――いきなりの事だが、俺、遠藤 直輝(えんどう なおき)は追われていた。
何でこうなったのか、俺自身にも良く分からない。
しかし、例えそれを理解出来ていたとして、今の状況が好転するとは思えない。
「……ああもう、しつこいなこいつら!」
状況は最悪だった。ちらりと後ろへ目をやれば、大挙してこちらを追う『奴ら』の姿。
――っておいおい、さっき見た時より数が増しているんですけど!?
さっきまではちらほら程度だったのに、今じゃわんさかかよ、ふざけんな
……しかし、なんだってこう言う事になってしまったのか? と俺は何度も考えて仕方がない。
――何で、如何して、俺は街中で野犬の群れに追い掛けられる事になるんだ!?
言っておくが、俺は何処ぞの悪ガキの様に犬に石ころ投げたりして喧嘩を売るような真似をした覚えはない。
俺はただ、毎週見ているジャ○プを買いに、何時も雑誌の早売りをしている書店まで出掛けてただけである。
それなのに奴らは、俺に出くわすやいきなり襲い掛かってきたのだ。猛犬注意以前の話だろ?
俺を追う犬達の様子から見て、追い付かれた後の事は容易に想像が付く。
何せ犬達はみんな、何れも逝っちゃった目で涎垂らして牙剥き出しのどう考えても狂犬病です状態である。
これでうっかり転ぶなりして足を止めよう物なら、俺は即座にわんわんパラダイスならぬわんわんバイオレンスである。
まだろくに青春を謳歌してすらいないというのに、ここで犬に食われて死すって言うのは流石に洒落にならない。
「くっ…はっ! …クソッ! 食われてたまるかっ!」
無論、俺はそんなのはゴメンとばかりに必死に走る速度を上げる。
……ああクソ、こうなる事だったら体育の授業くらい真面目に受けとくべきだった。
まだ10分も走ってないというのに、息苦しいくらいに呼吸は乱れているし、足の節々には嫌な感覚が広がり始めている。
はっきり言ってもうダメポに近い状態だ。こう言う時自分の体力の無さに悲しい物を感じる!
このままでは、何れ俺の体力も尽きてTH・ENDとなるのは間違いないだろう。
……しかし何でだろうか?
こう言う時に限って、何時もならば開いている筈の店やスーパーが軒並みシャッターを下ろしてるなんて。
まるで俺の逃げ場を塞いでいるとしか思えないじゃないか!
おまけに交番に逃げ込もうにも、こう言う時に限って交番が中々見つからず、
更には交番がある場所へ向おうとすれば、その方向から追加の犬の群れが現れて結局行けずじまい。
しかも、もう何十分も逃げ続けて居ると言うのに、如何言う訳か通行人の姿すら見えないのは如何言う事だ?
こんなあまりの理不尽かつ不可解な状況に、俺は何かの悪意を感じて仕方が無い。
「ゲッ、前からもかっ!? ちくしょう!」
考えている間に前方の曲がり角から更なる追加の犬が参上!
