742 名前: Double/stay night ◆SCJtHti/Fs 投稿日: 2006/09/17(日) 23:12:22

壱 使用する

 深夜の市街地に、狂った男の狂笑が響いている。間違いない。ここはあの世界だった。ここまで弱い士郎は他にいない。こんなにもふざけた展開は他にない。ここは全てがはじまった世界。アサシンが生まれた、アサシンが育った、そして最悪の悲劇が起こったあの世界だった。

 つまり、あの衛宮士郎こそアサシン本人ではないか。

 確信するまでは不安だった。確信してしまえば絶望すると思った。その勘違いのなんと楽しい事か。アサシンは今、こんなにも喜んで嬉しがってる。

 変えてしまえばいいのである。ここから、あの未来を。絶望的でおぞましく醜悪なあの光景を。彼女を襲った底なしの暗闇を。当時の記憶はとっくに磨耗してしまったが、あの瞬間の記憶だけは決して風化してくれなかった。何度後悔したか知れない選択を覆す日が、やっと、やってきたのだ。

 どれほどこの世界を渇望したか。どれほどの聖杯戦争を駆け抜けてきたか。冬木の聖杯を手に入れたいと世界に願ってから何度死に、何度敗れ去ったか数えられない。アサシンはその尽くを自ら望んで負けづつけ、次の戦争の為に、次の次の世界の為に繰り返しの中で生きてきたのだった。

 全ては、間桐桜が幸せに笑う世界をつくる為に。

 その尽くを失敗した。儚げに笑う世界は幾つもつくった。これから癒されていく未来もできた。しかしそれでは、アサシンは決して納得しなかった。彼が望むのはただ一つ。滑稽なまでに幸せで都合のいいハッピーエンドだけである故に。

 だがそれさえも、既にどうでもいい事だ。この世界で、この世界で桜を生き残らせればそれでいい。明後日の朝、いつも通り微笑む姿を見たい。朝の光に髪を揺らして、士郎に笑いかけ先輩と呼ぶ。たったそれだけが見たかった。

 とどめなく流れてくる涙を拭いもせず、瞳を怪しくぎらつかせながら、アサシンは新たな決意を持って夜空を見上げる。

 サーヴァントとなって何度、この空を見上げたか分からない。全てはこの為。本来使えないはずの魔術も歪ながら修得した。射撃の腕を上げ銃器の使い方に精通した。全ての関係者の事情を熟知した。それがやっと報いられる。

 歓びとともに携帯電話を開きアドレス帳をあける。コールした先に待つのはただ一つ、大空洞の爆破である。

 こうして大聖杯を破壊してしまえば、次回の聖杯戦争を有利にはじめる為の魔力を得られない。故にこれは最後の手段であった。が、今回こそ最後なのだから問題がない。円蔵山は崩壊し、聖杯の中身はぶちまけられ、聖杯戦争は終わりを告げる。膨大な犠牲者が出るだろうが、それすらも放置した場合よりずっと少ないはずなのだ。

 そこで彼の指がふと止まった。アサシンの頭に一つの考えが浮かんだのだ。この選択をすべきなのは、この責任を負うべきなのは、自分でなく士郎ではないかと。確かにそれもそうである。この世界で生きているのは、これからも生きていく義務があるのは、他ならぬあの士郎なのだから。

 ならば、アサシンにすべき事はただ一つ。イリヤを失い消えかかっているこの体を是が非でも朝までもたせる事である。必要なのは魔力と縁か。

 その為には、人に取り付き食らうのが手っ取り早い。



 衛宮邸の母屋は瓦礫となって使用できず、客間だけがなんとか雨風をしのげた。士郎はその一つに寝かされて、凛とルヴィアゼリッタの治療と看病を受けている。セイバーも同じく重傷であり、隣で休ませて回復を待っていた。

「桜、ここだったの」
「遠坂先輩……」

 辛うじて形を残す縁側に腰掛け、桜はライダーとともにぼんやりとしていた。見通しがよく、奇妙に広々と感じられるようになってしまったこの家を眺めていると、桜の心は深い不安の海の底まで沈んでいくのである。

