870 名前: 五年後にて ◆dJsTzPZ4UE [sage] 投稿日: 2007/10/12(金) 20:04:49


 こんな俺が、切嗣に何を言いに行くんだ?

 心からの笑みで、安心したと言ってくれた切嗣の顔は忘れたことがない。

 俺がすべきなのは、あの信頼に恥じないように前を向いていることだろう?
 今の俺のように、踏み出した途端に揺らいだりはせずに――――

「―――」

 そこに至って、ようやくわかった。
 あの不安の正体が。

 俺は、迷っているのだと。
 今さらになって理解した。

 正義の味方になるという、その夢を疑ったことはない。
 一度たりとも、その夢は残毀していない。

 誇りを汚すことなく駆け抜けた彼女のように、俺も理想を追っていくと決めた。

 それなのに、今の俺は―――迷妄の中にある。

 当たり前のことだ。
 だって――俺には夢のカタチがわからないんだから。

 遥かに佇む星を追うように、理想を諦めないと誓った。
 だけど、俺は決めただけだったんだ。

 何も見えていなかった。
 ただ闇雲に飛び込んで、必死になっていれば理想の姿が見えてくると思っていた。

 そうして俺は、霧中を駆け回っていたのだ。

  “―――おまえの理想で救えるものは、おまえの理想だけだ”

 ヤツは正しい。
 俺は理想を追っていくと決めて、そして理想の中で生きてきた。

  “―――おまえが理想を抱き続ける限り、現実との摩擦は増え続ける”

 現実など見えていなかった。
 理想の輝きに目が眩むほど、俺は現実から離れていた。
 目の前で自分の手から零れていった人たちが現実だったからこそ、俺は自分の理想を疑わなかった。
 全てを救うことなんて出来なくても、それでも助けたいと願った。
 やせ我慢をして、歯を食いしばっていれば、少しだけでも理想に近づくと信じていた。

 それでいいと思っていた。
 ―――なんという、欺瞞か。

 本当はずっと悲鳴を上げていた。
 気づかないフリをし続けただけ。

 かつて騎士王とともに駆け抜けた。
 綺麗で、鮮やかなまでなその生き様に、俺は見惚れた。
 憧れて、目指して、脇目も振らずに走り抜けようとした。

 ――そうして、見なければならないものを見なかった。

871 名前: 五年後にて ◆dJsTzPZ4UE [sage] 投稿日: 2007/10/12(金) 20:05:40

   “おまえ――馬鹿だけど、いい仕事するじゃん”


 どうして、慎二の笑顔を忘れなかったのか。
 それがやっと理解できた。

 慎二は許されないことをした。
 無関係な人々の命を踏み躙ろうとした。
 だから、あの結末に到った。
 それは仕方がなかったことかもしれない。
 慎二自身が招いたことかもしれない。

 でも―――その重さを考えたことがあったのか?
 慎二の命を奪うということの重みを、俺は本当に理解していたか?

 慎二の首に手をかけた、そのときのことを覚えている。

 止めなければいけなかった。
 だから、慎二を殺そうとした。
 苦しくなかったわけじゃない。
 殺したかったわけじゃない。

 魔術師同士だったから、迷いがなかった?
 そうじゃない、それだけじゃない。
 でも、あのとき、俺の中には理由があった筈なんだ。

 だからこうして、アイツの死を背負っていられるんだ。

 それとも――そう思っているだけなのか。
 本当は、俺はその重さを理解していない――?

 不意に、眩暈がした。
 自分の醜悪さに吐き気がした。

 目の前の、自分で引き起こした現実を引き受ける。
 そんな当然過ぎることさえ、俺は果たしていなかった。

 その道に生きたことを背負う。
 自分が切り捨てたものを背に負って、なお歩き続ける。
 そうやって生きてゆくのに必要な、けれど俺には決定的に欠落したものがある。

 それが、俺の予感する通りのものだとするのなら―――

「―――行くよ。親父に、会っておかないと」

 淀みなく、言った。
 自分でも不思議なぐらいに穏やかな声が出た。
 その言葉を口にした途端に、波立つ胸の裡が嘘のように落ち着きを取り戻していた。

 靄のかかった不安は少しずつ姿を見せている。
 きっと切嗣に会うことで、ぼやけた輪郭は定まっていくだろう。
 本当はそれが――恐ろしい。
 それでも直視しなければいけない。
 そうしなければ、俺は前に進めない。