これで俺を追いかける犬の総数は十数頭に増えた。つか、この状況でのんきに犬の数を数えている俺って……。
「って、そんな事を考えてるより今は逃げなくちゃな!」
前と後ろから迫ってくる犬達から逃れるべく、俺は即座に横手のビルとビルの間の裏路地へと入る。
放置されてる自転車を道を塞ぐ様に薙ぎ倒し、更には置かれているゴミバケツを犬達の方へ蹴りつけて、
何とか犬達から逃れようと必死の逃亡を続ける。
しかし、そんな俺の努力を嘲笑うかの様に、
犬達は追跡の手を全く緩めず、徐々にでは在るが逃亡する俺との距離を詰めてきている。
拙い(まずい)、これは本当に拙い! いよいよ本気でわんわんバイオレンスの可能性が出て……。
「――いや、もうわんわんバイオレンス確定か……」
力無く呟きを漏らす俺の前方、
高さ5メートルの鉄条網付きのフェンスが、俺の逃げ道を完全に阻む様に立ち塞がっていた。
普通のフェンスなら登って乗り越える事が出来るけど、何でこう言う時に限ってクソ高い上に鉄条網付きなんだよ……。
程無くして、アスファルトを蹴る爪音と共に俺へ追いつく犬達。
ここでようやく俺は犬達の姿をはっきりと見る事が出来たが、この犬達は見れば見るほど野良犬にしては妙だった。
先ずその種類、ジャーマン・シェパードにドーベルマン・ピンシャー、そしてマスティフ。
それらは何れも、野良犬として街中をうろついているような犬種ではない。
無論、何処かの心無い飼い主が捨てた犬にしても、特定の種類だけが十数頭も群れを成して居るというのは何かおかしい。
次に犬達の様子、牙を剥き出し涎だらだらと垂らして如何にも飢えてますといった感じで、
実は人懐っこい犬でわんわんパラダイスというほのぼのとしたオチはあり得ないといえる。……じゃなくて。
こんな見るからに『私は狂犬病です^^』といった風貌の犬が、徒党を組んで街中をうろついていれば間違い無く騒ぎになる。
にも関わらず、こいつらと街角で出くわす今まで、それといった騒ぎや事件の話を聞いた事は全くと言って良い位に無かった。
そして俺が一番妙に思ったのは、今、目の前に居る犬達は何れも額に宝石みたいなのを付けてる事である。
これは一体如何言う事だろうか? 最近の野良犬の流行りか? クソ、野良犬風情が変なオシャレに目覚めやがって。
「いや、野良犬風情だとか変なオシャレだとか考えてゴメンナサイ、カッコイイですよ額の宝石」
俺の考えを見透かした様に、唸り声を強めてこちらへじりじり迫る犬達。ちょっ、マジ怖いっての!
そう言えば、さっきから犬達から唸り声に混じってカチリカチリと小さな機械音が聞こえるが、これは一体……?
とか考えている間に、犬達の中で一番先頭の一頭が唸り声を強めると同時に、身を低くして戦闘態勢を取る。
――いよいよ来るか! 俺は無駄だと分かりつつも身構える。
そしてそれに合わせる様に、犬が俺の喉笛を食い破らんと大きく顎を開き跳躍した!
「――!」
――が、その顎が俺の喉を食い破る事無く、犬は俺の直ぐ横を通りすぎ、後ろのフェンスにぶち当たって大きな音を立てた。
俺が自分の肩越しに犬の方へ目をやると、犬はどう言う訳かぐったりとしたまま、ピクリとも動かなくなっている。
良く見れば、動かなくなった犬の延髄の辺りに突き立っているのは一本の細身のナイフ。
「え……?」
突然の事が理解できず、思わず戸惑いの声を漏らす俺。
それは犬達も同じらしく、仲間に起きた災難の原因が掴めないのか戸惑った様に動きを止めていた。
「ようやく発見したと思ったら、早速か」
「……っ!?」
掛かった声に目を向ければ、何時の間にか犬達の群れの向こうに立つ一つの人影があった。
薄暗い裏路地の上に遠目なので顔などは良く分からないが、それはコートのような物を身に纏う長い髪の女(声から判断)。
そのだらりと下げた左手に、細身のナイフと思しき物を持っている辺りから見て、多分さっきのは彼女の仕業なのだろう。
当然、犬達は仲間を屠った彼女を敵と判断したらしく、威嚇の唸り声を上げながら彼女の周囲を包囲し始める。
……おいおい、助けのヒーローのつもりかもしれないけど、これは流石に数が多すぎるぞ!?
悪い事は言わないから早く逃げた方が……って、それで本当に逃げられても困るけど。
「……キメラか、相変わらずつまらない物を使う」
周囲を囲む犬達の唸り声の中にも関わらず、彼女は全く動じる事無く、むしろ落ち付いた様子で呟きを漏らす。
……キメラ? RPGに出てくる怪物の事か? いや、あの犬達の事を言ってるのか? 俺の頭の中に浮かぶ様々な疑問符。
そんな俺を余所に、彼女の周囲を囲む犬達は彼女の態度が余程気に食わなかったのだろうか、
一斉に四肢に力をこめる様に身を屈め、戦闘態勢に入る!
