127 名前: Double/stay night ◆SCJtHti/Fs 投稿日: 2006/09/06(水) 02:22:04
壱 商店街に行こう。
———はじめに、そんな夢を見た。
どれほどの聖杯戦争をくぐり抜けたのか。何度志なかばで倒れたのか。聖杯を手に入れた記憶はなく、幸福に過ごした時代もない。そのサーヴァントは永遠に、死ぬ間際の一瞬に留まっている。その願いは決して成就せず、具現してはいけない理想であるが為に。
それは遥か昔の世界の記憶。戦うと決めたあの日の決意。
次の聖杯戦争のために。次の次の聖杯戦争のために。世界が幸せでありますように。誰もが笑って暮らせますように。身近な誰かが、共に笑いあったあの人が、幸せな明日を迎えられますように。
そんな都合のいい世界が、一つぐらいあったっていいじゃないかと。
それは、既に本人さえ忘れた夢。自分の世界から逃げ出した誰かが見た、はじまりの世界の原初の記憶。失敗し続ける輪廻の中、空っぽになった胸にたまるのは、虚無と絶望と後悔だけ。
それでも、彼は願わずにはいられない。どうか、みんなが幸せでありますようにと。
イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは上機嫌だった。笑って、スキップして、ついでに子供らしい外見に身をまかせて抱きついてみたりみなかったり。初対面の彼をこんなに気に入ってしまうのは彼女自身信じられなかったが、やっぱり、本物の士郎は士郎だった。
なにせ瞳の色からして違っていた。イリヤのサーヴァントとは大違いで、驚くほど澄んでいて綺麗なのだ。思わず見とれてのぞき込んでしまい、士郎に不審がられたのはご愛嬌だ。
「ふーん。これがお兄ちゃんお勧めの大判焼なんだ」
「ああ。食べてみな。美味しいから」
公園のベンチに座りながら、士郎のおごりでおやつを食べた。暖かい紅茶も買ってくれた。なんてお人好しな男なのか。初対面の怪しい少女を相手にして、普通ならここまで打ち解けない。イリヤはとても嬉しくなって、士郎の頬を思いっきり引っ張りたくて仕方がない。
「どう?」
「甘いね。うん、美味しいよ、これ」
はむはむと食べてこくこくと飲んで、イリヤは心が温かくなるのを感じていた。こんなに楽しい時間は何年ぶりだろう。たしか、あれはまだ母親が生きていて、父親が裏切りを働く前で……。
裏切りの男、衛宮切嗣。彼の養子がこいつなのだ。何度この火を夢に見て、どれほどこの時間を待っただろう。その結果は予想以上に素晴らしかった。あらためて自分の弟を観察して、イリヤは頬が緩むのを感じていた。
そう、こんなに士郎を気に入ったから。きっと、とても楽しく殺せるだろう。
「サクラ、あなたもそろそろ眠った方がいい」
家事と看病が一段落ついたのを見計らって、ライダーは己が主に進言した。ダメージをおったセイバー達も勿論そうだが、桜だって徹夜あけで疲れているのだ。ただでさえ色々面倒ごとが重なっているのだから、眠れるときに眠らないと体に悪い。
「後は私が引き受けます。セイバーは大分回復してきましたし、ルヴィアゼリッタも目覚める頃には大丈夫でしょう」
「ライダー。でも……」
「いいですか? 私が今一番心配するケースは———」
桜の腕をとり、ライダーは少し強引に彼女の寝室へ連れていく。桜は戸惑っているものの、抵抗する事はせずついていった。彼女は士郎の次に信頼していたから。
「サクラ、あなたまで倒れてしまう事です。どうかご自愛下さい。マスター。そうなればシロウもきっと悲しみますよ」
「そう? ……そうね。それじゃあ、お願いできるかな、ライダー」
「はい。お任せ下さい」
寝巻きに着替え、おとなしくベッドに潜り込む桜。それをしっかり見届けて、ライダーはやっと安心した様子になった。何気なく部屋を見回すと、枕元に見なれぬ何かがおいてある。それは兎の耳だった。
「サクラ、これは確か」
桜の腕ほどもある大きな右耳。それは士郎が買った例のぬいぐるみの、どうにか残った残骸だったのだが……。
「……まだ、捨ててなかったのですか」
「捨てられるわけないでしょ。せっかく先輩が買ってくれたのよ?」
むっとしてその耳を大事そうに胸元に寄せる桜を眺め、ライダーは微笑ましい気持ちになった。聖杯戦争さえ落ち着きさえすれば士郎にいくらでも買ってもらえるのだろうが、それはあえて指摘しない。ライダーは不粋だと考えたのだ。
「そろそろ私は下がりましょう。おやすみなさい、サクラ」
「ええ、おやすみなさい」
128 名前: Double/stay night ◆SCJtHti/Fs 投稿日: 2006/09/06(水) 02:23:02
「でも、なんでイリヤは俺なんかを探してたんだ?」
「んー? えっとね、ひみつ。まだそこまでは教えてあげないんだから」
士郎は少し困っていた。商店街で声をかけてきた白い少女が、なぜか自分にじゃれてくるのだ。はじめは怪しいと警戒したが、それはすぐにやめることにした。無邪気に笑う彼女の顔は、どう見ても純真な子供のそれだったから。
「だけどさ、昨日だってずっと探してたんだろ?」
「うん、そうだよ。なのにお兄ちゃんったら全然見つからないんだもの。わたし少し怒っちゃった」
そのときの苦労を思い出したのか、ぷくーと頬を膨らましてみせる白い少女。イリヤスフィールと名乗った彼女は、士郎とどんな関係があるのだろうか。ありったけの過去の記憶と相談してみても、該当しそうなものは何もなかった。
唯一、思い当たった事がある。聖杯戦争。今この街で行われているという、魔術師達の狂気の宴。もしこんな幼い子供が巻き込まれているのならば、それは士郎にとって悲しすぎた。
「なあ、イリヤ……」
「なに? どうしたのシロウ」
士郎は一体どうするべきか、迷った末に選んだのは———。
最終更新:2006年09月14日 16:17