石上神宮(いそのかみじんぐう)
≪古 称≫「石上振神宮」「石上坐布都御魂神社」「石上社」「布留社」など
〒632-0014 奈良県天理市布留町384
電 車:JR・近鉄天理駅より徒歩30分、タクシーにて5分
バ ス:JR・近鉄天理駅より奈良交通バス20、24、28番で乗車し「石神神宮前」下車すぐ(所要時間8分)
自動車:西名阪自動車道、天理東インターを下り南へ1km(駐車場とトイレ有り)
石上神宮は物部氏に所縁がある社で、その管理も物部連が勤めた。
当神社の御祭神の内、市川臣は、孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命の後裔で、当社社家の祖。
また当社には出雲国造と同じく世襲の忌火職があり、江戸時代まで物部氏の本宗として代々森家が務めた。現在の宮司も森家出身。
忌火とは、本来神饌を煮炊きする、火鑽によって得た神聖な火の意味。石上神宮の長官職を意味し、皇室の大嘗祭、出雲国造の火継式(神火相続式)に似た、神主の忌火成り神事が行われた。
酒殿社に臨時の清浄殿が設けられ、神主はそこに籠もり、忌火が鑽り出され、その火によって神聖な食事をし、現人神となった神主は比礼を肩に掛け、布留山の榊・梅の楚(すわえ:若枝のこと)を持って行進し、忌火になったことを示した。
別表神社
≪旧社格≫式内社(名神大)、
二十二社、官幣大社(明治4年)
御祭神
・布 都 御 魂 大 神
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詳 細 |
当神宮の主祭神で、国土平定に偉功を立てられた神剣「韴霊」に宿る霊威を称えて布都御魂大神とする。
韴霊は神代の昔、天孫降臨に際して経津主神・武甕雷神が出雲国稲佐浜に天降って大国主命に国譲りを命じた折に、武甕雷神が佩いていた剣。
その後、神武天皇が東征の途上、熊野にて土地神の毒気によって遭難した折、天照大御神の詔によって再び天降り、これを平定した。
神武天皇は即位の後その功績を称え、物部氏の遠祖宇摩志麻治命に命じて宮中に奉斎させた。
第10代祟神天皇の7年至って、勅命により物部氏の祖伊香色雄命が石上布留高庭(現在地)に遷して奉祀した。
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・布 都 御 魂 大 神
・布 都 斯 御 魂 大 神
配 祀
・五十瓊敷命
・宇摩志麻治命
・白河天皇
・市川臣命
祭神の布都御魂大神は甕布都神、佐士布都神ともいい、平国之剣と称せられ、その霊威を以て神と祀る。記紀によれば天孫降臨に際して、経津主・武甕槌の両神とともに国土を鎮定し、神武天皇の東征においては熊野の地に天降って賊徒を平らげ、建国の基礎を固めた神。
布都斯御魂神は饒速日尊が天降る際に天津御祖によって授けられた、天璽十種瑞宝の霊威を神として祀られた。
摂社としては出雲建雄神社、鎮魂八神を祀る天神社と七座社がある。
出雲建雄神社は延喜式内社で天叢雲剣(草薙剣)の霊威を出雲建雄神と称え祀っている。
同社拝殿は内山永久寺(廃寺)の鎮守社拝殿であったが、大正3年当地に移築された。保延3年(1137年)の建立と云われ、中央に一間の通路がある割拝殿形式で国宝に指定されている。
摂 社
・出雲建雄神社(式内社):出雲建雄神
・天 神 社:高皇産霊神、神皇産霊神
・七 座 社:生産霊神、足産霊神、魂留産霊神、大宮能売神、御膳都神、辞代主神、大直日神
上記3社と猿田彦神社は拝殿よりも南、石段を上がった高い位置に有り、拝殿前の中庭から見ると、楼門がまるで4社の楼門であるかの様に見える。地理的制約からこの構造となったというのが通説だが、重要な神とされており何か意味があるのかも知れない。
尚、斎宮が居た場所は、上記4社(西向)の真裏(東隣)と伝えられる。
末 社
・猿田彦神社
・神田神社
・祓戸神社
・恵比須神社(境外)
・鎮魂祭について
歳 旦 祭 (1月1日)
元 始 祭 (1月3日)
古神符焼納祭 (1月15日)
玉 の 緒 祭 (節分前夜)
節 分 祭 (節分当日)
祈 年 祭 (2月19日)
献燈講講社大祭 (4月第1日曜)
春 季 大 祭 (4月15日)
長寿講社春季大祭 (5月3日)
神剣渡御祭(でんでん祭)(6月30日)
大 祓 式 (6月30日)
崇敬会大祭 (9月第1日曜)
榜示浚神事 (10月1日)
例 祭(ふるまつり) (10月15日)
長寿講社秋季大祭 (11月3日)
鎮 魂 祭 (11月22日)
新 嘗 祭 (11月23日)