――そして、犬達が跳躍するのと彼女が動くのは、ほぼ同時だった。
ほぼ全方向からの犬達による一斉攻撃、回避は不可能に近い。一瞬、最悪の結末が俺の脳裏に過ぎる(よぎる)!
だがしかし、次の瞬間には彼女が目にも止まらぬ早さで螺旋を描く様に回転、同時に忽然とその場から姿を消す。
「――!?」
当然、目前で獲物が消えた事でお互いに激しく空中衝突し、悲鳴を上げる事無く無様に地面に転がる犬達。
そしてその直後、さっき立っていた場所から数メートル前方に着地する彼女。
ここでようやく俺は、彼女が姿を消したのではなく、高く跳躍する事で犬達の攻撃を回避していた事に気付いた。
「終わった」
彼女のその一言に俺が思わず犬達の方へ目をやると、犬達は何れも喉を切り裂かれて絶命していた。
その彼女の両手に何時の間にか握られているのは、さっきの細身のナイフとは違う、大振りな片刃のナイフ。
薄暗い中でもぎらつく刃先が血に塗れている所から見て、犬達の命を奪ったのはこのナイフと見て間違い無いだろう。
……と言う事は、あの一瞬、彼女が跳躍したその時には、既に犬達は全員喉を切り裂かれていた……?
……いや、めちゃくちゃ強いんですね、この人。
「……大丈夫か? エンドウナオキ。奴らに何かされなかったか?」
声を掛けられ、俺は彼女の方へ目を向ける。
彼女がこっちに歩み寄ってきた事で、さっきは遠目で良く分からなかった彼女の風貌がようやく確認できた。
見た感じの年の頃は俺と同じ位。欧米系の外国人なのか長い銀髪に端正に整った顔立ち、そして透き通るような白い肌。
何処か南極の氷を思わせるアイスブルーの双眸の、何処かクールな感じを抱かせるやや細身の美少女である。
その身に纏っているあちこちに妙な金具のついた黒のロングコートが、その風貌と妙にマッチしており、
人通りの多い道を行けば、ナンパな男の一人か二人かは声を掛けてきそうな魅力がある。
……ただ、その顔の双眸の間を中心に、
額から頬へ掛けて大きくバッテンを描く様に刻まれた古い傷痕さえなければ、の話だが。
と言うか、なんでこの人、初対面なのに俺の名前を知ってるんだ?
「怪我は無いようだな」
「――え、あ…ああ、大丈夫です、はい」
顔の傷痕に思わず目を奪われた所で彼女に声を掛けられ、慌てた俺はやや上擦った声で返答を返してしまった。
しかし幸い、彼女は俺が顔の傷痕に見入っていた事に気付いていなかったらしく、「そうか」と小さく返すだけだった。
……この人は何だか色々と知ってそうだし、あの犬の事とか少し事情を聞いてみるか……?
いや、その前に先ずは礼を言っておくべきか。助けてもらっておいてハイさよならは少し気が悪い。
「あ、あの……危ない所助けて頂いて有難うございます」
「当然の事をしたまでだ。気にするな」
少し無理のある丁寧口調で例を述べる俺に対し、
彼女は安全でも確認しているのだろうか、周囲を見やりながらつっけんどんに返す。
どうやら彼女は見た目にそぐわぬクールさがあるようだ。心の中で妙に納得する俺。
っと、納得してるより先ずは聞くべき事を聞かないと。
「所であの、一つ聞きたいんですけど……俺を襲ってきたあの犬は一体……」
「あれか? あれはコード212キメラ。大型犬種をベースに遠隔操作用のチップを脳へ埋めこむ事によって製造される、
主に諜報活動や内部かく乱、または爆弾を搭載しての潜入破壊工作などに用いられる生体改造兵器だ。
クローン犬を使用する事で汎用性の割に製造コストが比較的安く、組織の使用する兵器の中ではポピュラーな部類に入る」
「……え?」
いや……あの、なんかマンガやアニメの中でしか聞いた事の無いような単語がいくつか出てきたんだが……?
