黒い世界。桜の他に何も無い。
だから桜の中身以外に見るものが無い。
記憶が溢れ出していた。
喜びがあり、悲しみがあり、怒りがあり、楽しさもあった。
なのに、心の奥底は常に灰色に淀んでいた。
本当に心が動いたことはなく、涙を流したこともなかった。
どれだけ浮ついた感情に流されようとも、心の芯は冷めていた。
だから、記憶に色が無い。
父である時臣。母である葵。姉だった人。綺礼。一成。霧島。綾子。慎二、士郎。
誰も不要だなんて思ったことはない。けれど、どの人の顔も色褪せて見えた。
それが
遠坂桜の歩んだ道。遠坂桜という人間。
生きているのは外側だけ、心の真中は壊死している。
どれも大事なのに、全てが灰色にしか見えない。
自分がどれだけ酷薄で壊れているのか、これ以上知る必要は無かった。
目を閉じた。
もう終わってしまっても構わない、と。
その瞼の裏。
不意に、鮮やかな色彩が通り過ぎた。
『遠坂。これはお前の意見か』
低めの、よく響く声。
ぴしりと伸びた背、真っ直ぐに目を見つめられていたのを思い出す。
生徒会の書類を提出したときだった。彼には、きっと何でもない一言だったのだろう。
だが桜には、違った。
生徒会で書記という仕事を引き受けたのは、形式通りの仕事だったからだ。
何の情熱も必要ない。淡々と作業をこなす。それだけのつもりだった。
だから、作業に混じった自分の意思にも、桜は気付かなかった。
そのかすかな桜の声を、彼は見つけた。
桜自身も知らない桜の姿に、彼は気付いたのだ。
以来、彼が気になった。何かにつけては彼を見ていた。
彼は厳格で、だが自分を縛ることもなかった。
ごく自然に周囲の現実を受け止め、冷静に理性を働かせる。
そして、冷めているだけではありえない、嘘偽りのない言葉を常に述べる誠実さ。
自分には無い、芯の強さを感じた。
心のない人間は居ない。揺れることのない精神も存在しない。
けれど彼は、それに耐え、一人で歩んで行ける強さがあった。
憧れた。
気付いたときには、好きになっていた。
顔を合わせると、胸が躍った。声を聞くと、心臓が弾けそうだった。
聖杯戦争の準備で忙殺されても、生徒会の仕事を続けた。
霧島に会うのは楽しかった。一成と話すのも好きだった。
だが何よりも、彼と会えるだけで心が震えたのだ。
彼のように強くなりたい。そう思った。
桜は弱い。
行き場のない喪失感。不良品である自分への恐怖。
もう見えてしまったものだ。意識の内側に、絶えずそれは在り続ける。
それを正面から受け入れる強さは未だ無い。
でも、この熱を手にしていれば、折れそうな自分を保っていられる、立ち向かえる。
そうやって、いつかは本当に強くなってみせる。
そう信じられた。
だから、戦おう。
何も無い世界に一人漂うのではなく、強くなるために現実の下で戦うのだ。
強くなりたい。ただ守られる子供のままでは居たくない。
故にアサシンに立ち向かい、セイバーを前に踏み止まった。
その思いをたかが恐怖のために打ち捨てるなど、愚かにも程がある。
桜は拳を強く握り締めた。
自分が自分であるという確かな感触。
瞼を開く。
暗く、しかし広い空。波の声。響く剣戟。そこに黒く塗りつぶされた世界は無い。
折れかけた膝に力を込めた。倒れそうだった体が、地面を前に踏み止まる。
イリヤが目を見開いていた。桜は歯を食いしばり、イリヤを見据えた。
刹那の後、殺気を孕んだイリヤの魔力が膨れ上がった。