結局言ってしまえば、本とは読むものでしかない。
地球が何度回ろうとも生まれ変わろうとも、技術が栄枯盛衰と一進一退の繰り返しでも、紙媒体から電子書籍に移り行く現在進行形でも変わらない事実、本とは読むものでしかない。どんな形になろうとも、目からでしか文字を感じ取れないものだ。
だからかそれとも職業柄と言うべきか、僕は人が読書している事事態に文句は言えない。それ自体はもうどうする事も出来ないのだ。けど、だからこそ、それ以外の事には割と敏感なのかもしれない。
「あの」
「阿野じゃねえよ」
「あー、いえ。そのだれ」
「園田でもねえ。黙ってろって。客のプライバシーも守れねえんだなこの店」
人工的な甘い香りがする書店内にて、人の唾混じりに見えない言葉が飛ぶ。おかしいな掃除はさっき念入りにやったはず、残り香はそれでもひどい。その圏内で行われたこれはまるで口論だが、そんなものではない。命題すらないのだから。
カウンター越しに相手を見やる。カエル顔の男であった。ともあれ声変わり前の風早君のような、水をぶっかけられてなった姿ではないだろう。時々ぎょろりとこちらを向く視線はなかなかに威圧的で、僕としてはあまり視線を合わせずにいる。おかげで言いたいことも言えない状況、互いに交流していくには網膜から言葉を取り込む事も重要かもしれないな。これが痛い目を見る、か。
覗き続けていると、醸し出している雰囲気にデジャビュを感じた。確か山田悠介の『ライヴ』って作品で出ていたような人物、狂った方で無く金好きの方。そんな人物は今、この店では珍しい店員以外の人間、という事である。
いつものようにバイト中。目の前の男性はお客さんという事になる。犬さん達のような常連さんではなく初見さんだ。
しかしタイミングが悪かった。ちょっと外に出ていた隙にお客さんは来ていたらしく、自動ドアを開けた先に見知らぬ人物がいたことに少なからず驚きながらも「いらっしゃいませ」と発した。そのまま相手の足元に目を向けようとしたけれど、その大きく威圧的な二つの目玉に気をとられてしまった。それに、所有物がまずかった。
戻ってきた僕の右手にははきとちりとり、左手には水瓶座、これでは安西ワールドか、スポーツドリンクのペットボトルが握られていた。捨てに行くついでに補給水分を買っておきたかったのだ。相手は明らかに気に入らない様子だけれど。
けっ、といっそ嫌悪と言葉にするかのように吐き捨てて、すごく腹立たしげに、何か頭に「き」のつく言葉を吐いた。ここはあえてぼかそう。らりん革命やミニト、どけが続くかと期待はしないでほしい。出来るだけ不快感はここまでで留めておきたい。
おかげでついでに捨てておくものも思い出したのに捨てにいけないではないか。もう一本前もって買っておくべきだったかな、今もカウンターの上に置くだけで飲むなんて出来やしない。この手では本も読めないし。
しかし相手はお客さん。詳細は知らないけれど目的があって店に来たんだろう。そのあとのお客さんは、大判サイズのマンガ本を三冊抜き取ると、それらを読み始めた。本の上で。もう一時間は過ぎた。
どこの本屋もそうだが、本棚の下は出っ張りとなっていて平積みコーナーとしている。空き場所の見えないよう整理することは日常だ。
彼はその上にズボンの尻とそこで包まれた部位を乗せた。当然のように。ここが自分の私物であるかのように。
本とは読むものでしかない。だからこそそれ以外の制限は際限なく緩い。人は座りながらでも、寝転びながらでも、あるいは脳への刺激として逆さ読み、後ろ読みなどでも行う。読む場所だって、人前では読めないという人、風呂の中で読むという人、本がもたらした規則ゆえにそれ以外の事は多様なバリュエーションが許されており、自由なのだ。
それでもわざわざ自動ドアに一番近い場所で、本来の紙の形が歪むほど体重をかけるものかと言われれば、もう僕の知る範囲の話でない。
