757 名前: Double/stay night ◆SCJtHti/Fs 投稿日: 2006/10/10(火) 02:28:12

壱 ———解放した。

 キャスターにより付与された理性の放棄。
 もとより秘めていた衝動の解放。
 戦闘に特化した人格の浮上。

 ———そして最後に、無機物の死に埋没する。

 スイッチが入る。眼球は性器のように熱かった。脳神経が軋んで捻れていく。言語なんて全て忘れた。常識も定理も既に破棄。脳髄は人外の領域に共感する。体は異星系の法則を体現し、それをもってここに、志貴の存在は死神と化した。

 それでも足りない。死を暴食して灼熱する蒼眼。血管はジェット燃料を暴飲して体内を駆ける。足りない足りない足りやしない。死神は心底渇望した。貪欲に死を欲していた。ナイフを振るえば死が乱舞する。視界はひたすら線と点。風に乗って土を踏み締め死臭を嗅ぎ分け、殺し足りないと疾走する。

 バーサーカーのサーバント。それは例外なく圧倒的な暴力の具現である。悪人も善人も分け隔てなく葬る悪魔の瞳。彼が腕を振るうと大木が死んだ。一睨みしただけで世界が凍った。白む空の下、バーサーカーの周囲だけが闇夜だった。

 辺り一面に迫ってくる泥。空高く持ち上がり地中深く染み込んで、一斉に大量に限り無く襲いかかる不可避の怨念。流体の呪は一部を殺そうとも止まらず止まれない。それが何故、たった一人を飲み込めないのか。宝具も持たぬ無力で脆弱なサーバント。それに何故、一突きされただけで泥が塵と化すのか。

 ———それでも、神の欠片達は止まらない。

 追い詰めているのはどちらなのか。アンリマユの物量は限り無く、その勢いは留まる事を知らず暴れ狂う。加えて、彼等は単なる末端だった。いかにバーサーカーが暴れようとも、アンリマユ本体は痛くもない。赤子がいるのは聖杯の中枢、深い深い地中なのだから。

 お互いがお互いに圧倒する、捻れた宴が続いている。

 死神は興奮に悦んでいた。のどの奥が熱い。充血したカタマリが快楽に跳ねる。一閃、射精をも遥かに超える殺人の快楽。十二分に凝縮された人々の憎しみは、不様に叫び呪いあう漆黒の苦しみは、殺しがいという点で良質な獲物だ。量も十分。邪魔もいない。バーサーカーは狂喜にまみれ、ありえざる動きでダンスを踊る。蕩ける肉壺にも似た点をめがけて、優しくナイフをつき入れていく。激しく黒い処女雪を切り裂いていく。

 夜が明けるまであと少し。この狂った舞踏会は、今少し続く事になりそうだった。



 その家庭に侵入したのは、ほんの数滴の泥だった。戸締まりのされたドアの隙間から入り込み、ベッドで寝ている少年の枕元に辿り着き、耳の穴から頭蓋に忍び込んだ。たったそれだけ。それだけの出来事が全てである。

 明日はどんな生活が待っていたのか。勉強机とランドセル。いつも通りの一日なのか。友達と遊ぶ予定なのか。本棚には教科書と漫画と小説が、クローゼットの中には野球のユニフォームと道具一式がしまってある。

 台所からリズミカルな音がする。みそ汁の匂いとお釜の煙。少し早起きした母親が、朝食の仕度をしているのだった。全くもっていつも通り。何気ない幸福な一日のはじまりである。

 ———その、はずだった。

 少年の未来は確定されてなく、豊かな可能性に満ちあふれている。子供らしい自由な夢と空想に遊び、無邪気に笑う事が当然の時代。それがこの日、関係のない人々の行いにより汚辱された。

 幼く無垢な精神は悪らつな呪に耐えきれず、少年は即死して苗床となった。見る見るうちにどす黒く腐って溶けていく新鮮な肉。それは新たな泥となり、残った骨を食らって誕生を悦ぶ。ベッドを這い出てさらに蠢く。無論、次の獲物は彼の両親である。

 悲しい事実がある。この家族は不幸な例外ではない。このとき、多くの世帯が静かな虐殺の海に溺れていた。彼等は滋養に飛んだ餌となって、更なる犠牲者を増やしていく。密かに、ゆっくりと、しかし確実に、被害は次々と広がっていった。

 それはまさに泥の惨劇。平和に見えた街の裏で人が死に、抵抗もできずに人が死に、人が死にながら死んでいくのである。

758 名前: Double/stay night ◆SCJtHti/Fs 投稿日: 2006/10/10(火) 02:30:04

 目覚めるとルヴィアゼリッタの顔があった。

 覚醒していく意識の中、士郎は彼女の寝顔を眺めていた。恐らくは、看病しているうちに眠ってしまったのだろう。士郎の胸に頭を預け寝息を立てる姿は可愛らしくもあったが、彼は迷惑をかけたすまなさで一杯だった。

 力がないものがあんな行動に出ても、何の意味もありはしないのだ。士郎一人で解決できる問題など何もなく、彼がいてはかどる事も皆無だった。眠っていた客間の天井を眺めながら、士郎は悔しさに視界が曇るのを感じていた。