「…そう。じゃあ、着替えたらすぐに戻ってくるから」

 藤ねえはそれ以上何も言わなかった。
 静かに立ち上がって、確かな足取りで居間から姿を消した。

 静寂の中で、俺はじっと動かなかった。
 俺の胸の裡は、首を傾げたくなるほどに静かだった。
 波紋すら起らない水面のようだった。

 だが胆の底では、じくりじくりと血が滲み出ている。
 その感覚は、藤ねえが戻ってきても消えなかった。
 むしろ切嗣の眠る場所へと近づけば近づくほど、それは強くなっていった。

 切嗣への哀傷からではない。
 墓参りへ行かなかった背徳からでもない。
 それは―――予感。

 柳洞寺。
 その奥にある死者の寝所を、再び訪れた。
 イリヤの墓も、葛木先生の墓も、通り過ぎる。
 隅の隅。
 隠れるようにして、切嗣の眠る墓標が佇んでいた。

872 名前: 五年後にて ◆dJsTzPZ4UE [sage] 投稿日: 2007/10/12(金) 20:07:50

「こんにちは、切嗣さん。
 今日はね、士郎も来たの。話を聞いてあげて」

 藤ねえはそれから一言二言続け、俺を残して立ち去った。

 俺の立ち位置では、切嗣の墓は陰になって見えない。

 ……動悸が激しい。
 今ならば、まだ逃げられる。
 ここで引き返すべきだ。

 ――予感がある。
 この疑念を確かなものへと変えてしまえば、衛宮士郎の基盤は粉々になるのだと。

 それでも、逃げるわけにはいかない。
 逃げ出しても、いつか必ず恐れが俺を呑み込むだろう。

 十五年前のあの日。
 真っ赤に染め上げられた世界で、俺は逃げた。
 だから、もう逃げることは許されない。

「――よう。久しぶりだな、爺さん」

 唇を噛み締めて、俺は踏み出した。

 正面から見た切嗣の墓は想像していたよりもずっと普通だった。
 特別でないからこそ周囲に溶け込み、ひっそりと佇んでいる。

 風が肌を撫でていった。
 熱を奪われていく。
 体の芯が、凍るように冷たい。

「…何から話したらいいのか」

 違う。
 何も話せることがないだけだ。
 いや、それも違う。
 言うべきことがあったところで話せない。

 栓が抜けていた。
 口を動かす暇などあろう筈もない。

――だらしのない格好で日がな一日転がっていた。

 今まで抑え込んでいたものが、次から次へと流れ出てくる。

―――ふらりと出て行っては、途方もない土産話を自慢げに語る。

 吹っ切った筈のものが、糸繰りのように次々と現れる。

――――どこかの子供が怒っていて、困ったように笑っている男がいる。

 もう、十分すぎる。
 これ以上は見る必要もない。

―――――灰色の空の下で覗き込んでいる笑顔は途方もなく嬉しそう。

 もうわかっている。
 俺がこんなにもおぞましい理由。

――――――縁側で安堵するその顔は心に焼きついた。

 …………ああ、それが、答えだ。

873 名前: 五年後にて ◆dJsTzPZ4UE [sage] 投稿日: 2007/10/12(金) 20:08:45

 本当は、もう判っていた。
 その事実が首をもたげようとする度に、無理やり押さえつけてきたのだ。

 直視してしまえば、いたってシンプルな話。
 衛宮士郎は衛宮切嗣に憧れて、そして衛宮切嗣自身になろうとした。
 ヒーローに憧れて、そうなりたいと思う子供の心と同じように。

 ――贋作、偽物、まがいもの。

 誰かを救うという理想は綺麗だった。
 綺麗だったから憧れた。

 理想を抱き、駆け抜けた騎士の姿は鮮やかだった。
 鮮やかだったから心奪われた。

 憧れて、心奪われて。
 そうなりたくて、俺は走り続けてきた。
 ただ“彼らのようになりたくて”、理想を追い続けてきた。

 誰かを助ける。
 正義の味方になる。
 その美しい理想を追い求めてきた。

 そこに――――自身の裡より零れ落ちた気持ちなど、ありはしない。
 理想のために、自分が理想に近づくために、そうしなければいけなかっただけのこと。
 だから、助けなければいけない。
 だから、より多くを救わなければいけない。