思わず困惑する俺を余所に、彼女は先ほど自分が屠った犬、もといキメラを見やりつつ話を続ける。
「しかし、比較的安いとは言っても、
一般サラリーマンの平均年収分はある物を一気に十五機も投入するとはな……奴らは余程金に有り余ってると見える。
まあ、それを一瞬で全機撃破した私が言えたことじゃないか」
「え、ええっと、あの、その……」
「ん? なんだ? エンドウナオキ。まだ説明が足りないのか?」
ある程度言った所で何か聞きたげな俺の様子に気付き、彼女は乏しい表情ながらも不思議そうな顔で問う。
俺は目いっぱい深呼吸した後、貯め込んだ息を吐き出す様に彼女へ言った。
「あんたは一体何なんだ? つか、なんで俺の名前を知ってるんだ?」
「…………」
彼女にとって想定外の質問だったのか、きょとんとした表情でこちらを見る彼女。こっちみんな。
それから数秒ほどの間を置いて、何か考え込む様に腕組をしつつあらぬ方を向いた彼女は「ふむ」と小さく呟いた後、
ようやく質問の意を察したのか、改めて俺へ向き直って言う。
「どうやらいきなりの事で自己紹介をするのを忘れていた様だな。済まない。
私の名はコードネーム『
クロス』、ある『機関』に所属するエージェントだ」
またまたマンガやアニメでしか聞いた事の無い単語が出てきた……まあ、それは良いとして。
「それで、その…クロスさん?」
「私の事は呼び捨てで構わない。またはクーちゃんと呼んでも良し。…それで質問はなんだ?」
「話を聞く限りじゃ、あんたは俺に何か用がある様だけど――」
「急に犬どもの反応が消えたから様子を見に来てみてりゃ、やっぱりテメェが邪魔していたか、スカーフェイス!」
「――っ!?」
俺の質問を遮って後ろから割って入った声に振り向けば、十メートルほど先、薄暗い裏通りを背に佇む一つの人影!
草臥れた皮のジャケットに所々破けたジーパン、短い黒髪の何処か表情に粗暴さを感じさせる20代くらいの若い男である。
男はこちらへ向って歩み寄りながら、何処か忌々しさと歓喜を入り混じらせた声で
「ガキ一人捕まえてくる程度の事の癖に他の奴が中々動こうとしねぇから、わざわざ俺様が出張ってやったが、
まさかガキ一人にテメェら『機関』がしゃしゃり出てきてるとはな! お前の顔を見て納得行ったぜ、スカーフェイス!」
「……その名で呼ぶな」
男の言うスカーフェイス、と言う名が気に入らないらしく、何処か憮然とした感じに返すクロス。
見た感じ、この男とクロスは以前からの知り合いらしい。無論、悪い意味でだが。
「……知り合い?」
「奴の名は『
ファング』、私の所属する『機関』と敵対関係にある組織に所属している男だ。
奴と私の関係は、まあ見ての通り腐れ縁と言う奴だ」
声を潜めての俺の質問に対して、冷静淡々と答えるクロス。ああ、やっぱりそう言う関係か。
その間に俺達まで約5mほどの所で足を止めた男、もといファングはへっへっへと粗暴さ丸だしな笑い声を漏らしつつ。
「しかしまあ、そのお陰でテメェをここでぶっ殺す事が出来るからな、動かなかった他の連中に感謝しねえとな!」
「……やはり、そう言う事か」
「――あん? 何が『そう言う事か』だ?」
クロスがぽつりと漏らした言葉を聞き咎めたファングに、
彼女は事切れたキメラ達を指差しながら、口の端を笑みの形に小さく吊り上げて嘲笑う様に言う。
「やたらと躾のなってないケダモノのような飼い犬だったのでな、飼い主は誰かと思っていたのだが。
成る程、飼い主もケダモノでは飼い犬がそうなってしまうのも無理もないか、と思ってな」
「……っ!! て、テメェ……!」
図星でも突かれたのか、ファングの表情と声が一気に怒りの色を帯びる!