「あの、立ち読みや逆立ち読みはありなんで、座り読みは一応商品なのでやめてもらえませんか」
それでもバイトの立場としては声をかけるべきかと、伝わらない。どうでもいいハイハイ全部きれいごと、とかわされるかと思ったけど、返答を聞く事が出来た。
「デカルト曰く我思う故に我あり、どういう意味か知らねぇだろ」逸らしてきたな。
「いえ。たし」「教えてやるよ、感謝しろよ金持ちの俺にお前が視聴料を払う必要はねえんだからな。つまり俺という存在が存在するためには常に思考が欠かせない。だからこうして他者の多様な思想を何時どんな時にでも取り入れる必要があるんだ、お前だってだから読書をする訳だろう? 俺に文句は無いよな」
彼は両足を宙に上げて馬鹿笑いをする。幾人の、文字に起こした思いが、訳も知れない男の尻に、潰されている。歪められている。
「……」
違うだろ。
奴ならそう言うだろうか。いや奴がそう言っている頃にはもうこの人物は地に伏しているかもしれない。巨人の肘に潰されるカエル、か。慌てる相手とは裏腹に巨体は自分が何をしたかにも気付かないだろうな。
しかし何故だろう。この男は、ただの書店員に対して、どうしてこうまで必死なのだろう。
これではまるで競っているようだ。相手を見下していると同時に、相手へ手を抜こうともしない。見えないところでは何もしようとしないのに、認識した対象を相手にする時は、過剰なまでに自分を誇示してくる。そのように見せつける事で、自分で自分自身が強者という勘違いを本気で信仰している。そうまでして守りたいのだろうか、自分のプライド、とかを。
努力は認める。功績は不可ものだ。
そして彼は、僕がポカンと考え事をしている時の呆け顔に合わせてちょうど顔を上げてきた。そうして彼は幾分鼻の穴を開放し、熱気を放出し、満足げな表情で僕を見た。僕がはっと表情を戻すのと同時に、再びマンガに目を戻す。
あの顔は確か、歯の浮くような歌詞(個人的意見)を作るプロデューサー兼司会者がよく使う表現がぴったり合うはずだ。そうだどや顔だ。
言いたいことを言い切り、相手の好意や苦渋に満ちた顔を眺め、耳には幻聴にも負けない拍手が響いているのだろう、そんな顔。
ある性質を感じる。異常な変態性か脆弱な幼心にしかとらえられない。つまりそれは嗜虐性というのだけれど。
彼は今それに充実している。
そんな顔を浮かべられて、「てめぇ!」と突っかかればいいのだろうか。もしもこれが『押売押花』の話なら。僕には別に苛立ちとかは湧いてこない。
しかしどうだろう、嗜虐性ということに関してなら、今は持っている。イタズラ心だ、くだらない事に。
どうしようかと悩んでやはり「おっとっと」にした。カニ型がおいしい魚鮮スナックを思い浮かべる時間も無かった。
ぴとぺとぽっと。
振るわれたペットボトル。中身のスポドリおよそ千分の三が床に飛び散った。廊下にはカフスボタン位のサイズの水たまりが出来上がる。これにもどうやら気付いたらしい。本の上から尻をどかし足を廊下につけた。まずはよし。
「おおっ、なにしてんだ! どんな店だおめぇ」
「すいません、栄養と睡眠と水分が不足していたもので」
「俺が濡れたらどうしていたんだ、なあ、責任とんだよな、いくらか請求できるよな」
「ということは濡れてはいないんですね。しかしこのままでは滑って転んでしまいますね、ちょっと手伝ってもらえませんか」
「客にやらせるってのか?」
「バイトとしてこの場をもう離れる訳にはいかないですしぃ、それに僕の汚い手でやってしまえばいつまでも綺麗には程遠いのですぅよ」
「俺の手は汚れてもいいってか」
「本当に綺麗な手ならこれぐらいお汚物に汚染なんてありえない、そのはずでしょう?」
「何で挑発してんだよ」
「誘発ですよ。嫌ならいいですよ、それぐらいのこと別に僕がやってのあなたと同じ結果しか導けないでしょうし」
「おい……誰が使えねぇお前と同じだって」
