756 :もしも遠野志貴が引き篭もりだったら ◆4OkSzTyQhY:2008/03/02(日) 23:03:15
仮にそのホテルをKホテルとしよう。
Kホテルは十階建てで、駐車場六十台分、客室数七十二を備える、この辺りではもっとも大きな宿泊施設である。
一階に備えられたレストランは稀に雑誌に乗る程度には有名で、それを利用する者も少なくない。
従業員の接客態度やサービスも悪くはなく、総じてKホテルは良質な宿泊施設だといえた。
創業暦にはそこそこの厚みがあり、オーナーは一度変わっている。
先代のオーナーが何を考えてこの三咲『町』にこんなホテルを建てようと思ったのか――それは誰も知らない。
だが少なくとも赤字を出さない程度にはKホテルは潤っていた。
実際、この日も宿泊客は多かったのだ。
ロビーでは暇だったのか追いかけっこをする幼い姉弟の姿があったりもしたし、
食堂ではどうやら娘の誕生日を祝う家族連れの微笑ましい様子を見ることもできた。
Kホテル。様々な人の想いが交差した憩いの場。
――これから、そのKホテルは崩壊する。
◇◇◇
男の身体が、一瞬だけ膨張する。
さながら袋に息を吹き込む様子にも似ていたが、男の身体に管やボンベの類は見えない。
故にその膨張は異常だ。異常には近づいてほしくない。ならば離れればいい。
結果として、四季が後方に飛びのき、踊り場から身を躍らせたのは当然の帰結であるといえた。
流石にこの高さでは無傷での着地とはいかないだろうが、それでも彼の拒死性を持ってすれば即死は有り得ない。
身体を包む浮遊感。一度だけ上昇し、そしてすぐ急激に下がっていく視界。
非常階段の手すり越しに、例の男と目が合った。
四季はニヤリと嘲る様に笑い、
「あばよ」
すぐに視界から消えうせるはずの男に、届くはずのない言葉を放り投げた。
だから、それは異常なのだ。
只管に黒い男が、その言葉に反応するように口を開き――
「たわけが」
――そして、その言葉までもが届いてしまうというのは。
気がつけば、浮遊感は消えている。
……有り得ねえ。
呟いたつもりだったが、声は出ない。当然だ。呼吸のための横隔膜が潰れている。
気づかなかった。今夜は暗い曇り空だったから、踊り場に満ちていた黒い影に気づけなった。
先ほどまで四季がいた場所から何か鋭く細長いものが伸びていて、それが四季を空中に縫いとめる形で貫いていた。
――例えるのなら、蟷螂の前脚であろうか。
だがその例えは正しくない。全長が三メートルもある蟷螂など存在しないのだから。
だけど、だったら影から僅かばかり覗いているあの独特の三角形の頭部と巨大な複眼はなんだ?
四季の視線があがる。
値踏みするようにこちらを見ているその複眼から逃れるためではなく、
気道に痞えた呼気を少しでも吐き出すために、自然と顎が上を向いた結果だった。
「…・・・ああ、おい……冗談だろ……?」
横隔膜無しでも呼吸ができるように肉体が作り変えられたのか、何とか声が戻る。
だが絶望を再確認させるだけの声など、なんの必要があるのだろうか?
屋上の、手すり。そこを足場に蠢く三十の百舌をみた。
――キイキイ、キチキチ。キイキイ、キチキチ。キチキチキチ……!
千鳥にも似た甲高い泣き声が、四季の鼓膜を陵辱する。
六十の視線が、すべて四季の眼球に注がれている。
だがその時四季が考えていたのは割とどうでもいいことだった。
その鳥どもは全身が黒一色。ならば百舌だと分かる要素は皆無のはず。
なのに何故、自分はそれを百舌だと決め付けたのか――
――現実逃避は、そこまでが限界だった。
「ギ――ヒ、ぅア、ガッ!?」
四季が逃げを打つのは当然の帰結。強大な敵に出会った野生動物が取れる手段としては当然の結論。
なればこそ、それは男――六百六十六の獣を宿すネロ・カオスには通じない。
そして一斉に飛び立った百舌の群れは、速贄の如き姿の遠野四季に群がった――
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最終更新:2008年04月05日 18:10