を、をいをい、幾ら挑発されたからって相手を挑発し返して如何するつもりなんだよ!?
「ガキ攫うついでにテメェをたっぷりと嬲って嬲りまくってからぶっ殺してやろうかと思ったが、気が変わった!
テメェは今ここで八つ裂きにしてy――がっ!?」
しかし怒りのセリフを言いきる間も無く、ファングはクロスが無造作に投げたナイフを胸に受け、そのまま倒れ伏した。
……って、ちょwwwwwいきなり殺しやがったwwww
「無駄にベラベラと喋るからこうなる」
「いや、ちょっ、いきなり殺すなんてあんたは一体何考えてんだ!?」
「殺す?……あの男があの程度で死ぬと思ってるのか?」
「……え?」
クロスの冷徹な一言に我に返った俺がファングの方へ目をやれば、
其処には急所へ投げナイフを受けたにも関わらず、刺さったナイフを引き抜きながらゆっくりと立ち上がるファングの姿。
……う、うそだろ? どう見ても心臓へモロにナイフが刺さってるってのに、なんで生きてるんだ?
「クソが……いきなりご挨拶じゃねぇか! スカーフェイス!
この俺様じゃなきゃ、今頃は三途の川の渡し守に挨拶してる所だったじゃねえか!!」
「やはり、この程度じゃ死なないか……流石はケダモノだな」
「…っ! テメェ、ケダモノって二度も言いやがったな!」
「いや、私がケダモノと言ったのは今回入れて今日で四度目だ。相変わらず記憶力無いな、お前は」
「ぅるせぇ! 甘い顔してりゃつけ上がりやがって! テメェは今度こそ俺様の『能力』でミンチにしてやるっ!」
ファングが叫ぶと同時、その身体がブルリと震え、目に見える形で変化が起きる。
身体の体積が増し、露出している肌が黒味がかった獣毛に覆われ、骨格と筋組織がめきめきと音を立てて変形し
指先の爪は大きく湾曲しながら形を変え、鋭いナイフを思わせる形へと変貌を遂げる。
更にはその腰のジーパンの破れた隙間からふさふさの尻尾が飛び出し、ブルンと振るわれ、
顔の上顎と下顎が鼻梁を巻き込みながらめりめりと音を立ててマズルを形作り、
耳も獣毛に覆われながらその形と位置を変えて行く。
「……へ、変身、した!?」
「ああ、変身したな」
人間が獣へと姿を変える。そのあまりの非常識な光景を前に、俺はただ呆然と立ち尽くすしか他が無い。
そして、やけに長い数秒が過ぎた時には、目の前の男は伝説上の怪物である狼男へと姿を変えていた。
「くはははははっ、どうだ見ろっ! スカーフェイス! 俺様のライトエグザ、ウルフフォームだっ!
この姿になったからにはもうテメェのナイフなんぞ効きやしないぜ!」
ギラリと光る白い牙を見せ付ける様に、大きく口を開けて勝ち誇った様に笑う男、もとい狼男。
その証拠と言うべきなのだろうか、先ほどナイフが深深と刺さっていた胸の傷口が見る見るうちに塞がって行く!
なんと言う非常識な能力、これじゃとてもじゃないけどナイフだけで勝とうだなんて到底思えやしない。
「……相変わらずケダモノだな」
しかしそれにも関わらず、俺の隣にいるクロスは、何ら慌てる事無く飽くまで冷静な呟きを漏らす。
この状況でここまで冷静なのは、心臓に毛が生えている位に豪胆なのか、それとも単に状況を理解していないだけのか、
そのどっちにしろ、その横に居る俺にとってはどうなるのか気が気ではない!