 だから――殺した。
 一人でも多くを救うために、少数を切り捨てた。

 理想のためだけに人を殺した。
 だが、その理想は己が胸に兆したものでなく、ただの借り物に過ぎない。

 自身の満足のために偽善を被り、人の命を奪った。
 そんな男に、奪ったものの重さを理解出来る訳がない。

世界が暗くなった気が、した。

 その後、どうしたのかは覚えていない。
 気づいたときには藤ねえと並んで、坂道を下っていた。

 山間から射し込む黄金の陽。
 その明かりが、恐ろしく強く、瞳を突き刺したことだけが、心に焼き付いていた。

874 名前: 五年後にて ◆dJsTzPZ4UE [sage] 投稿日: 2007/10/12(金) 20:10:12


 :::::夢の先:::::

 夕飯は俺が作ったのだと藤ねえは言っていた。

 だが、俺はまるで覚えていなかった。
 それどころか、どうやって帰ってきたのかも、何を食べたのかも記憶にない。

 記憶が、千々に引き裂かれているようだった。
 そうすることで、どうにか自分を保っていたのだろう。

 藤ねえが居てくれることがありがたかった。
 自分一人だったなら、とうに壊れているに違いない。

 藤ねえが俺を見ているから。
 だから、こんな自分の姿を見せるわけにはいかないと、下らない意地だけでどうにか衛宮士郎の外殻を繕っていられた。

「そういえば、昔の士郎は英語が全然ダメだったわよね。
 向こうで大丈夫だったの?」

 縁側で湯呑みを手に、藤ねえが言った。
 寒いのならコタツに戻ればいいのに、背中を丸めて星のない空を見上げている。

「んー。まあ、おおざっぱな意思疎通ぐらいはな。
 執事をやってる間に定型の挨拶とかも覚えたし」

 俺は立ったままで答えた。
 どうしても動こうとしない藤ねえに付き合って、俺も縁側で茶を啜っている。

 空は暗かった。
 雨こそ降っていないが、雲に覆われて月明かりもない夜は、漆黒に包まれている。
 その中で藤ねえは何を見ているのか、俺にはわからなかった。

「そうなんだ。ちょっと心配してたんだけど、うまくいってるならよし……かな」

 茶に口をつけては、もにょもにょと舌を動かしている。
 その度に冬の寒空に白い雲が浮かび上がった。
 少しばかり熱過ぎたのかもしれない。

「…俺の英語、そんなに心配されるような出来だったか?」

 俺は些かの抗議も込めて、藤ねえに問うた。
 不本意だ。
 一応、平均点ぐらいはとっていたと思うのだが。

「英語の成績がよくなかったのもそうだけど…。
 ほら、士郎ってよくわからない割り切りみたいのがあるじゃない」
「そうか? 俺はどっちかっていうと頑固な方だと思うけどな」

 賛同出来ないものには出来ないし、認められないものは認められない。
 それを変えたことはないと思う。
 そりゃあ、自分の思い違いで間違ってたと気づけば、後で認めることもあるだろうけど。

「頑固よー。
 だけどね、頑固なのとは別にスパっと頷いちゃうところがあるのよ。
 ポンって嫌な答えが出ちゃっても、それで納得しちゃうとこ。
 『ああ、そうなんだろうな』って。
 そのクセ、納得しても譲らないのよね、士郎は」
「……それじゃあ、ただの分からず屋じゃないか。
 俺はそこまで聞き分けがないわけじゃないぞ」
「そうかなー、士郎は十分に分からず屋でしょ?
 苦労するよって言われてても、無理だって言われてても、絶対に聞かないじゃない」

 そりゃあ……そうだ。
 どれだけ大変なことだって、やろうと決めたならやるべきだ。
 無理かどうかなんて、やってみるまでわからないんだし。

「そうやっていつも誰かを助けようとして、貧乏くじ引いて、それでもやめない」

 そこでやめたら、始めた意味がなくなる。
 だから、そんなのは当たり前のことだ。

「それを分からず屋だって言うなら、俺はまあ分からず屋なんだろうけどさ。
 けど、それが英語にどう繋がるんだよ」
「だからぁ、そういうところが心配だったのよ。
 英語って人の話す言葉でしょ?
 結構いい加減なところもあるし、色んな意味も一つの言葉に詰まってる。
 ―――本当のことは一つだけに決められない。
 何か一つが本当でも、それ以外に本当のものが何もないなんて限らない。
 なのに、辞書通りの意味を一つだけ見て、妙に割り切っちゃったりしないかなーって」
「む。俺だって、そこまでバカじゃないぞ。
 それに面と向かって話してれば、そいつの感情だってわかるだろ」
「……そうね。
 面と向かって話せれば、大丈夫なのかも。
 案外、士郎は他人(ひと)のことはわかってるから――」

