703 :もしも遠野志貴が引き篭もりだったら ◆4OkSzTyQhY:2008/02/29(金) 23:29:48
獣たちの侵攻は素早かった。
ロビーでは大型の肉食獣が暴風のように荒れ狂い、廊下にはまるで壁が押し寄せるかの如く黒の塊が殺到する。
天井やダクトは一瞬で蜘蛛と蛇の通路となった。
咄嗟に部屋に閉じこもった者もいたが、次の瞬間にはその部屋の内側から獣たちが飛び出してくる。
文字通りに混沌の渦中。逃げ場はない。すでにここは檻や餌籠などというレベルではなく、獣たちの腹の中というに相応しい。
文字通りの地獄絵図。だが阿鼻叫喚というには、その殺戮はやや静謐だった。
叫ぶために肺を膨らます時間も、泣くために涙腺を潤ます余分さえ与えられない。
獣たちはもとより必要以上に吼えることなどない。餌皿に乗った肉に威嚇など必要があろうか。
それでも、悲鳴や罵声の類が皆無だったわけではなかった。僅かではあったが、金切り声を上げる余裕がある者もいたのだ。
それは――当人がそう思わなくても――幸運なことだろう。その分だけ長生きできたということなのだから。
しかしそれを耳にした遠野四季にとって、それは不幸以外の何者でもなかった。
それが獣の唸り声であったら――あるいは銃声や剣呑な物音であったとしたら、彼はすぐに対応に移れたかもしれない。
だが、悲鳴。それが我が身に降りかかる危険の信号だと認識するためには一弾指の時間が必要だった。
獣たちの侵攻は早い。悲鳴に気をとられていた四季に襲い掛かるには十分なほどに。
非常階段に繋がる分厚い鋼鉄製の非常扉を吹き飛ばして現れたのは、巨大な黒犬。
扉の向こうに四季がいるのを知っていたのか、あるいはなにもなくても構わなかったのか。
どちらにせよ獣は着地することもせず、扉を突き破った勢いそのままに四季にむしゃぶりついた。
獣と人間。どちらが狩猟の種として優れているかと問われれば、無論前者である。
人に爪牙はない――つまるところ、まともな人間には。
そして遠野四季は、そういった意味でまっとうな人間ではない。
「ヒャ――!」
引き攣った息吹。押し倒されながらも、四季は半ば反射的に獣の喉笛に手刀を突き刺していた。
四季の混血による異能は己の身体を変化させるもの。
硬化させたその爪はすでに人のものではなく、まさしく鬼種が携える破壊の象徴であった。
さしたる抵抗もなく、黒犬の毛皮の弾性力が決壊。鋭い五指が強固なはずの外皮を食い破る。
――のみならず、四季の右手はさらに強靭な獣の筋肉を断裁しながら突き進み、その脊髄をわし掴みにしていた。
圧し折るのには一秒とかからない。ただ握り締めて少しだけ手首を動かせばいい。
だらりと垂れ下がる犬の首。それでようやく、四季は身を起こして立ち上がることができた。
一瞬の興奮状態が過ぎ去れば、残るのは階段の踊り場に背中を打ち付けた痛みだけだ。
「ってーな……で、なんだこれ」
しかめ面で、いまだ掴んでいる黒の襲撃者を見下ろす。
ここまで大きい犬は見たことがない。体長は自分と同等以上で、しかも首を裂いたというのに血を流さないという異常。
何かに襲われる、というのは彼の生涯でほとんど初めてのことであった。
幼年期はほとんど座敷牢で過ごしたし、そこから抜け出してからはずっと襲う側だ。
そう、これまでに、彼が身の危険を感じたことなど――
――ふと、なにかが頭の隅に引っかかった。
何か、とても大切な何かを忘れているような、そんな、違和感。
(……親父に殺されかけたことか? いや、あん時はろくに抵抗すらできなかたし――)
考え込む。
狩猟に適した肉体を持っているとはいえ、彼は戦闘行為にさほど慣れているわけではない。
もとより狩というのは強者が弱者を食らうもの。殺される危険性のある戦場の理を、彼は知らない。
一瞬の油断。危険性を排することができたという安心感から、気を緩めていた。
だからこの建物が今どんな状態にあるのかということを把握できていないのに、彼は棒立ちのまま考え込んでしまった。
黒の猟犬が突き破ってきた非常扉。
そこから続く、照明の壊れた暗い廊下の先に、それはいつのまにか佇んでいた。
二メートル近いほどの身長。それでどうやら、それが先ほど建物の入り口前に佇んでいた奴だということは分かった。
分かったのはそれともう一つだけ。あれは決して自分の探し人ではない。
視界に入るまで、四季は全くそいつの気配を感じていなかった。
それが対峙している今となっては、恐ろしく剣呑な気配を纏っていることを嫌でも理解させられる。
四季は沸き立つ苛立ちと共に舌打ちを一つ打った。どうにもよく分からないことが多すぎる。
それでいて、ひとつだけ分かることもあった。あれは確実に自分に害をなす。つまり敵だ。
睨み付けられても身じろぎもせず、その人影は感心するような溜息を漏らした。
「――ほう、獣を退けたか」
その声に反応するように、黒犬の死体がどろどろの液体に変じた。
慌てて振り払おうとするが、その必要もなく、それはアメーバのようにするすると廊下の奥へ進んでいく。
そしてそのアメーバは、まるでその人影に吸い込まれるように突如消滅してしまった。
眼前で起こったその異常に、四季の本能が警鐘を鳴らし始める。
ニゲロ、ニゲロ。アレニハキットカナワナイ。
それでも、一目散に逃げればどうにかなった時間は、遥か彼方に過ぎ去ってしまっている。
――必要なのは、逃走の方法とタイミングだった。
「てめえ……何だ?」
「その様子からすると、代行者や魔術師の類ではないようだな――先天的な超能力者、あるいは混ざりモノと見える」
面白い、そう呟くとその男は、四季と向かい合ってから初めて動きらしい動きを見せた。
右腕をゆらりと上げ、人差し指で四季を指し示す。
まるで、何かに号令を下すかのように。
「サンプルにはちょうどいい。食らってみるか――」
男の身体が脈動するように蠢く。
その瞬間、四季もまた動き出していた。
――おそらく、タイミングはここしかない。これ以上待てば、今回は自分が狩られる側に回ってしまう。
手持ちで最大のアドバンテージは距離だ。こちらが非常階段の踊り場に居て、相手が建物内にいるということ。
攻めるも守るも退くも、まだ選択の余地がある。
四季は両足に力を込め、そして――
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最終更新:2008年04月05日 18:10