12 名前: Double/stay night ◆SCJtHti/Fs 投稿日: 2006/09/03(日) 22:01:35
弐 逃げる
長い長い諮詢の後、エミヤはついに決意した。
エミヤに印象的だったものがある。石段を調べに向かったとき、彼を呼び止めたカレンの表情。久しく見ていない泣きそうな顔。なんて、らしくない。あんなに寂しげな顔をしてくれるなんて、何年に一度の事だろう。
ふと、思い出した記憶がある。捨てられた子猫のように震えていた、あの日守りきれなかった誰かの顔。その女性を、また見捨てていくのは少し辛い。
「……そうだな。俺は、一度失敗してしまったからな」
遥かに続く石段の上。そこにあの死神がいるという。エミヤはその恐ろしさを知っている。それならば、少しでも有利な状況で戦うべきだ。要は勝てるとき、勝てるように、勝てる者が勝てばいいのである。もしくは間接的に利用してもいい。邪魔な勢力とぶつけあわせる事ができれば、それは非常に有利に働く。
「ここは引こう、凛。私達には時間がある。何を為すにしても、急いては事を為損じよう」
「そう。それも一理あるわね。……じゃ、戻りましょうか」
空は既に明るさを増し、鳥の鳴き声がどこかから聞こえる。戦闘がなくなって気が抜けたのか、凛はすでに眠そうな表情をしている。今は一刻も早くベッドに倒れ込みたいのか。エミヤは舟をこぎながら危なっかしく歩く凛を抱え上げ、カレンと肩を並べて帰路へとついた。魔女のように微笑む黒猫の視線に見送られながら。
さくら、と聞こえた凛の寝言が、何故かとても寂しげに耳に残った。
衛宮邸の有り様は酷かった。庭は荒れ果て屋根は痛み壁には大小様々な穴が開き、土蔵に至っては瓦礫とクレーターを残すのみ。セイバーは胸の傷が治りきらず安静状態であり、ルヴィアゼリッタも魔力不足で寝込んでいた。全ては、昨日の戦いのなごりである。
「まいったな……」
縁側から庭を眺め、士郎は思わず呟いた。この光景を、大河にはどう説明すればいいのだろうか。近所を歩けばどれだけ騒音の苦情がくるのか分からない。そして何より、一回戦っただけでこれだけの被害がでた事それ自体が問題だった。
これから先、どれほどの被害、どれほどの犠牲者がでてしまうのだろう。自分に何の力がない事を、士郎は今ほど悔しく思った事はない。せめて、せめてあちらの世界に片足でも踏み入る事ができたのなら、彼女達に代わって戦えたかもしれないというのに……。
「それじゃ、いってくるな、桜。二人の看病をよろしく頼むぞ」
「はい。……ごめんなさい。本当はわたしが行かなくちゃいけないのに」
「気にしなくていいさ。大体、俺が残ったって女の子相手じゃ満足に世話もできないだろ?」
「そう……、ですね。……先輩、早く帰ってきて下さいね」
時刻は早朝から朝へと代わる頃、士郎は桜とライダーを残して藤村邸に出かけていった。桜の代理として、今夜に予定されている間桐家の通夜の打ち合わせをするためである。
間桐家について、実質的な細かい事は全て雷画や大河が受け持ってくれたが、それでも何もしないわけにはいかなかった。本来なら桜も出席すべき席なのだろうが、彼女の過去を知ってしまった今、士郎はあの家にこれ以上縛られてほしくなかったのだ。今は一刻も早く、衛宮の家に馴染んでほしい。それが士郎の桜に対する、嘘偽りならぬ想いだった。
通夜の話そのものはすぐに終わった。桜の今後も、雷画が後見人として面倒を見ると胸を叩いてくれた。藤村組が懇意にする弁護士や公認会計士も紹介してもらって、遺産や保険金、相続税などに関する件も無事滞りなく済みそうである。桜が表の世界で一人の少女として生きていく手はずは、一応一通り整ったといえる。
あとは、本人の意思と聖杯戦争さえなんとかすればだが。
「士郎、後はあなた次第だからね。桜ちゃんを幸せにしてあげなさい」
「……おう。そうだな」
このとき、士郎と大河たちでは、「幸せにする」という行為の解釈が決定的に違っていた。即ち、士郎は妹分として、周りは妻として。だからだろう。大河が渡した桜宛の封筒の中身が結婚届の届け出用紙だったと士郎が知るには、まだ少し永い時間が必要だった。
士郎は昼食をご馳走になり、その帰り道にふと思案した。時計は予定より少し早い時間を指している。頭に浮かぶのは寝込んでいる二人と、その看病をしているはずの二人だった。全員、神秘の世界で懸命に生きているように士郎には感じる。
士郎はそんなみんなの為に、せめて自分ができる事をしたかった。早めに買い物を済ませて手のかかるご馳走をつくろうか。それとも早く帰って二人の看病を手伝おうか。
最終更新:2006年09月14日 16:14