「ちょ、クロス、あんたは何でそんなに落ち付いてるんだ!? 見るからにヤバそうだぞ? アレ」
「案ずるな。奴が変身したとしても、単に動きが素早くなって力も強くなり、ついでに再生能力が強化されただけの事だ」
「あー、そうかー、それだけの事かー…って、それって充分過ぎるくらいにヤバいんですけどぉっ!?」
「ヲイコラ、俺様を置いて勝手に漫才してるんじゃねぇ!!」
ちっとも励ましになっていないクロスの言葉に、思わずノリ突っ込みする俺。
その様子が面白くなかったのか、ファングは尻尾をぴんと立てて的外れな事で怒声を上げる。
クロスはちっ、と舌打ち一つして、面白くなさそうな目でいきり立つファングを見やり
「そんなに急かすなケダモノ。お前は私をミンチにしたいのだろう?
ならばケダモノはケダモノらしくとっとと掛かってくれば良いじゃないか、このトンマのケダモノめ」
飽くまで乏しい表情ながらも、ファングへ向けて明らかに嘲笑混じりに言い放つ!
ちょwwwwwwここで何を挑発してるんですかあんたはwwwwwしかもケダモノって四連続で言いやがったwwww
うわ、ファングさんめちゃくちゃ怒ってますよ? 全身の毛が怒りに逆立ってますよ!?
「て、て、てててテメェ!……分かった、良く分かった、テメェは余程俺にミンチにされたい様だな!!」
「ふっ、出来るものならな?」
「うっ……がぁぁあァぁあぁぁァぁっ!!!」
クロスの嘲笑混じりな一言を引き金に、ファングが野獣の如き咆哮を上げて飛び掛ってくる!
思わず「ひっ」と悲鳴を上げて目を閉じて身を屈める俺。一瞬、脳裏に浮かぶは血肉飛び散るバイオレンスな光景!
「slow」
――その瞬間、彼女が何かを呟いたような気がした。
「あ……れ?」
そして、何時まで経ってもバイオレンスな事はおろか、何かが起きる様子すらない。
恐る恐る目を目を開けて、屈んでいた態勢から身を起こした所で、俺はそれに気がついた。
それは、牙を剥き出しにして跳びかかって来る体勢のまま、空中で動きを止めたファングの姿。
「……止まっている?」
「いや、止まっている訳ではない。今の奴の時間が約1000倍遅くなっているだけだ」
「……え?」
平然としているクロスに言われて良く見れば、確かにファングは酷くゆっくりとではあるがじりじりと動いていた。
思わずゆっくりとした動きのファングへ手を触れようとして、俺はクロスに手で制された。
「触るな。迂闊に触ったら最後、その途端に奴の時間は通常の速度に戻ってしまうぞ?」
「どう言う事だよ……これって一体? クロス、あんたの仕業なのか?」
「ああ。私が『slow』と名付けているライトエグザは
空中を浮遊している、もしくは空中を飛来する物体の時間を約1000倍遅くする波動を、両方の手から放つ事が出来る。
しかし、それが少しでも地面や地面に接している物体へ触れた場合、即座に効果の対象外となって解除されてしまうのでな。
だからこそ私は、奴を挑発する事で跳びかかって来るように仕向け、私の能力の対象にしたのだ」
な、成る程……ある意味使い所が難しい能力なんだな。
「それとな、地面、もしくは地面に接している物体に触れる事で解除されるなら、
その逆に地面に何ら接していない物体が触れた場合はと言うと……」
言いながらクロスは路地の隅に置かれていたコンクリートブロックを拾い上げ、
「こうなる」
――おもむろにのろのろとしているファングの顔へ投げ付けた!
当然、コンクリートブロックはファングの顔へめきゃって感じで思いっきりめり込む……筈なのだが、
ファングの顔へ触れた途端、そのコンクリートブロックがめり込む動きは酷くゆっくりとした物になってしまう。
……ひょっとして、これって?
