854 :もしも遠野志貴が引き篭もりだったら ◆4OkSzTyQhY:2008/05/08(木) 01:50:21
ギシリ、と腰掛けているベンチに人一人分の体重が追加される気配がした。
そんな不意打ちに驚愕して、遠野志貴は思わず身を竦ませる。
一心に夜空を眺めていたとはいえ、人が近づいてくるのにも気付かなかった程呆けていたとは思いたくなかったが。
……まあ実際、こうした状況になってしまっているわけではあるのだけれど。
とにかくその人物は、ベンチなら他にもあるというのにわざわざ自分の隣に腰を落ち着けたらしい。
つまり、自分に用があるということだろうか。
だが夜の公園で会話を交わすような知り合いを、遠野志貴は持っていない。
ならばこの人物は、肩が触れただけで因縁をつけてくるようなアウトローな方々なのだろうか?
いや――違う。そんなことは、どうでもいいのだ。
志貴は頑なに空を見ている。決して人が存在していられない領域を。
好ましい人物か、あるいはその逆か、などという問題に関わらず、恐ろしいのはすぐ隣に人がいるというこの状況だ。
次第に量を増してきた冷や汗と、際限なく上昇する脈を打つ速度。
それらを自覚しながら、それでも志貴は微動だにしない。逃げようともしない。
それは、僅かな振動で崩れてしまいそうな砂の城の中にいるようなものだ。
下手に動けば、生き埋めになってしまう。
だから、動けない。
だから、その声を聞けた。
「こんばんは、いい夜ですね。――曇りですけど」
別にそれがセイレーンのような魔性の声でなくても、遠野志貴にとっては掘り当てた宝石のように貴重なものだ。
数年ぶりに聞けた、ドア越しでない人の肉声。
それはいつその声の主に線を重ねてしまうか分からないとても不確かな物だったが、
それでも遠野志貴が心のどこかで待ち望んでいたものではなかったか。
恐怖が消えたわけではない。
だけど動けない理由に少しだけ恐怖でないものが注ぎ足されたなら、
「少し、お話しませんか?」
その蜜のような誘いをどうして断れただろうか。
◇◇◇
「じゃあ、遠野君ってあの坂の上の?」
「あ――ええ、まあ」
「はあ、凄いんですねえ」
曇天では月の位置の変化はわからない。遠野志貴は腕時計の類を持っていない。この公園に時計は無い。
この公園に、無粋に時の流れを知らせるものは何一つ無い。
だからなのかもしれない。邂逅から数十分。弾んだ会話とまでは行かないが、それでも途切れることなくその奇妙な交信は続いていた。
志貴が喋るのに慣れていないためその進行は遅々としたものである。
それでもその女性は気長に、そしてどこか親身さを漂わせて会話のしやすい空気をつくっていた。
彼女の名前はシエルというらしい。
なんでも夜の散歩が趣味で、志貴に話しかけたのは同好の士だと思ったからだとか、何とか。
――まあ、そんな人もいるのだろう。志貴が抱いた感想はそんなもので、特に気にはしなかった。
それよりも、いまはこの対話が新鮮だったのだ。
決して視線を合わせられない会話。どこか背中が泡立つような不自然な座談。
とても自然な交流とはいえなかったけど嬉しかった。
これは、遠野志貴が望んでいたものだったから。
「でも、それだったら別にこの公園でなくてもいいんじゃないですか?」
「うん……え?」
「だってこの公園、あそこから結構距離ありますよ?
