622 名前: Double/stay night ◆SCJtHti/Fs 投稿日: 2006/10/06(金) 23:58:47
壱 冬木を脱出する。
黒い泥が迫ってくる。サーヴァントの天敵。まともな英霊なら触れるだけで致命的となるその呪を、志貴は手慣れた様子でさばいてく。踊るように、詠うように、恐れもせずに淡々と。そう、彼は間違いなく手慣れていた。
もとよりこんな世界で戦ってきたのだ。生命体として圧倒的に優れた人外達。魔術に長け体術を極めた人間達。襲いかかるモノ達は限り無く強く、志貴は常に最弱だった。それでも、彼は常に勝ち続けてきたのだから。
ナイフを突き刺し、線を切り裂き、漆黒の泥を殺し尽くす。この柳洞寺の境内の中、今まさに人生最大の選択をしている主達の身を守る為に。志貴は彼女に恩があった。それ以上に情が移った。人生の歓びを知らず恋を知らずただ利用されて生きてきた悲しい姫君なんて、まるでどこかで聞いた話ではないか。
「宗一郎様」
そして、長い長い一瞬の後、メディアはついに決意し、顔を上げてマスターへと問いかける。
「私と一緒に———、一緒に生きていただけますか?」
それこそが、彼女が求めた願いなのか。よく考えてみれば、それで十分だったのだろう。女心に疎い志貴でも、さすがにそれはよく分かった。確かに受肉はしたかっただろう。子供だって産みたかったかもしれない。だけど、恐らく彼女が一番求めていたのは、宗一郎とともに生きる事だったのだろうから。
「それが、お前の望みなのか」
「……はい」
それ以上の言葉はいらなかった。宗一郎は頷き、まだ動けないメディアの体を抱き上げる。山門への道は、既に志貴が開けていた。殺されていく泥に見向きもせず、炎上する寺を振り返りもせず、宗一郎は参道へと向かっていく。
その光景が眩しすぎて、志貴は思わず目を細める。かつて、共に生きたいと願った誰かがいた。あの頃はただ普通に、当たり前の人間として、二人で平凡な人生を歩んでいきたいと願ったものだった。それは決して果たせなかった夢だったが、それだけに二人の未来が嬉しかった。かつて神々の思惑に翻弄された生涯を送った一人の少女が、ようやく、女として第一歩を踏み出していく。
こうして、メディアの聖杯戦争は終わりを迎えた。
冬のさなかに、春が芽吹いた。
大地は活力に満ちあふれ、苦しかった昨日は雪解けのせせらぎに洗われた。辛い日々はもう来ない。暗い去年は癒される。人々は餓えに蝕まれる必要はなく、争い傷つけあう心配もない。
約束の日が訪れた。
子らよ、あなた達はもう、二度と悲しむ事はない。
今この時、この夜が明ければ全てが終わる。そして全ては始まるだろう。この街で紡がれた物語は終幕を迎え、新しい舞台が待っている。そこでは誰一人として凍えることはなく、ただの一人も涙を流さない。救いの具現、人々が求めた楽園である。
最高のエンディングの扉が開いた。
子供達よ、共に明日へ歩いていこう。
光臨する神の御名の下に。
歓びに溢れて歩いていこう。
より多く、救いを皆に分け与える為に。
狂ってしまった時の彼方に。
平等な死をふるまって、歩いていこう。
泥は優しく包んでくれる。
神は人の死を渇望している。
それこそが、人々が願った望みだったから。
———どこまでも
———どこまでも
罪を正すための良心を知れ。
罪を正す為の刑罰を知れ。
人の良性は此処にあり、
余りにも多く有り触れるが故にその総量に気付かない。
誰も知らない明日へ歩こう。
真っ暗な深淵の奥深く。美しき人間達の腹の中。
とても綺麗な笑顔なのに、その心はキラキラと腐っている。
ぽっかり空いたどくろの瞳。それはとても澄んでいて。
歩いていこう。踊っていこう。
天空を囲んで輪になろう。
手と手を繋いで楽しく笑って、澄んだ瞳で語り合おう。
君はもう、嘘をつかなくていいのだから。
———救いは此処に。
———今日にしがみつく必要はない。
———生命は既に無価値になって.
———腐ってしまった愛が実る。
無垢な赤子が笑っていた。己が誕生を祝福して。
聖杯から泥が零れ落ちる。
人々の夢が流れていく。
どろり
ゴーゴー
泥濘の底で虚無を楽しむ。
———誓いを此処に。
———彼は常世総ての悪と成る者、
———彼は常世総ての悪を敷く者。
もうなにも殺さなくていい。
どんな犠牲も食べなくていい。
狂ってしまった世界の彼方に。
死の微笑みだけが、暖かい。
冬のさなかに、春が芽吹いた。
———誓いを此処に。
———今宵、清らかなる神が産声を上げた。
623 名前: Double/stay night ◆SCJtHti/Fs 投稿日: 2006/10/07(土) 00:00:29
遠野志貴は絶句した。この山の底はこんな怨念で満たされていたのか。山肌から滲み出る漆黒の泥を殺せど殺せど、尽きる気配さえ感じられない。いや、肝心な事はそれではない。人類の悪意というものがここまで濃厚で醜悪だったなんて、志貴には到底信じられる事ではなかったのだ。
彼は人々に幻想を抱いていたわけではなかった。むしろ誰よりもその醜さを知っていたといえる。闇の世界のさらに闇を生き抜いて、不老不死や強大な力に群がる人間達と対峙してその生涯を送ってきたのだから。しかし———。
誰よりもヒトの美点を知っていた。誰よりも命の大切さを知っていた。誰よりも生きる事の楽しさを知っていた。だからこそ、誰よりも人間を信じていた。信じていた、はずだったのだが。
「は、はは……」
こうも直接形にされて見せつけられようとは思わなかった。浄眼のおかげで怨念が直接脳に響く。知りたくもない情報が氾濫する。夜の街へ消えたあの二人は大丈夫だろうか。取りこぼした泥は住宅街へと獲物を求めて流れ出ている。麓ではどんな悲劇がおこているのか、想像する事さえ苦痛だった。それでも———。
絶望など飽きるほど体験した。
終演など掃いて捨てるほど味わった。
絶対的な脅威など今さらだった。
覚悟などとうの昔に終えていた。
だから、志貴の選択は決まっていた。泥はサーヴァントを取り込もうと近寄ってくる。負ければ志貴とて操り人形へと堕ちるだろう。彼の脳髄と眼球があれば犠牲は容易く激増する。そんな事は許せなかった。
かつて、穏やかな彼を好きだといってくれた人達がいた。愛し続けた大切な女性。ずっと隣にいてくれた不思議な少女。いつも助け続けてくれたお人好しな先輩。離れていても心強かったアトラスの友人。そして、待ち続けてくれた家族たち。
それでも———。
後悔はない。たとえ、その道のはて、どんな結末が待とうとも。志貴にとって、これこそが正しいと思える行為だから。
バーサーカーのサーバント、遠野志貴はナイフを握り直して闇を睨み
壱 ———解放した。
弐 ———自害した。
最終更新:2006年10月22日 10:28