178 :もしも遠野志貴が引き篭もりだったら ◆4OkSzTyQhY:2008/03/20(木) 22:56:37
暗闇に足を伸ばすのが、怖かった。
先の見えない道を行くのが、怖かった。
八年間で征服できたほんの僅かな領地で、彼は生きている――
◇◇◇
床が僅かに軋む。歩く度に、キシキシと軋む。
こればかりはどれだけ繰り返しても消せない。慣れることもない。
その事実に苦笑することもなく、志貴は鳴く廊下におっかなびっくりしながら足を進めていた。
自室からダイニングキッチンまでの道程を、彼は光の手助け無しで進まなければならない。
八年の間ずっとだ。慣れていないはずはないが、それでも彼は慎重だった。
すぐ傍に、あの『線』がある。
そして同じくらいすぐ傍に、有間の人達がいる。
決して関連性があるとは思えないそれらの事象。
だが遠野志貴は怯えていた。部屋に閉じこもっていても、ついぞこの恐怖からは逃れられたことがない。
――つまるところ、遠野志貴はどうしようもないほどの臆病者なのだ。
遠野志貴は何も選べない。選択を決断する勇気はなく、ただ時間だけを経過させてきた。
だから自害という選択肢も選べない。
故に、目を開けた。
ほとんど一日中閉じていたそれを開くのは、糊付けされていた紙を無理やり剥がすようなものだ。
だが込み上げてきた吐き気は、久しぶりに光を目に入れて眩んだというわけではない。
電気は付けていないのだ。アレが余計にはっきりと見えてしまうから。
「う……っ」
視界を満たすのは夥しい数の線。
無数に存在するそれが、地上に引きずり出された蚯蚓のようにのた打ち回っている。
否、それは紛うことなき赤竜の群れだ。
遠野志貴の視界を汚染するだけではなく、眼球から進入して眼底を捏ね繰り回し、耐え難い苦痛を与える。
昔はこうではなかった。線の数も今ほどではなく、もたらされる頭痛や吐き気も十分耐えらるレベルだった。
年を経るごとに、酷くなっている。その事実が嗚咽を漏らしてしまいそうなほどに恐ろしい。
奥歯を食いしばった。吐くことは許されない。後始末をするために、さらに長い間目を開けていなければならなくなる。
それに、吐くものも胃の中には残っていなかった。
線だらけの見難い視界。その不気味な線の向こう側に、志貴の食事が並べられている。
階段や台所の位置は変化しない。だが配膳の位置は日毎に変化する。目で見なければ食べることはできない。
食事を摂らなければ衰弱してしまう。
もとより不摂生極まりない生活をしているのだ。そして遠野志貴は自殺願望を持っていない。
本格的に堪え切れなくなる前に、食事に手を伸ばした。
箸を使う余裕などない。ただ手掴みで馬鹿のように料理を口に運んだ。
頭痛のせいで味など分からない。ただ生体活動を停止させないための無機質な食事だった。
無論のこと料理は冷めていたし、明かりをつけない中での食事など楽しいわけがない。
だが、志貴はもはや何も感じなかった。昔は――泣いたことがあるような気もするが。
なんにせよ、今はないのだからどうでもいいことではある。
吐き気と嚥下の背反に咽ながら、どうにか食事を終えた。
そのまま流しで手を洗い、水を飲む。そして目を閉じたまま、窓の方を見つめた。
(曇り……かな。月は出ていないみたいだ)
瞼越しに受け取る光量で天気を判断する。この八年間で得た数少ないスキルだった。
凄いように見えて、あまり意味のない特技だ。目を開けば一瞬で分かるようなことなのだから。
自分はそんなこともできない。
溜息をひとつ吐いて、志貴は台所を後にした。再び抜き足差し足するように恐る恐る足を進める。
――部屋にではなく、玄関に。
◇◇◇
別に、今日が初めてというわけではない。
だから人気のない道も知っていたし、途中で職質にあうということもなかった。
夜のしじま。暗がりの町を遠野志貴は歩いて行く。
途中で確認のために目を数回開けその度に激痛に苛まされながらも、その足取りは家にいた時より軽い。
――例えるのなら、それは月世界。
孤影さえ希薄になるような暗幕の中ならば、線のことも少しは忘れられた。
この夜中徘徊ともいえる奇癖が始まったのは、遠野志貴が有馬に引き取られてわりとすぐの出来事である。
曇りの夜、月や星さえ光らない日に、彼は外を彷徨った。
それは直視することのできない外への羨望もあったし、何より『線』と共に有馬の家に在るのが辛かったからだ。
この『線』は自分にしか視えていない。
ならばつまり、この線は自分の周囲にしか存在しないということだ。
だから、自分がいなければそこに線は存在しない。
切っ掛けは、確かそんなことを幼心に考え付いたからだと記憶していた。
だから幼少の頃の志貴も家を出て、ふらふらと当てもなく町をうろついたのだ。
それで偶然補導も何もされず、この場所へ辿り着けたというのは彼の人生においてなけなしの幸運だろう。
時刻は深夜二時を少し回ったところ。
遠野志貴は、ようやく目的の場所である公園に辿り着いた。
この公園は夜になると人気が完全になくなる。
立地などの関係からか、アベックや不良の溜まり場にはなっていないのだ。
だから、ここならば彼はそれほど怯えなくてもいい。
ベンチに座り、空を見上げた。
目は開いている。月光のない夜ならば、空に線は走らない。
遠野志貴が安心して見ることのできる、唯一の光景だった。
「ふぅ――」
溜息をつく。何の面白みもない一面の黒色。
それでも、ようやく人心地がついた。
遠野志貴はこれ以外の景色を見ることができない。自然、これは彼の中での絶景となった。
空に線は映らない――そのことに、もっと早く気づければ彼の人生も変わったのかもしれないが。
それでも最早それは考えても詮無き事柄だ。
いまはこうして、何の気なしに見ることのできるものが在ることにただ感謝すべきだろう。
遠野志貴の日課はこれでお仕舞いである。
あとは夜が明ける前に家に帰って、寝床に潜り込むだけ。
次の曇りの日まで、彼はまた震えながら過ごすことになる。
――そこに、彼以外の何かが干渉しなければ。
ベンチに座る彼に、近づく影があった。
その影は――
【選択肢】
謀:女性のようだった。
裂:男性のようだった。
白:白い猫だ。
黒:黒い猫だ。
空:一定の距離から、彼を見つめていた。
投票結果
最終更新:2008年08月19日 02:57