お 火 焚 祭 (12月8日)
天 長 祭 (12月23日)
神 庫 祭 (12月31日)
大 祓 式 (12月31日)
除 夜 祭 (12月31日)
月 次 祭 (毎月1日・15日)
石上神宮は大和盆地の中央東寄り、龍王山(標高585.7m)の西の麓、古代の山辺郡石上郷に属する布留山(標高266m)の北西麓の高台に鎮座する。境内は鬱蒼とした常緑樹に囲まれ、境内の池には天然記念物の馬魚が生息するなど大変自然豊かな地。北方には龍王山よい発した布留川が流れ、周辺には奈良県下有数の古墳密集地帯として知られている。また境内脇には奈良盆地の東、平地と山地の間を縫うように南北に通る東海自然道の一端「山の辺の道」が通っており、古代における交通の要所としても機能していた。
非常に歴史の古い神社で、『古事記』には「石上神宮」と、『日本書紀』にも「石上振神宮」との記述がある。『延喜式』には「石上坐布都御魂神社」たり、武器武具のもつ霊威を中心とした信仰が永く続き、それにより多くの武器武具が奉納された。また饒速日尊が天降ったときに天津御祖神より授かり、地上に伝えた十種神宝と鎮魂の業がある。古くは斎宮が居たという。その中で、本当に斎宮であったかどうか議論が多いが、布都姫という名が知られている。また、神宮号を記録上では伊勢神宮と同じく一番古く称しており、伊勢神宮の古名とされる「磯宮(いそのみや)」と「いそのかみ」とに何らかの関係があるのかが興味深い。
社伝によれば、布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、高倉下命(夢に天照大神、高木神、建御雷神が現れ与えた)を通して天皇の元に渡った。その後神武天皇の勅命により物部氏の祖宇摩志麻治命により、父である饒速日尊より継承された天璽十種瑞宝とともに宮中で祀った。その後、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が韴霊・十種瑞宝を石上布留高庭現在地に遷し、「石上大神」と称え祀ったのが当社の創建である。
ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている。天武天皇3年(674年)には天武天皇が御子の忍壁皇子を派遣して神宝を磨かせ、諸家の宝物は皆その子孫に返還したはずだが、日本後紀 巻十二 桓武天皇 延暦二十三年(804年)二月庚戌 条に、代々の天皇が武器を納めてきた神宮の兵仗を山城国 葛野郡に移動したとき、人員延べ約15万7千人を要したとある。移動後、倉がひとりでに倒れた。次に兵庫寮に納めたが、この後に桓武天皇が病気になり、さらに怪異が次々と起こりった。これを恐れた朝廷は使者を石上神宮に派遣して、女巫に命じて、何故か布都御魂ではなく、布留御魂を鎮魂するために呼び出したところ、女巫が一晩中怒り狂ったため、天皇の歳と同じ数の69人の僧侶を集めて読経させ、神宝を元に戻したとある。当時それほどまで多量の神宝があったと推測される。
神階は嘉祥3年(850年)に正三位、貞観元年(859年)に従一位、貞観9年(867年)に正一位に叙せられた。延喜式神名帳には「大和国山辺郡 石上坐布都御魂神社」と記載され、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗の幣帛に預ると記されている。
中世以降は布留郷の鎮守となったが、当時勢力を拡大していた興福寺と度々抗争を繰り返し布留郷一揆が頻発、それによって衰微した。さらに戦国時代に入ってからは織田信長の勢力に負け、神領も没収された。この時、十種神宝も持ち去られたという。しかし、氏子たちの信仰は衰えず、1871年(明治4年)には官幣大社に、1883年(明治16年)には神宮号を再び名乗ることが許され、社領も復興された。
この神社には本来、本殿は存在せず、拝殿の奥の聖地(禁足地)を「布留高庭」「御本地」などと称して祀り、またそこには2つの神宝が埋斎されていると伝えられていた。明治7年(1874年)の発掘を期に、出土した素鐶頭太刀(布都御魂剣)や曲玉などの神宝を奉斎するため本殿を建造。1913年には、本殿が完成した。禁足地は今もなお、布留社と刻まれた剣先状の石瑞垣で囲まれている。
創建の由緒から武門の棟梁たる物部氏の総氏神として、また鎮魂の業が伝わることから健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の御神徳在りとして信仰されている。
最終更新:2009年05月08日 13:03