「先輩、助かりますよね」
「大丈夫よ。もうとっくに安定してるわ。明日の朝には目覚めるんじゃない?」

 今はルヴィアゼリッタが様子を見てるから心配ない、とできるだけ気楽に凛が告げると、桜は逆に顔を伏せてしまう。スカートをぎゅっと握りしめ、何かに耐える様子で肩を震わせている。

「……どうしたのよ」
「………………」

 尋常な落ち込み用ではなかった。なんだろうと覗き込む凛から目を背けて、桜は唇を噛み閉める。いぶかしむ凛はライダーと視線を合わせてみたのだが、彼女は静かに首を振るだけだった。仕方なく凛は隣に座り、肩を寄せて夜風にあたった。

「ライダー、私達は席を外そう」

 虚空より現れたアーチャーの言葉に頷いて、ライダーも一言断ってから消えてしまう。後には静寂が残されて、冬の澄んだ夜空の下、姉妹は無言で寄り添っている。風の囁きだけが漂っていた。

 たまには、こんな一時もいいと思った。

743 名前: Double/stay night ◆SCJtHti/Fs 投稿日: 2006/09/17(日) 23:13:13

 大聖杯のある大空洞は、暗く、深く、深淵の闇に覆われている。光はなく、風もなく、音もなく。時折、魔力が吹き上がる気配だけがある。その規模は実に数十メートルを超え、魔術師達が織り成す奇跡など遥かに超えて壮大である。

 その中央に、人ならざるものの鼓動があった。その主こそアンリマユ。この世全ての悪と恐れられた悪神である。

 彼は歓喜に震えていた。復活が間近である事を感じ取って。己が生誕の時を心待ちにして。

 どれほど長い間憧れてきただろう。遥かな現世に恋い焦がれ、この暗い井戸の底から羨み眺めた日々が終わる。自分の脚で歩き、自分の肺で呼吸して、自分の思うがままに手を動かせる。そして、自分の思うがままに食らうのだ。

 人類を尽く殺戮し、人間に恐れられ敬われるのが彼に望まれた在り方である。ならば、最初に食べるのは人間がいいだろう。一度も味わった事がなく、長く親しみ続けたその味を、彼はまだ存在しない舌の上で転がした。

 アンリマユの臓腑の中を、ギルガメッシュの魂が蠢いている。聖杯が砕かれたのは幸いであった。受け皿が消え、さらに偽りの聖杯さえ存在しなかった状況において、この規格外の魂は直接大聖杯に流れ込んできたのだから。

 だが、器は未だ満ちてはいない。誕生には母体も必要だ。彼を宿すに足る、強く生命力に満ちた雌の肉体が欲しかった。できれば、どす黒く負に染まったオンナがいい。



「—————————っ!!!」

 一瞬。ほんの紙一重の差で、———逃げられなかった。

 調査のため下ろしたパスは雁字搦めにされ乗っ取られ、おぞましい触手がキャスターの魂を犯そうと這い上がってくる。大聖杯の中には鬼子がいた。アンリマユ。あれは自身を生み出す胎盤を欲している。それはつまり———。

 女として、メディアは己が運命に旋律した。

 柳洞寺の中庭で一人、キャスターはもがき苦しんでいる。喉元から込み上げてくる黒い泥。痙攣する手足、腐っていく心。殺意が奥底から沸き上がった。人間を。ゴミのような人間共を。かつてメディアを弄び嘲笑した愚か者どもをひねり殺したくてたまらない。

「——————がはっ!」

 漆黒の呪を吐き出して、精いっぱいの抵抗をした。これはもはや魔術ではない。繊細で洗練された技術もなく、願いをかなえる望みもなく。故に、キャスターでもこの綱引きには勝てないだろう。

