柳宗元 りゅうそうげん
773-819
中唐の文豪。本籍は河東(山西省)。
柳鎮の子。長安(陝西省西安)で生まれたらしい。字は子厚。本籍、任地にちなんで柳河東、柳柳州ともよばれる。793(貞元9)年進士に及第、集賢殿正字を授けられ、順宗の治世に勢威をはった
王叔文の配下で監察御史裏行をへて礼部員外郎まですすんだ。しかし33才のとき、憲宗の下で王叔文の党が排斥され、邵州刺史、さらに永州司馬におとされた。815(元和10)年いったん都に召還されたが、まもなくいっそう遠隔の柳州刺史に出され、そのまま任地で没した。彼は古文運動の代表として
韓愈と併称され、文集や『唐宋八家文』を通じてその作品は最も広範に普及し、文学史上における盛名は不動のものがある。十数年間の南方流滴生活から生み出された作品のうち、とくに「永州八記」をはじめとする山水遊記は、叙景と作者の情懐とのこん然たる境地を示し、また治者として人民生活に対処する視野からは「捕蛇者説」「梓人伝」のごとき注目すべき新風を開いている。彼は境遇の関係から屈原への傾倒がいちじるしく、他方陶潜らの流れをくみ、自然を詠ずる詩に秀でるという具合に作風は多彩であるが、つねに客観的・合理的観点から対象を把握したことは、「非国語」などを著わして古典に対する文献批判のさきがけをなした点とともに、とくに注目に値する。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
参考文献
参考文献 『アジア歴史事典9』(平凡社、1962年4月)
外部リンク
最終更新:2023年12月19日 00:05