「なら、あげますよ、それ。先程のお詫びも兼ねまして、それでもやってくれないならお金を払ってもらいますが」
やすしくん、とでも呼ばれそうな表情だった。こぼれる程両目を開いていたが、やがて落ち着いた顔つきに戻ると呟いた。
「……そうして俺を追い出す気だろうがそうはいかねぇ」違うよ、自意識過剰だな。ただの嗜虐性だって。
「それではこちら使ってください」
「ん……うおわっ、きったねぇ! 何させる気だ!」
差し出したバケツを指差しながら、地団駄を踏み、僕には唾を飛ばしてくる。直視はどちらも避けたいのだろう。
うっすらと見ると中には、不定形のぬるりとした腐臭や排泄物に似た汚物まみれの雑巾しかなく、正に不衛生とでも呼ぶべき代物だ。バケツの外側にまで点々と深緑が盛り上がりを見せている。
「細菌でも繁殖させてんのかよ」
ちょうどバケツに視線を戻した時、触れてもいないのに中身が動いた。落ち切れない粘着質な汚れが先程の揺れでずれただけだろうが、慣れていないと吐瀉物に生命が宿った、とでも見間違うかもしれない。
「すいません、捨てに行こうと思っていたんですが忘れてしまって」
「まともなのこれだけじゃねぇかよ」
と言いつつ彼は、そんな雑巾の中では比較的綺麗で白い部分も多い物を手に取る。しかし持ち方は明らかにばっちい物を持つように、出来るだけ触らないように指先でつまむように、だ。それはでも、まだ湿っている。
「ちゃんと絞ってくださいよ」
一瞬脳内変換じゃ『搾って』と出てきたけどこっちにはフルーティな雰囲気が伴うはず、そう思ってもうワンクリックして『絞って』の方を検索した。別のバケツも用意しておく。
「うるせえよ。やってもらっている立場で俺になんで命令してんだ」
言いながら雑巾を彼は、絞る。
それは非常に慣れた力の入れように見えた。生まれる螺旋、透けた水流が落ちる、布が擦れる音が固い物質が軋む音に感じた。
雑巾をただ絞るだけ、彼は絞る、絞めるように、殺意を向けた相手の首にとどめを刺すように彼は、雑巾を絞っていた。
まるで無防備だ、力を入れることに集中していて、他の事に何も気付いていない。
「ったくなんでおれがこんなことギャアァああああああああああ!」
両耳をつんざいた低い男声。
悲鳴だった。
悲痛だった。
大袈裟だ。自身が、絞め殺された訳でもないのに。
震える腕からこぼれ落ちるのは彼の絞った、先程僕も使った、一枚の雑巾。
本というのが結局読む物でしかないように、雑巾というものは絞るものではない。拭く物だ。
人工的な甘い香り、褐色の瓶を思い浮かべる栄養ドリンクの匂い。寝不足でうっかり落としてしまった。まだお客が一人もいなかった時でよかった。すぐに掃いて大きな欠片はちりとりに入れた、しかし経験あるだろう、はきとちりとりでは細かな埃まで入れることが出来ない、そして液体もこのままでは動きがない、ならどうする、拭い去ろう、そのための雑巾だ。
それでも絡みつく、小さいゆえに多い、刺のように、針のように、隠し刀のように、それでも、刃物だ。
彼の両手に、食い込む瓶の破片と湿疹のようにしかし小さなドームを作る赤い液体が見える、七割位その率を占めている。
傷つけたことになるか、しかしまあ彼でないのだから、充足感でどや顔にはなっていないだろう。
その後の彼は慌てていた。予想だにしない激痛に理解が追いつかないのか、血液に対する耐性がないのか、こぼれんばかりの目玉に血管を浮かび上がらせていた。悲鳴が終わると急いで彼は『それ』を掴む。自分の両手に向けて使う。不必要に思えるほど、これでもかと。
その動きも止まる。僕が指差した先を見て、彼は絶句する。
彼の手元には、先程彼が汚らわしいと吐き捨てた、雑巾ならぬ雑菌しか存在しないのだから。
地球が何度回ろうとも生まれ変わろうとも、技術が栄枯盛衰と一進一退の繰り返しでも、紙媒体から電子書籍に移り行く現在進行形でも変わらない事実、本とは読むものでしかない。どんな形になろうとも、目からでしか文字を感じ取れないものだ。