 呪がかかった土が悲鳴を上げる。ジュクジュクとただれ、異臭を放って黒ずんでいく。彼女の身体も溶けかけている。なんという威力。もしもこれを人間が触れたなら、灼熱の苦しみに踊り狂ったのか。

 全身の皮膚からにじみ出る泥を拭い取る。両手はどんどん蕩けていったが、後から回復すればなんともない。たとえ泣きそうなほど痛かろうと、宗一郎に危害を加えるよりは百倍もましだから。

 宗一郎。その名前を思い浮かべたのがまずかった。地下の奥底、大空洞の中心で、邪悪な赤子が確かに笑った。キャスターが心の支えとするものがあるならば、それゆえ陥落を拒むならば、それさえへし折ってしまえば容易いと。

「だめっ! やめなさい! やめて!」

 制止の声が届くはずもなく、大量の泥が本堂へと向かう。人の匂いを嗅いで這いずりまわり、全てを融かして食らっていった。それはまさに、地獄と呼ぶのにふさわしかった。

 あちらこちらから悲鳴が聞こえる。夜の闇を切り裂いて、誰かの断末魔が聞こえてくる。キャスターは泥にからめとられて動きもとれず、何一つ口に出す事すらできず、耳を塞ぐ事さえできずに震えていた。愛しい人の悲鳴が聞こえてくるときはいつなのか。

744 名前: Double/stay night ◆SCJtHti/Fs 投稿日: 2006/09/17(日) 23:14:01

 ———しかし、どんな不幸か幸運か。燃え上がり崩れ落ちていく建物の中、一人の男だけが歩いてくる。

「……ふむ」

 葛木宗一郎。彼は炎を背負い夜に溶け込み、流れる泥など見向きもせずにキャスターへと近寄った。気付いているのかいないのか。境内の闇の全てが今すぐにでも、宗一郎に牙をむこうとしているのに。

「それは、敵なのか」

 疑問ではなく確認。キャスターの身体を拘束する泥を見つめながら、宗一郎は拳を握った。彼では決して勝てないと、知りもせずに。

 キャスターはいまほど自分の無力さを呪った時はなかった。既に体は無惨に腐り、ルールブレイカーすら握れない。せめて首だけでも振りたかった。逃げてくださいと告げたかった。

 このままでは、彼を殺し、食らい、犯し尽くされた挙げ句に憎い子どもを産まされるのだろう。希代の魔女として、こんな事だけは知りたくなくても分かってしまう。自害すらできないサーヴァントなのに。

 最後の最後、メディアは体に残る全ての魔力を凝縮させ、たった一言、令呪にのせて叫び声を上げる。

「———バーサーカー!」

 刹那、胸元にナイフが吸い込まれた。



「そしたら、その男は図々しくも願ったのです。女の人生そのものが欲しいと」

 凛と桜しかいなかった縁側にカレンが混ざっていたのはいつだったか。とにかく、いつのまにか寄り添っていて、姉妹の会話に加わっていた。やがて彼女はどんな気まぐれだったのか、昔の話を語りだしたのだ。

 さあさあ皆様ご静聴。昔々あるところに、男と女がおりました。男は他人の不幸が許せず自分の命をかえりみず、女は願いを持たず全てを受け入れ———。

「それで、カレンさんはなんて」
「私ではないわ。名前も知らない女の話よ」
「そう。なら、それで?」
「ええ。この駄犬、欲深いのもいい加減にしなさいと蹴り飛ばしてやりました」

 クスクスと、女たちは静かに優しく笑いあう。空気はほのかに暖かかった。二人のお話は決して幸せばかりじゃなかったけど、まあそれなりに楽しそうな人生だったのだ。

 どうでもいい生活習慣について口論した話。長々と説教をした話。された話。近所の店に買い物に出かけた話。戦いに明け暮れた話。二人で風呂にはいった話。一緒に死にかけた話。他の女達に囲まれた話。悪事を働いた話に善行を積んだ話。そして、駆け抜けた人生の終わりの話。赤い英雄の最後の話。