「時間が1000倍遅くなってるファングに触れた事で、コンクリートブロックの時間も1000倍遅くなってしまったのか?」
「その通りだ。飲みこみが早くて助かる。
この副次的効果により、布などの面積の広い物体へ波動を当てる事で、銃弾などの飛来物から身を守る事も可能だ
尤も、地面、もしくは地面に接している物体が触れたら最後、其処から連鎖的に元に戻っていってしまうがな」
あー。本当だ、徐々にコンクリートブロックがひび割れて行って、衝撃でファングの頭が仰け反り始めてる。
しかもコンクリートブロックの直撃で折れて飛んだファングの牙や、鼻から飛び散る鼻血までゆっくりと動いている。
まるでハイスピードカメラで撮った映像を、更にスロー再生したような状態だなぁ……。
って、のんきに様子を観察している場合じゃなくて。
「所でクロス、こいつ如何するんだ?」
「放っておく」
「え? いや、攻撃する絶好のチャンスじゃないのか?」
「馬鹿を言え、奴はナイフで心臓を刺されても死なずにあっさりと再生するような能力者だぞ?
例えここで私が奴へ攻撃をして、多少のダメージを与えたとしても。直ぐに再生されて徒労に終わるのが関の山だ。
だったら、動きが鈍い今のうちに、とっととこの場から逃げ去るのが良策だ」
「あー、確かに」
言われてみればそうである、相手は異常な再生能力を持つ化け物なのだ。
ここで無意味な攻撃をして折角作った貴重な時間を無駄にするより、いっその事逃げた方がまだマシなのだろう。
「しかし、かと言ってこのまま何もせずに放置しておくのも癪だしな……」
言いながらクロスは周囲を見やった後。
そこら辺にある物を手に取って、未だに空中でのろのろしているファングへ適当に投げ付け始めた。
中身たっぷりのゴミ袋、放置自転車、キメラの死骸、薄汚れたぬいぐるみ、更には何故か落ちてたボーリングの玉……。
「良し、これで充分だろう」
「ひ、ひでぇ……」
――数分後、満足げに頷くクロスの前で、ファングは空中に浮かぶ奇妙なオブジェと化していた。
多分、彼は地面に触れて効果が切れるその時まで、ずっとこの状態なのだろう……なんと言うか敵ながら哀れである。
そんな事考えている俺とはつゆ知らず、空中の前衛的芸術を見るのも満足したクロスが振り返り、俺へ言う。
「さて、今のうちにとっとと逃げるとしようか。
お前も私に対して聞きたい事が色々とあるだろうが、今は安全な場所に逃げるのが先決だ。
取り合えず、先ずはお前の家まで案内させてもらおう、エンドウナオキ」
※ ※ ※
「ぬぐをぉわ゛っ!?」
クロスと直輝が去って十数分ほど経った後、裏路地の一角で唐突に上がる激しい物音と男の悲鳴。
その音の余韻すらも消え去った後、物音の出元と思われるゴミとガラクタの山がもそもそと動き、不意に弾け飛ぶ。
「ぐぁぁぁぁぁっっ!! くっそうっ!! またスカーフェイスの口車に乗せられちまった!!」
ガラクタの山から出て来るなり怒りの咆哮をあげるのは、黒味掛かった毛並みを持つ狼男。
ファング、と言うコードネームを与えられた彼は、今から十数分ほど前、腐れ縁とも言うべき相手と遭遇し。
その相手の挑発にまんまと乗せられた挙句、見事に相手の能力を食らい今に至っている。
「くそ、歯が何本か折れちまってるじゃねえか……ああもう、歯ってのは他と比べて再生にやたらと時間が掛かるんだよな。
これで暫くは他の連中にハヌケって馬鹿にされちまう……スカーフェイスの奴め、今に見てろ!」
失われた自分の前歯の牙へ手を当てながら、一頻り(ひとしきり)聞く相手の無い愚痴を並べた後。
ファングははと、自分がさっきまでやろうとしていた事を思い出す。
「って、今はスカーフェイスの事より。あのエンドウナオキってガキを攫ってくるんだった!