だからかそれとも職業柄と言うべきか、僕は人が読書している事事態に文句は言えない。それ自体はもうどうする事も出来ないのだ。けど、だからこそ、それ以外の事には割と敏感なのかもしれない。
「あの」
「阿野じゃねえよ」
「あー、いえ。そのだれ」
「園田でもねえ。黙ってろって。客のプライバシーも守れねえんだなこの店」
人工的な甘い香りがする書店内にて、人の唾混じりに見えない言葉が飛ぶ。おかしいな掃除はさっき念入りにやったはず、残り香はそれでもひどい。その圏内で行われたこれはまるで口論だが、そんなものではない。命題すらないのだから。
カウンター越しに相手を見やる。カエル顔の男であった。ともあれ声変わり前の風早君のような、水をぶっかけられてなった姿ではないだろう。時々ぎょろりとこちらを向く視線はなかなかに威圧的で、僕としてはあまり視線を合わせずにいる。おかげで言いたいことも言えない状況、互いに交流していくには網膜から言葉を取り込む事も重要かもしれないな。これが痛い目を見る、か。
覗き続けていると、醸し出している雰囲気にデジャビュを感じた。確か山田悠介の『ライヴ』って作品で出ていたような人物、狂った方で無く金好きの方。そんな人物は今、この店では珍しい店員以外の人間、という事である。
いつものようにバイト中。目の前の男性はお客さんという事になる。犬さん達のような常連さんではなく初見さんだ。
しかしタイミングが悪かった。ちょっと外に出ていた隙にお客さんは来ていたらしく、自動ドアを開けた先に見知らぬ人物がいたことに少なからず驚きながらも「いらっしゃいませ」と発した。そのまま相手の足元に目を向けようとしたけれど、その大きく威圧的な二つの目玉に気をとられてしまった。それに、所有物がまずかった。
戻ってきた僕の右手にははきとちりとり、左手には水瓶座、これでは安西ワールドか、スポーツドリンクのペットボトルが握られていた。捨てに行くついでに補給水分を買っておきたかったのだ。相手は明らかに気に入らない様子だけれど。
けっ、といっそ嫌悪と言葉にするかのように吐き捨てて、すごく腹立たしげに、何か頭に「き」のつく言葉を吐いた。ここはあえてぼかそう。らりん革命やミニト、どけが続くかと期待はしないでほしい。出来るだけ不快感はここまでで留めておきたい。
おかげでついでに捨てておくものも思い出したのに捨てにいけないではないか。もう一本前もって買っておくべきだったかな、今もカウンターの上に置くだけで飲むなんて出来やしない。この手では本も読めないし。
しかし相手はお客さん。詳細は知らないけれど目的があって店に来たんだろう。そのあとのお客さんは、大判サイズのマンガ本を三冊抜き取ると、それらを読み始めた。本の上で。もう一時間は過ぎた。
どこの本屋もそうだが、本棚の下は出っ張りとなっていて平積みコーナーとしている。空き場所の見えないよう整理することは日常だ。
彼はその上にズボンの尻とそこで包まれた部位を乗せた。当然のように。ここが自分の私物であるかのように。
本とは読むものでしかない。だからこそそれ以外の制限は際限なく緩い。人は座りながらでも、寝転びながらでも、あるいは脳への刺激として逆さ読み、後ろ読みなどでも行う。読む場所だって、人前では読めないという人、風呂の中で読むという人、本がもたらした規則ゆえにそれ以外の事は多様なバリュエーションが許されており、自由なのだ。
それでもわざわざ自動ドアに一番近い場所で、本来の紙の形が歪むほど体重をかけるものかと言われれば、もう僕の知る範囲の話でない。
「あの、立ち読みや逆立ち読みはありなんで、座り読みは一応商品なのでやめてもらえませんか」
それでもバイトの立場としては声をかけるべきかと、伝わらない。どうでもいいハイハイ全部きれいごと、とかわされるかと思ったけど、返答を聞く事が出来た。