「では、二人は恋人だったんですか?」
「……どうでしょう。最後まであやふやな関係でしたね」

 男女は他人というには腐れ縁だったし、恋愛関係というには拙すぎた。仲間にしては喧嘩ばかりの毎日だったように思われて、友人と呼ぶには気安すぎる。結局、どんな気取った表現もしっくりきそうになかったので。

「一緒にいた人、ですね。そう、なんだかんだで、飽きるほど一緒にいたのは確かだわ」

 恐らく、それだけが二人を表現する言葉だった。

「……惚気じゃない」
「惚気ですね」

 二人の乙女の視線を涼しげに受け流して、カレンは遠い日々を反芻している。確かに少しは、ほんの少しだけは惚気てしまったかもしれない。

745 名前: Double/stay night ◆SCJtHti/Fs 投稿日: 2006/09/17(日) 23:16:12

「お話を聞いてると、アーチャーさんってなんだか先輩みたいですね」
「まあ、馬鹿な辺りが似てなくもないわね。さすがにアーチャーは衛宮くんよりはましっぽいけど」
「む。遠坂先輩、それはどういう事ですか?」

 話題はいつしか士郎へと変わり、今度は桜が話す番だった。桜の目から見る士郎は、本物よりいくぶん美化されている。しかしつんだ善行の話題には事欠かない士郎だ。普段の生活にも問題がなければ、自然と惚気話が積みあがっていく。しかし、人間同士な以上それだけな筈がなく。

「……でも、先輩って酷い人ですよね。わたしに幸せな夢ばかり見せておいて、自分は無責任にも死にかける。いまだって、ルヴィアゼリッタさんに看病してもらっているんですよ? このまま彼女がライバルになるような事になったら、わたし、本気で怒っちゃいますから」

 不満を漏すその様子を見て、凛は密かにほっとした。桜の嫉妬は、上手く明るい方向にごまかせたようである。カレンにも感謝をしてもいいと凛は思った。なぜかやたらと楽しそうなのは、まあ、気のせいとしておいてもいいだろう。

「だから、先輩はわたしが守ってあげないと」
「ええ、その意気よ」

 桜の瞳には力があった。



 ナイフは軽やかに暗闇を滑り、キャスターの胸部に突き刺さった。まるでバターを切るような柔らかい動作。直後、数多の白刃が風に舞う。肉も骨も切らず魂も切らず、瞬きする間もないほどの一瞬で、死神は線だけを正確に切り裂いていた。

 どさり、女の体が倒れ込む。

「———お前は?」
「バーサーカーのサーヴァント、遠野志貴」

 宗一郎に問われ、穏やかな声が名乗りを上げる。それは本当に死神か。炎上し死が充満する地獄の境内の直中で、彼は恐ろしいほど平凡だった。そこにいたのはバーサーカーではなく、誰よりも命の大切さを知る普通の青年である。昼間、キャスターが気まぐれを起こしたおかげだった。

 ———だから。

「……生きてる?」

 直死の魔眼ゆえの奇跡である。志貴はキャスターに傷一つ与えずに、泥とラインだけを尽く切り裂き殺していた。

「バーサーカー、あなた———」
「早く逃げた方がいい。この場所はもうすぐ死に飲み込まれるから」

 空が既に死んでいる、と悲しそうに志貴は告げ、キャスターはその意味を理解し息をのんだ。宗一郎と共に生きるには、今すぐ逃げるしか術がない。だがそれは———。

「ふむ。ならばキャスター、どうする?」
「そ、それは……」

 たとえ体一つであったとしても、二人ならどうにでも暮らせるだろう。しかしそれでは永遠に受肉できない。普通の人間としての生活ができないのだ。メディアはサーヴァントとしてではなく、人間として宗一郎と生きたかった。

 共に呼吸し、共に腹を空かせ、いつか子供だって生んでみたいと夢見てたのだけど———。
壱 冬木を脱出する。
弐 淡い望みに全てをかける。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2006年11月12日 18:08