546 名前: Double/stay night ◆SCJtHti/Fs 投稿日: 2006/08/26(土) 17:03:14
弐 バゼット・フラガ・マクレミッツと名乗った。
世の中に魔法なんて都合のいいものは存在せず、だからこそ人々は自分の力で必死に生きていく必要がある。
それを、士郎の父親は存命中、口を酸っぱくして教え込んだ。
それでも、と士郎は考えずにはいられない。
もしもこの世にそんな神秘的な力が実在したとしたら、今夜のような悲劇も少しは減ってくれるのではないか、と。
そう夢想する事自体、自分が弱い存在だと証明するに等しいと分かってはいたのだが。
「坊ちゃん。組長が呼んでいます」
仲間内でタカと呼ばれている男はそういって、いつまでも女性の亡骸の隣に座り込んでいた士郎の肩を叩いた。
士郎の瞳は悔しさに塗れ、助けられなかった誰かの手を、あれからずっと握りしめている。
「しっかりなさい、坊ちゃん。
人間だれしもいつか死にますし、死んだ人間は生き返らないんですから」
タカに教えられるまでもなかった。
士郎はあの大災害を生き延び、養父の死を看取っている。
今までどれほど願っても、死んだ人には会えなかった。
そして、この女性にも、これから先、二度と会う事はできないであろう。
「ええ。分かってます。大丈夫。タカさん、俺は大丈夫だから。
爺さんが呼んでるって? 分かった、顔を洗ってからいくって伝えてください」
タクシーを走らせて藤村邸についたとき、既に女性は生死の境をさまよっていた。
駆け付けた医者が呆気に取られるほどの重傷。
左腕は非道にも切り取られ、胸にも深い刺し傷があった。
奇跡的に心臓と大動脈は無事だったが、絶望的に血が足りなく、肺には穴が開いていては、
いくら藤村組が信頼する外科医であっても、できる事などほとんどなかった。
未だ生きている事自体が常識では信じられない奇跡だったのである。
女性は最後に意識を取り戻し、士郎だけに看取られる事を望んだ。
彼女は自分の手荷物は全て焼き捨ててくれと遺言を残し、夜の街は危ないと警告をした。
何があったのかと士郎は尋ねたが、女性は聞かない方がいいと首を振るばかり。
そして彼女は、残された時間の全てを、穏やかな沈黙で使い切ったのである。
洗面台で顔を洗いながら、士郎は女性の最期を反芻していた。
彼女の死に、どんな意味があったのだろう。
士郎には何もかも分からない事だらけだったが、一つ確かな事があった。
街には今、彼女を殺した何ものかが潜んでいる。
その正体など分からなかったが、非常識なほど残酷で危険な存在だと言う事だけは嫌になるほど実感できた。
明日になれば警察も動き出すだろう。藤村組も黙ってはいない。
士郎の胸の中にも、猛々しい怒りの炎が芽生えていた。
父親の残した正義の味方という淡い理想は、今使われずにいつ使われるのか。
これ以上彼女のような犠牲者を出してはいけない。
その日の夜風は、暗い闇の匂いがした。
「―――先輩が?」
「ああ。だから今日は学校を休んで、爺さんと一緒に事情聴取受けてくる」
「そう……、ですか」
「大丈夫よ、桜ちゃん。お爺さまと一緒なら心配する事なんて何もないから」
大河の言葉にそうですね、と頷いて、間桐桜は箸をおいた。
桜にはすぐに理解できた。女性を襲ったという凶悪な人物。
それは十中八九サーヴァントだろう。その女性は魔術師だったか、あるいは魔術師に関わりある人物だったのか。
聖杯戦争が始まろうとしているこの時期、
不自然なまでの生命力を持った異邦者が被害に遭ったというのなら、それ以外考えられるはずがない。
「……桜? どうした、顔色が悪いぞ」
「いえ、何でもありません。ただ、食事中にするお話じゃないですよ、それ」
「わ、悪い……。ごめん、桜」
「いいえ、もう大丈夫ですから」
桜はそっと決心した。守らなければいけない。この人たちを。
桜を暖かく迎え入れてくれた優しい人たちは、何も知らず、何にも関わらず、日なたの道を歩んでいかなければいけないのだ。
しかし相手がサーヴァントなら、彼女だけの力で対抗できない。
桜には誰かの力が必要だった。信頼でき、力強く、頼りになる大きな力が。
それは―――。
壱 間桐臓硯しかいない。
弐 遠坂凛しかいない。
参 監督者しかいない。
死 ……誰も、いなかった。
最終更新:2006年09月13日 03:23