「デカルト曰く我思う故に我あり、どういう意味か知らねぇだろ」逸らしてきたな。
「いえ。たし」「教えてやるよ、感謝しろよ金持ちの俺にお前が視聴料を払う必要はねえんだからな。つまり俺という存在が存在するためには常に思考が欠かせない。だからこうして他者の多様な思想を何時どんな時にでも取り入れる必要があるんだ、お前だってだから読書をする訳だろう? 俺に文句は無いよな」
彼は両足を宙に上げて馬鹿笑いをする。幾人の、文字に起こした思いが、訳も知れない男の尻に、潰されている。歪められている。
「……」
違うだろ。
奴ならそう言うだろうか。いや奴がそう言っている頃にはもうこの人物は地に伏しているかもしれない。巨人の肘に潰されるカエル、か。慌てる相手とは裏腹に巨体は自分が何をしたかにも気付かないだろうな。
しかし何故だろう。この男は、ただの書店員に対して、どうしてこうまで必死なのだろう。
これではまるで競っているようだ。相手を見下していると同時に、相手へ手を抜こうともしない。見えないところでは何もしようとしないのに、認識した対象を相手にする時は、過剰なまでに自分を誇示してくる。そのように見せつける事で、自分で自分自身が強者という勘違いを本気で信仰している。そうまでして守りたいのだろうか、自分のプライド、とかを。
努力は認める。功績は不可ものだ。
そして彼は、僕がポカンと考え事をしている時の呆け顔に合わせてちょうど顔を上げてきた。そうして彼は幾分鼻の穴を開放し、熱気を放出し、満足げな表情で僕を見た。僕がはっと表情を戻すのと同時に、再びマンガに目を戻す。
あの顔は確か、歯の浮くような歌詞(個人的意見)を作るプロデューサー兼司会者がよく使う表現がぴったり合うはずだ。そうだどや顔だ。
言いたいことを言い切り、相手の好意や苦渋に満ちた顔を眺め、耳には幻聴にも負けない拍手が響いているのだろう、そんな顔。
ある性質を感じる。異常な変態性か脆弱な幼心にしかとらえられない。つまりそれは嗜虐性というのだけれど。
彼は今それに充実している。
そんな顔を浮かべられて、「てめぇ!」と突っかかればいいのだろうか。もしもこれが『押売押花』の話なら。僕には別に苛立ちとかは湧いてこない。
しかしどうだろう、嗜虐性ということに関してなら、今は持っている。イタズラ心だ、くだらない事に。
どうしようかと悩んでやはり「おっとっと」にした。カニ型がおいしい魚鮮スナックを思い浮かべる時間も無かった。
ぴとぺとぽっと。
振るわれたペットボトル。中身のスポドリおよそ千分の三が床に飛び散った。廊下にはカフスボタン位のサイズの水たまりが出来上がる。これにもどうやら気付いたらしい。本の上から尻をどかし足を廊下につけた。まずはよし。
「おおっ、なにしてんだ! どんな店だおめぇ」
「すいません、栄養と睡眠と水分が不足していたもので」
「俺が濡れたらどうしていたんだ、なあ、責任とんだよな、いくらか請求できるよな」
「ということは濡れてはいないんですね。しかしこのままでは滑って転んでしまいますね、ちょっと手伝ってもらえませんか」
「客にやらせるってのか?」
「バイトとしてこの場をもう離れる訳にはいかないですしぃ、それに僕の汚い手でやってしまえばいつまでも綺麗には程遠いのですぅよ」
「俺の手は汚れてもいいってか」
「本当に綺麗な手ならこれぐらいお汚物に汚染なんてありえない、そのはずでしょう?」
「何で挑発してんだよ」
「誘発ですよ。嫌ならいいですよ、それぐらいのこと別に僕がやってのあなたと同じ結果しか導けないでしょうし」
「おい……誰が使えねぇお前と同じだって」
「なら、あげますよ、それ。先程のお詫びも兼ねまして、それでもやってくれないならお金を払ってもらいますが」
やすしくん、とでも呼ばれそうな表情だった。こぼれる程両目を開いていたが、やがて落ち着いた顔つきに戻ると呟いた。
