韓愈

韓愈

768-824
中唐の儒者・文学者。唐宋八大家の一人。みずから昌黎の人というが、鄭州・南陽(河南省南陽県)の人。字は退之。諡は文公。名門の出身でなく、25才で進士に及第したが官職につけず、地方で幕客をしていた。35才で国子監四門博士となり、その後、累進して吏部侍郎にまでなったが、その間2度まで嶺南(広東省)に左遷された。その第2回は52才(819)憲宗が仏骨を宮中に迎え入れるのに反対した「論仏骨表」中の過激な文句のため潮州刺史に左遷されたものである。文学史上、彼は文章の復古によって知られる。南北朝以来の四六駢儷体は、わずらわしい韻律の規則と故事成句の慣用に制約されて、形式美のために内容を犠牲にしていた。この因襲的な貴族的文学にたいする批判と革新の動きは、すでに南北朝に芽ばえ、唐では柳冕などがおしすすめたが、それらは主として文章に内容を与えようというものであった。韓愈は一定の内容はそれを盛るにふさわしい文体を必要とすることに考えおよんだ。ここに彼の文学革新の成功の理由がある。彼は古文すなわち「三代両漢の文」を模範とした。「文は道を載せる道具」であるから、因襲的表現を排除し(「陳言を去る」著李翊書)柔軟な叙述(「文従字順」樊紹述墓誌銘)が可能でなければならない、その模範が古文だ、という。古文は文語だが、比較的開放的な文体・散文である。彼はこの新文体によって彼自身の思想、感情を自由に追求し新鮮に表現する手段を得た。そして墓碑・墓誌・伝・行状・表・書・序などの形で創作した。この古文形式は友人の柳宗元などの協同によって立され、北末朝に形成されたが、清朝の末にいたるまで文人の正統的文章と、したがって思考法との典型となった。彼の散文主義はその詩にもみられる。常用語を避け、一句の語数を自由にし、詩の中に議論をもちこんだ。この点でも彼は宋の詩風につながっている。なお詩人として彼は白居易とともに中唐詩人を代表する。彼の古文主義はもちろん文体だけのことでなく、むしろそのような表現手段を要求する積極的な思想があったのである。それは儒学復古の精神である。六朝以後、時代精神は老荘・仏教・道教または文芸にあった。これらは人間の個別的な享受または探究に属する、やはり貴族的な文化であるこれにたいし、韓愈は人間の政治性、社会性を重視し、その原理を先王の道、孔子の教えに求めた。代表的論文「原道」は、道、徳という抽象詞(虚位)のもとに私的なものを考える仏・道は許されない、儒学の仁義こそ公的なものだということ、それは元来聖人が民生のためにはかった道であるが、その根幹は民・父子の倫常であること古昔の士農工商の四民はそれぞれ仕事にはげんでいたが、今日は徒食の二民(僧・道)を加えて窮と盗の本となっていること、心、意の正修もそれが天下・国・家の倫常となものなら無意味であることを述べ、さらにこの道は、中国古来の聖人の伝承だと強調する(後の朱子の道統論)。これは書斎で生まれ科挙の教科と化した注疏儒学どころでない。仏・道や文芸によって豊かにされた個人をその孤立分散状態から世俗的体統に組み入れようとする国家教学である。そこで彼が「原性」を書いたのも偶然でない。彼の課題にとって、個々の人間の本性を政治社会秩序との連関でとらえることは必要であった。彼は性をその発動たる情から区別し、それを仁義礼知信という政教的なものとし、さらに個人的に上中下の三品の階級があるとして。徳位相関的な君臣民秩序の理論をつくると同時に、官僚層の道徳的品性の高さを要求した。このような中央集権的国家主義と新しい官僚的能力への要求は、これまた宋朝に先するものであり、そして実際宋学において精細に展開された。韓愈の思想、文学上の復古的革新運動は、安史の乱後の中国史の新動向がはらんだ新官僚層の動きであって、友人柳宗元や李観、弟子の李翱皇甫湜張籍はその同調者であった。なお彼の作品は『昌黎先生集』40巻、『昌黎先生外集』10巻、『昌黎先生逸文』1巻に集められ、朱熹の『韓文考異』があるが、閲読には銭仲聯『韓昌黎詩繋年集釈』、馬伯通『韓昌黎文集校注』が便利である。ほかに李翱と共著の『論語解』2巻がある。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。

列伝

『新唐書』巻一百七十六 列伝第一百一 韓愈
『旧唐書』巻一百六十 列伝巻第一百一十 韓愈

参考文献

『アジア歴史事典』2(平凡社,1959)

外部リンク

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』韓愈
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E6%84%88

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最終更新:2023年06月27日 23:49
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