王維

王維

701-61
盛唐の代表的自然詩人。太郎(山西省太谷県)の人。晩年の名により王右丞ともよぶ。父は処廉、汾州司馬。王維は早熟な才子で、若い時から文名があり、721(開元9)年進士に及第し、大楽丞に任ぜられたが、まもなく済州(山東省)の司倉参軍に左遷された。のち734(開元22)年、宰相張九齢の手で右拾遺に抜擢されて、監察御史、左補闕、庫部郎中、吏部郎中を歴任し、天宝末(755)に給事中となった。たまたま、安史の乱にあって捕虜となり、乱が平定したのち戦犯としてその罪を問われたが、弟王縉の助命運動によって許されて太子中允に降ろされた。やがて太子中庶子にうつり中書舎人を経て、再び給事中となり、最後は尚書右丞として生涯をおえた。年少にしてすでに詩人であった彼は、音楽の達人でもあり、また南画の祖と仰がれるほどの山水画の名手でもあるなど、多能多芸で当時の最高の文化人であった。ただ、彼には人間ぎらいなところがあり、政治への熱情はうすく、長い政治生活中、輞川の山谷に豪華な別荘をかまえ、公務の余暇にはそこへ行って、友人裴迪らとともに、閑寂な自然に浸る生活を楽しんだ。「詩中に画あり」と評される彼の詩の多くは、このような生活の中から生まれたものであり、対象として探究されるものは、純粋な山水の美、ことにその静の美である。これが彼の詩の大きな特徴であり、また中国の自然詩が彼になって初めて完成したといわれるわけでもある。また、王一家は、大禅師普寂に師事して、深く仏門に帰依した母崔氏の影響もあってか、みな熱心な仏教信者であり、維摩詰にちなんだ字を持つ王維もまたその例にもれなかった。そのうえ仏典に対する造詣も深く、それが詩にも反映して、しばしば仏や仏典を典拠とする故事が使用され、これが彼の詩の思想的な一特色をなしている。その自然時にみられる清澄な明るさも。あるいはこの信仰生活と深い結びつきをもつのかもしれない。『王右丞集』6巻がある。ちなみにその詩文を研究するには、清の趙殿成の『王右丞集箋注』28巻が、校訂・注ともにゆきとどいて信頼おける。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。

列伝

『新唐書』巻二百二 列伝第一百二十七 文芸中 王維
『旧唐書』巻一百九十下 列伝第一百四十下 文苑下 王維

参考文献

『アジア歴史事典』2(平凡社,1959)

外部リンク

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』王維
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E7%B6%AD

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最終更新:2023年09月03日 12:26
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