 力が欲しいと士郎は願った。この戦争に役立つ力が。自分で選択できるだけの能力が。虐げられた誰かを救い、窮地に立つ人を助けるだけの戦力が。誰の涙も見ないですむ力が欲しかった。何を犠牲にしてもかまわないと思えるほど、士郎は力を渇望していたのである。

 しかし、いくら祈っても願っても、士郎に奇跡は訪れない。

 切嗣の言葉を思い出した。そう、あれは確かに真実だった。結局のところ、いつだって自分の力で解決するしかないのである。手のひらをぎゅっと握りしめ、士郎は甘えていた自分に活を入れる。ルヴィアゼリッタを抱き上げベッドに寝かせ、毛布をかけて部屋を出た。

「あ、起きましたかシロウ。丁度良かった。体の具合はどうですか」

 ドアの外にはセイバーがいた。武装し、鋭い雰囲気を纏っている。士郎が問題ないと返答すると、彼女は頷き返して廊下の角を見た。

「あなたに客が。大事な話があるそうです」

 現れたのはライダーと、そして彼女に拘束された謎の人物だった。士郎は自分と瓜二つの容姿に驚き、その眼光にさらに驚き、口の臭さに度肝を抜かした。悪臭が漂うのではない。背筋が心底震えるような、おぞましく寒気がする気配だったのだ。

「いいですか。約束通り、一度だけ機会を与えます。彼を説得できなかったら無駄と心得なさい」

 ライダーの言葉に彼は頷き、士郎に向かっておもむろに口を開いた。それからおよそ数十分、士郎の人生でこれほどの恐怖に苛まれた経験は、後にも先にもこれきりである。



 陽が昇り大地に朝日が射し込んで、悲劇はいっそう上塗りされた。泥は陽の光を嫌い逃げ場を探し、暗く暖かく馴染み深い、人体の中に潜り込んでいったのである。その光景は、さながら餓鬼か亡者の行列か。確固たる人という形を得た怨念達は、次なる骸を求めてさらに犠牲者を増やしていく。

 人々に与えられる恐怖は倍増した。おぞましく生理的嫌悪感を引きずり出すビジュアルを備え、どれほど抵抗しても歩みをやめない不死の軍団。恐怖しないはずがない。亡者達は骨が折れようとも頭が潰れようとも、まるで意に介さず襲いかかってくるのだった。

 パニックの爆発まで後どれだけか。街が眠りから覚め、社会が異変に気付くまで。そうなればさらに混乱し、犠牲者は上限なく増えるだろう。逃げまどう住人も駆け付ける警官も野次馬も、例外なく泥に飲み込まれる。そんな最悪の未来が、容赦なくすぐそこまで迫っていた。

 しかし、それさえも些事となる気配があった。幼子は何かに気付き笑みを浮かべる。キャスターの遺産。その気になれば冬木中を根こそぎ食らえるそのシステムは、幸か不幸か未だ破壊されてなかったのだから。

761 名前: Double/stay night ◆SCJtHti/Fs 投稿日: 2006/10/10(火) 02:31:02

「……そんな。うそ、だろ?」
「絶望しても仕方がない。本当だ。桜は死に、遠坂は壊れ、藤ねえもルヴィアも行方不明。……イリヤなんて、とっくの昔に死んでいた」

 セイバーとライダーに見張られながら、アサシンは残酷に語っていく。未来を。彼にとって経験済みの過ぎ去った過去を。そしてそれが生む全ての悲劇を。士郎が必死にあがいて守ろうとしている、当たり前の幸福が壊される予定調和を。

「だから、その携帯電話のボタンを押せ。たったそれだけで未来は変わる。全て爆破してそれだけで済む」

 しかし、それは、他人の幸福を犠牲にするという事だ。幸福を守るため幸福を踏み潰す。そんな事、よりにもよって士郎にできるはずがない。あの日から今までずっとずっと、正義の味方を目指して一日一日を生きてきた士郎には。

 セイバーもライダーも沈黙している。選択の責任は士郎にあった。この選択は力である。あれほど欲し、願い、得られなかった決定的な力。この聖杯戦争に幕を下ろす、士郎の手にする最初にして最後の機会なのか。

 今から駆け付ければ、特にライダーの力を借りれば、まだまだ多くの人を助ける事ができるだろう。しかしその結果身内が被害を受けるという。ただの可能性だ。必ずしも予言が実現するとは限らない。いや、むしろ知ってしまった以上、頼れるサーヴァント達は是が非でも己が主達を守り通してくれるのではないだろうか。

 ———それなら何故、士郎の胸はこうも締め付けられるのか。

 選択する権利には責任が伴った。力は決して万能ではない。士郎は今、その事を嫌というほど教わっている。恐らく、爆破するチャンスはただ一度。迷っている時間はない。適当に下していい判断でもない。逃げ出す事は論外だ。

 その全てを受け入れ、士郎はどんな決断をするのだろうか。とどめなく溢れる苦しみと歓び。最後、バゼットと名乗った一人の女性を、まだ温もりを覚えているあの手の主を助けられなかった夜から始まったこの戦争を、士郎はもう一度追憶して———。

壱 爆破する
弐 爆破しない

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最終更新:2006年10月22日 10:34