奴が逃げてからそう時間は経ってないから……良し、ガキの匂いはまだ残ってる、こっちか!」
言って、ファングは地べたに伏せると、鼻先を地面へ近付け、スンスンと匂いをかぎ始める。
やがて、獣化能力によって強化された嗅覚によって、地面に残された直輝の靴のゴムの微かな匂いを嗅ぎ当て、
ファングはにやりと口角を笑みに形に歪める。その際、尻尾がぶんぶんと振られているのはちょっとしたご愛嬌。
「へッ、スカーフェイスの奴め、逃げ急ぐ余り消臭するのを忘れてたな?
これであのガキのヤサ(住処の意味)を見つけられ…――あん? 携帯か? なんだオヤっさんからか、しかも緊急?」
地面に残った直輝の靴の匂いを辿り始めた矢先、突然鳴り始めるジャケットのポケットの中の携帯。
それに気付き追跡を一旦止めたファングは、その取り出した携帯の液晶画面に表示された相手の名前を見て、
狼の顔でも分かるくらいに怪訝な表情を浮かべつつ、携帯を繋げる。
はい、こちら『ファング』。どーしたんっスか? オヤッさん。いきなり緊急コールで電話なんかしてきて……」
『……ファング、今お前は何をしている?』
「ああ。今、俺様は第63号案件のエンドウナオキってガキの事に関する任務をやってる最中ッス。
途中、『機関』の奴らにちょいと邪魔されましたが、じきに奴のヤサを見つけて攫ってきますんで、今しばらく……」
『悪いがファング、直ちにその任務を中断し、本部へ帰還しろ』
「はぁ? オヤっさん、いきなり何言ってるんッスか!?」
通信先のオヤっさんと呼ばれた男から言われた寝耳に水な言葉に、思わず尻尾を立てて声を荒げるファング。
しかし、男は口調一つ変える事無く、冷静淡々と言い放つ。
『お前が現在、任務の対象にしているエンドウナオキは、まだ能力が覚醒していない状態と報告されている。
その為、エンドウナオキの能力の威力、及び効果範囲などの詳細はまだ観測すらされていないのが現状だ。
そんなデータも揃ってない状況で覚醒された場合、我々にとって非常に好ましくない事態に陥る事も充分に考えられる。
よって、エンドウナオキの能力が観測されるまでの間、直接的な行動は厳禁と上層部から通達された』
「そんな! そう言われても覚醒されてからじゃ遅いかも知れないッスよ?」
『上層部からの通達は絶対だ。これを破れば反逆の意思ありと判断され、最悪、処断される可能性もある。
それに『機関』も動き出している以上、迂闊な行動は厳禁だ。……ファング、悪い事は言わん、直ちに帰還しろ』
「……ちっ、分かりました。これよりコード『ファング』は現任務を中断し、直ちに本部へ帰還します……以上」
言って、通話を終了させた後、携帯を乱暴にポケットへと仕舞ったファングは、
裏路地のビルとビルの間に覗く青空を見上げ、何処か苛立たしげに体毛を逆立てつつ漏らす
「ったく、道理で他の連中が動かなかったわけだ。
流石のあいつらもお偉方がストップかけてりゃ動きようがねーもんな。
……まあ、とはいえ、あのスカーフェイスが関わってる以上、俺様もこのまま放っておくつもりはねーんだがよ……」
其処まで愚痴をもらした所で、ファングはふとある事に気付き、思わず「げっ」と声に漏らす。
そして、肉球の付いた毛むくじゃらの手を見やり、何処か疲れた調子で漏らす。
「……そういや俺様、スカーフェイスの奴に乗せられた勢いに任せて変身してたんだっけ?
って事は、日が完全に沈むまでずっとこのままかよ……ハァ……」
……多分、後でルローのチビ辺りにもふもふーとか言われて、尻尾とか耳とかを弄られるんだろうなぁ。
と、これからの自分に起きる事を思ったファングは、無意識の内に自分の尻尾を重く垂らすのだった。
――――――――――――――ー――――続く――――――――――――――ー――――
登場キャラクター
最終更新:2010年06月18日 20:38