみれた男に怯えるのは当然だ。
だが、士郎にも恥や外聞に配慮する余裕はなかった。
次に誰かが通りがかるのが、何時になるのか判らない。
一人ではどうにも出来ないなら、他人の助けを借りるしかないのだ。
「怪しいのは自分でもわかってるけど、そこをまげて頼む」
「玄関まででいいの?」
「ああ。そこから先には、杖代わりになるものも多いんで一人でも大丈夫だ」
「ふーん、わかったわ」
「ホントか? ありがとな。
俺は衛宮士郎。家はそこの衛宮って表札があるとこだ」
「エミヤシロ?」
「…言い難いなら、士郎ってだけでも構わない。そっちが俺の名前だ。衛宮は苗字」
「ええと、シロウ、でいいのかな?」
「ああ。じゃあ、頼む」
士郎は手を伸ばして、少女の助けを待った。
しかし少女は一向に近づいてくる気配がない。
からかわれているのか。それとも、やはり見知らぬ男は怖いのだろうか。
「…俺に近づくのが怖いなら、誰か助けを呼んでくれないか。
なんだったら警察でも構わない」
「ううん。そんなの必要ないわ。
ねえ――バーサーカー?」
少女の言葉と時を同じくして、背後に巨躯の男が現れていた。
尋常な存在ではないと、一目で理解できた。
怪物。
士郎は呼吸を忘れた。
「そういえば、わたしの名前を言ってなかったよね?」
「……あ、」
「わたしはイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。イリヤでいいよ」
少女は天使にも紛う笑みを浮かべる。
それが合図だったのか。鉛色の巨人が動いた。
何が起こったのか、士郎には解らなかった。
空を飛んでいる、と思った。
次の瞬間には壁に叩きつけられた。
壁が地面だと気付くのに、数秒かかった。
右手は奇妙な形に折りたたまれていた。
さっきまで神経を支配していた痛みは、綺麗に無くなっている。
痛覚自体が麻痺しているのだろう。
「ちゃんと玄関まで運んであげたよ、シロウ」
イリヤは笑っていた。
その表情に、邪気は一切ない。
おつかいを果たした子供のように、士郎の言葉を待っている。
「死んじゃったらどうしようかと思ったけど、生きてて良かった。
バーサーカーったら、力加減が出来ないんだもの」
真珠のような頬を、イリヤは膨らませた。
士郎は理解した。
イリヤは何も感じていない。罪悪も優越も、ない。
殺すつもりがなかったから、士郎が死ななくてよかったと思っている。
少しでも殺そうと思えば、イリヤは何の躊躇いもなく士郎の命を断てる。
今、士郎はイリヤの天秤の上に居るのだ。
死に傾くのか、生に傾くのかは、イリヤが決める。
僅かな感情の機微で、イリヤは士郎の生を終わらせるだろう。
「…が、ぐ」
魔術師としての鍛錬の成果か、士郎の思考は錯綜しながらも冷静だった。
一人では決してあの巨人には敵わない。
士郎の側に居るのはイリヤだけだ。
あの怪物は、通りの向こう。
家の中では電話のベルが騒ぎ立てている。
土蔵は、戸を閉め忘れていた。
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最終更新:2008年04月05日 17:43