796 :遠坂桜 ◆0ABGok2Fgo:2008/05/04(日) 20:24:21
音がした。
扉の向こう、廊下の先。金属がぶつかる音。
剣戟、というのではない。鉄製の機械が動くような物音だ。
桜の使い魔ではない。金属製のもあるが、あんな音をたてるものは居ない筈だ。
「――Anfang(起動),Aufsteh(起ち出でよ).」
桜の魔術回路から魔力を受け、『影』の使い魔が浮かび上がる。
桜の主な武器たる魔術である。
他に使える術は基礎の域を出ない。自然干渉は不得意なのだ。
在り得ないものへの干渉こそ桜の本領。
物質的にも霊媒的にも何の根拠もない『影』を使うのも、その才能ゆえだ。
だが桜が使える虚数魔術はこの『影』の使役のみ。
宝石魔術も『影』への支援か、魔力の補充や放出にしか使えない。
だからこそ、『影』の使い方ぐらいは鍛錬してあった。
「Mein Schatten(我が影よ),Sink(潜め)!」
桜の命に応じ、『影』がさながら水面へ潜るように床へ沈む。
桜の使い魔は床という平面で蠢いた。
『影』は桜の意に応じ、扉と床の隙間から廊下へと滑っていく。
平面状態では物に触れられないが、偵察にはおあつらえ向きである。
廊下に居るモノが敵とは限らないが、警戒が必要なのは間違いなかった。
耳を澄ます。金属音は近づいている。扉のすぐ外からでも、音の正体が見えるだろう。
桜は瞼を下ろした。
「Leihe dein Gesicht(我が耳目を預ける)!」
閉じた視覚が更に暗転し、音が消える。
次の瞬間、視界には見慣れた廊下が広がった。
綺礼譲りの魔術である。契約関係にあるものと視覚と聴覚を共有する術だ。
つまり桜は、『影』の視点で物を見て、音を聞きながら、使役することが出来る。
問題点は二つ。
一つはこの術の使用中、桜は無防備であること。
何しろ本体の視覚と聴覚が無い。この状態で襲われれば、為す術も無いだろう。
もう一つは、感覚に生じるズレだ。
『影』の腕を動かすつもりが、桜自身が腕を伸ばしてしまう。あるいは、その逆もある。
元々『影』に意思や自我は無い。その分、桜の意思に忠実に従う。
だからこそ集中が乱れると、桜の体と『影』の意識が混濁してしまうのだ。
術を解いた後に残る違和感も無視し難い。
そんな訳で、桜はこの術が好きではなかった。
「こっち、じゃない。えーと、こっちの方かな?」
回れ右させて廊下を一望し、桜は息を呑んだ。
廊下に居たのは、全身を鎧で覆った人間。いや、あるいは人間ではないのか。
ともあれ鎧というのは戦うために着る。
この奇妙な客は茶を飲みに来たのではないだろう。
だが一体どうやって侵入したのか。結界を抜けてきたというのか。
そういえば前回の聖杯戦争では、魔術師の裏をかく魔術師が居たと聞く。
結界が無用の長物となる事態も、あり得ない事では無いのだろう。
術を解いた桜は立ち眩みに耐え、宝石の保管場所へ向かった。
机の引き出し、鞄に隠したもの。手早く集めていく。
次は一番の切り札。サーヴァントすら打倒し得る魔力の篭った宝石。
「あのペンダントは……コートの裏のポケットに――あれ?」
無かった。
ポケットに入れた桜の手は突き抜け、指先を覗かせている。
疑いようも無く、ポケットは破れ、穴があいていた。
あの宝石は先祖伝来の品、時臣の遺品でもある。それを――
「うそ……どっかに落とした…?」
桜はさすがに顔色を失った。
空腹に、このショックは堪えた。桜の目には涙すら浮かんだ。
しかし事態は待ってくれない。鎧の奏でる音は、桜を威嚇するように大きくなっていった。
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最終更新:2008年08月19日 02:52