 そこで言葉を切って、藤ねえは音をたててお茶を啜った。
 嚥下した後に、小さな白い雲が口から生まれては消える。

 前髪が邪魔になって、藤ねえの視線の先はわからなかった。
 相変わらず夜の闇の中には何も見えない。
 家の中から漏れる光が庭をどうにか照らすだけだ。

「お茶も冷えちゃったみたいだし、もう閉めよっか」
「ん、そうだな」

 ぱたん、とガラス戸を引く。
 冬の冷気が薄くなり、部屋の暖かさがよく感じられる。
 俺は随分と冷たくなった茶を、一息に飲み干した。

875 名前: 五年後にて ◆dJsTzPZ4UE [sage] 投稿日: 2007/10/12(金) 20:11:08

 藤ねえは布団に入り、俺も自分の部屋へと戻った。

 一人になると、予想に違わず、奔流のように呵責が襲ってきた。
 いや、迫ってきたのは呵責ではなく、ただの事実だったのかもしれない。

 今まで俺が直視することのなかった現実。
 必死に遠ざけていた真実。

 堰は切れた。
 もはや雪崩を留めるものもない。
 生身の俺に、流れ込んでくる。

 逃げ場はない。
 これは今までのツケだ。
 泥人形が太陽に憧れた罰。
 石ころが風の颯爽と駆ける姿に見惚れて、そんなふうになりたいと願った。
 その身の程を知らぬ願いに返された、当然の報い。
 自身の歪みを知りながら、それでもいいと進み続けた先に待っていた必然の崩壊。

 ――切嗣の嬉しそうな表情(かお)に目を焼かれた。
 切嗣の安堵に口を閉じた。
 騎士王の生き様に心を引かれた。
 そして……俺は、そのまま何も考えずに進んできたのだ。

 誰かを助けることが出来る嬉しさに、憧れた。
 皆を助けられる正義の味方になると、そんな理想に心を固めた。
 理想を追い続けた姿に涙した。

 故に、人を救うはその理想のため。
 そこに自身の裡から溢れた願いはなかった。

 故に、救うために殺したその犠牲を背負うのは自身に非ず。
 俺は……理想のためだと叫ぶ盲目さに、奪ったものの重さを押し付けていた。

 偽善。
 見るも汚らわしい、蔑まれるべき在り方。

 より多くを救うことで、その重さは軽くなると嘯(うそぶ)いた。
 本当はその重さを知りもしないのに。

 ……あの火事の中、幾つもの命を置き去りにした。
 その重さを背負ってきた。
 だから、思い込んだ。
 理想のために切り捨ててきたものの重さを理解しているのだと。

 そしてこのザマだ。
 理想が借り物なのだと思い知り、自身の姿を鏡に映された途端に俺は崩れ去った。

 けれど、心は必死でもがいている。

 ――――それでも。

 俺自身が如何に醜悪であろうとも。

 その理想は綺麗だ。
 俺が目指した理想は、間違ってなんかいない。
 誰もが悲しまずに済みますように、と。
 皆が一度は願っただろう理想の世界。

 それは―――間違いではない。

 俺じゃない誰かが信じたその理想は、間違いなんかじゃない。
 ……その思いだけが、俺のカタチをどうにか保たせている。

            だから、正しいのか?

               それが

            おまえの醜さを隠してくれると?

 重さは消えない。
 今でも俺を押し潰し続けている。

            だから、許されるのか?

        理想の美しさが

            切り捨てることを許してくれると?

 切り捨てたものがある。
 この手で奪ったものがある。
 だからこそ、止まってはいけないのだと言い聞かせる。

            だから――

      その重さを
         受け止めることもできない男が、

          それっぽっちの自我も持たない
                      模造品(つくりもの)が、

       必死で生きる、本物の命を奪い続けていいと思っているのか―――!!

 止まない。
 俺を苛む声は止むことがない。

 俺は―――

 1:偽物の理想でも――俺が偽物だとしても、構わない。
 2:……わからないんだ。

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最終更新:2007年10月22日 20:45