あのお屋敷からだったら、もっと近くにいい場所あるじゃないですか」
周囲を指し示すように両手を挙げながら、シエル。
確かに、この公園は広くない。
おまけに誰がどういう設計思考でデザインしたのか、やたらベンチだけあった。むしろベンチしかないくらいの勢いだった。
「……そういや公園って誰が設計するんだろう」
「はい?」
「あ、いや、なんでもないです」
滅多に会話をしない志貴にとって独り言は癖というよりは生態ようなものだったが、
だからといって他人と話しているときにまで出てしまえば悪癖という他ない。
――話がそれたが、そもそも志貴が知る公園はここだけなので別の公園という選択肢は無かったのだ。
とはいえ、引き篭もっているというのを正直に話すのは躊躇われた。
世間体的に聞こえは悪いだろうし、それを判断できる程度の常識はまだ残っている。
少し考えて、結局他の公園を知らなかったという部分だけぼかして説明することにした。
「確かに俺は遠野なんですけど、住んでるのは親戚の家なんです」
「? お泊りですか?」
「違いますけど――まあ、色々あって」
「……ごめんなさい」
目を逸らし、しゅんと縮こまるシエル。
彼女がどういう風に『色々』を想像したかよりも、その急に萎縮した雰囲気に慌てて志貴は言葉を捻り出した。
「いや、別にそんな悲しい事情とかがあるわけじゃなくてですね? なんか、勘当されたんです」
「……それ、十分悲しい事情じゃないですか?」
「……そうかもしれません」
自分にしてみれば当時はそれどころではなかったので気にしていなかったが、考えてみれば相当酷い。
(まあどっちにしろ、外に出れない精神病患者なんて手元には置いておきたくないだろうし)
溜息を吐く。
――考えないようにしているから耐えられるのであって、一度思い出してしまえばそれは彼を何処までも苛んだ。
「……っ!」
胸の奥がどろりと蠢いた。どす黒いものが胸を焼き、喉をえずかせる。
精神安定剤代わりだった曇り空も、こうなっては逆効果だった。雲の外周の不規則な曲線が脳味噌を掻き回す。
そうだ。彼は恨んでいる。
諦観しているような振りをしながら、こんな状況を心の底で呪っているのだ。
志貴は目を閉じた。長い間同居していた発作だ。付き合い方も知っている。
視界を閉ざす。五感を閉ざす。思考を停止させる。
そうしていれば、いずれこの性質の悪い同居人は諦めて大人しくなる。
――だけど、今回はそれとは別の処方が施された。
「……大丈夫ですか? 震えてますよ」
額に、冷たい手のひらの感触。
まるで冷却材のようなそれは、瞬時に遠野志貴の体から余剰した熱を奪っていった。
それは心地よい感触だったが、それよりも志貴は考えられずにはいられなかった。
閉じた瞼の数センチ先に、人の、腕が――
「……!」
思わず、その手を払いのける。
ぺしんという軽い感触。幸いにして、それほど抵抗せずにシエルの手は離れていったが。
動悸はおさまった。だが、今度はその代わりにどうしようもない罪悪感と自己嫌悪が訪れる。
混乱の余波か、文章を組み立てることすら満足にできない。
「あ……その、俺」
「――良くなったみたいですね」
帰ります、と言って、彼女はベンチを立った。
謝罪のタイミングは逸した。そして彼女を引き止めるにも、志貴はその姿すら見ることは叶わない。
きっともう、会うことは無いだろう。
どうしようもなく――項垂れることすらできずに――やはり空を見ていた。
だから、
「それじゃ、また今度」
そんな声を聞いたとき、それは都合のいい幻聴に聞こえた。
「私も、たまにこの公園に来るので。また会ったらよろしくお願いしますね」
気配が離れていく。彼女はこの場を去っていった。
それでも言葉はしばらく残留した。何気ない調子で発せられた言葉は、だが聞いた者の中に強く刻まれる。
「……帰るか」
どうにかそれだけ呟くと、志貴も立ち上がり、帰路に着く。
動悸は完全に静まっていた。体温も平熱。何もかもが平常。
だが志貴は己の熱を測るように額に手を当てた。
当然、あの感触は残っていない。
それでも彼は、しばらくその手を剥がす気になれなかった。
◇◇◇
ふらふらと危なげに歩いていく志貴の姿を、シエルは電柱の上から俯瞰していた。
聞きだせた情報は多くない。ほとんど何の役に立たないものばかりだ。
「まあ、当然と言えば当然ですか」
なにせ遠野志貴は、数時間前までまともに会話をしたことが『なかった』のだから。
慣れていないというレベルではない。遠野志貴が引きこもってからの八年間、彼は人と話したことが無いのだ。
人は自ら進化できる動物だ――だが同時に、徹底的に退化できる動物でもある。
数年も会話をしていなければ、人とコミュニケーションを取る方法など綺麗さっぱり忘れてしまう。
それでも何とか会話ができたのは、シエルが都古に成りすました時に使用した暗示の副作用に過ぎない。
『都古と会話することに対する違和感』を取り除いた暗示は、交流という分野で彼に根拠の無い自信を与える。
自発的に話そうとすること。シエルの暗示はその第一歩目を助成した。
だが、結局は空回りに過ぎない。結果は見ての通り。最後にはパニックを起こし、シエルは再び暗示を使わなければならなかった。
「それでも――いくつかは分かりましたか」
遠野家からの勘当。異常ともいえる接触拒否。その他いくつか。
八年前、遠野志貴に何が起きたのか?
それを知るには、やはり――
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最終更新:2008年08月19日 02:59