「……そうして俺を追い出す気だろうがそうはいかねぇ」違うよ、自意識過剰だな。ただの嗜虐性だって。
「それではこちら使ってください」
「ん……うおわっ、きったねぇ! 何させる気だ!」
差し出したバケツを指差しながら、地団駄を踏み、僕には唾を飛ばしてくる。直視はどちらも避けたいのだろう。
うっすらと見ると中には、不定形のぬるりとした腐臭や排泄物に似た汚物まみれの雑巾しかなく、正に不衛生とでも呼ぶべき代物だ。バケツの外側にまで点々と深緑が盛り上がりを見せている。
「細菌でも繁殖させてんのかよ」
ちょうどバケツに視線を戻した時、触れてもいないのに中身が動いた。落ち切れない粘着質な汚れが先程の揺れでずれただけだろうが、慣れていないと吐瀉物に生命が宿った、とでも見間違うかもしれない。
「すいません、捨てに行こうと思っていたんですが忘れてしまって」
「まともなのこれだけじゃねぇかよ」
と言いつつ彼は、そんな雑巾の中では比較的綺麗で白い部分も多い物を手に取る。しかし持ち方は明らかにばっちい物を持つように、出来るだけ触らないように指先でつまむように、だ。それはでも、まだ湿っている。
「ちゃんと絞ってくださいよ」
一瞬脳内変換じゃ『搾って』と出てきたけどこっちにはフルーティな雰囲気が伴うはず、そう思ってもうワンクリックして『絞って』の方を検索した。別のバケツも用意しておく。
「うるせえよ。やってもらっている立場で俺になんで命令してんだ」
言いながら雑巾を彼は、絞る。
それは非常に慣れた力の入れように見えた。生まれる螺旋、透けた水流が落ちる、布が擦れる音が固い物質が軋む音に感じた。
雑巾をただ絞るだけ、彼は絞る、絞めるように、殺意を向けた相手の首にとどめを刺すように彼は、雑巾を絞っていた。
まるで無防備だ、力を入れることに集中していて、他の事に何も気付いていない。
「ったくなんでおれがこんなことギャアァああああああああああ!」
両耳をつんざいた低い男声。
悲鳴だった。
悲痛だった。
大袈裟だ。自身が、絞め殺された訳でもないのに。
震える腕からこぼれ落ちるのは彼の絞った、先程僕も使った、一枚の雑巾。
本というのが結局読む物でしかないように、雑巾というものは絞るものではない。拭く物だ。
人工的な甘い香り、褐色の瓶を思い浮かべる栄養ドリンクの匂い。寝不足でうっかり落としてしまった。まだお客が一人もいなかった時でよかった。すぐに掃いて大きな欠片はちりとりに入れた、しかし経験あるだろう、はきとちりとりでは細かな埃まで入れることが出来ない、そして液体もこのままでは動きがない、ならどうする、拭い去ろう、そのための雑巾だ。
それでも絡みつく、小さいゆえに多い、刺のように、針のように、隠し刀のように、それでも、刃物だ。
彼の両手に、食い込む瓶の破片と湿疹のようにしかし小さなドームを作る赤い液体が見える、七割位その率を占めている。
傷つけたことになるか、しかしまあ彼でないのだから、充足感でどや顔にはなっていないだろう。
その後の彼は慌てていた。予想だにしない激痛に理解が追いつかないのか、血液に対する耐性がないのか、こぼれんばかりの目玉に血管を浮かび上がらせていた。悲鳴が終わると急いで彼は『それ』を掴む。自分の両手に向けて使う。不必要に思えるほど、これでもかと。
その動きも止まる。僕が指差した先を見て、彼は絶句する。
彼の手元には、先程彼が汚らわしいと吐き捨てた、雑巾ならぬ雑菌しか存在しないのだから。
あとがき
その後の彼らがどうなったかはご想像にお任せします。にしても悪巧みって難しいですね。しっぺ返しがあるやもしれないと脅えながらこれから過ごしていきます。
その後の彼らがどうなったかはご想像にお任せします。にしても悪巧みって難しいですね。しっぺ返しがあるやもしれないと脅えながらこれから過ごしていきます。