唐書巻二百二
列伝第一百二十七
文芸中
李適 韋元旦 劉允済 沈佺期 宋之問 閻朝隠 尹元凱 富嘉謨 劉憲 李邕 呂向 王翰 孫逖 成 簡 李白 張旭 王維 鄭虔 蕭穎士 存 陸據 柳并 皇甫冉 蘇源明 梁肅
李適は、字は子至で、京兆万年の人である。進士に推挙され、二度猗氏県の尉に任じられた。武后は『三教珠英』の書を修撰するのに、
李嶠・
張昌宗を使とし、文学の士を選んで編集させ、ここに李適と
王無競・
尹元凱・
富嘉謨・
宋之問・
沈佺期・
閻朝隠・
劉允済が撰述にあたった。書が完成すると、戸部員外郎に遷り、少しして修書学士を兼任した。景龍年間(707-710)初頭、また修文館学士に選ばれた。
睿宗の時、待詔宣光閤となり、再び工部侍郎に遷った。卒し、年は四十九歳であった。貝州刺史を贈られた。
かつて夢に人と大衍の数(五十)を論じており、目覚めると「我が寿命はここに尽きた」と述べた。その子に命じて「霸陵原の西に京師を見ることを私は楽しみにしてきた。ここに墓を造影し、樹は十本の松を植えなさい」と言い、病になる前に、衣冠を正して石榻の上に寝転がり、『九経要句』および白琴を前に置いたから、士はその達観ぶりを貴んだ。
子の
李季卿もまた文をよくし、明経科・博学宏辞科に推挙され、鄠県の尉に任じられた。
粛宗の時、中書舎人となったが、通州別駕に左遷された。
代宗が即位すると、召還されて京兆少尹となり、また舎人を授けられ、吏部侍郎・河南江淮宣慰使に昇進した。閑職から抜きん出たから、「振職」と号した。大暦年間(766-779)、右散騎常侍で終わった。遺命して布車(霊柩車)一台のみの葬とした。礼部尚書を贈られた。
李季卿が朝廷にあっては、才能のある若者を推薦し、人と交わって始終をよくした該博の君子であった。
それより以前、
中宗の景龍二年(708)、はじめて
修文館に大学士四名・学士八名・直学士十二名を設置し、四時・八節・十二月を象徴した。ここに
李嶠・
宗楚客・
趙彦昭・
韋嗣立を大学士とし、
李適・
劉憲・
崔湜・
鄭愔・
盧蔵用・
李乂・
岑羲・
劉子玄を学士とし、
薛稷・
馬懐素・
宋之問・
武平一・
杜審言・
沈佺期・
閻朝隠を直学士とし、また
徐堅・
韋元旦・
徐彦伯・
劉允済らを召集して定員とした。その後選ばれた者は一ではなかった。おおよそ天子の饗宴や春秋の巡行において、ただ宰相および学士が従うことができた。春に
梨園に行幸したり、渭水で祓除すると、細柳の圈(わ)を賜って病気を払った。夏に
蒲萄園で宴し、朱桜を賜った。秋には
慈恩寺の塔に登り、菊花の酒を献じて長寿を讃えた。冬には新豊県に行幸し、白鹿観を経て、驪山に登り、温泉の入湯を賜い、香水・香油を給付し、行き従うのに翔麟馬を賜り、品官に黄衣がそれぞれ一人ついた。帝は感じることがあれば即興で詩を賦し、学士は唱和した。当時の人々は羨望するところであったが、しかし皆軽薄で軽々しく、君臣の礼法を忘れ、ただ文華によって寵愛を得ただけであった。韋元旦・劉允済・沈佺期・
宋之問・閻朝隠らのような者は他に称えるところもないが、附篇として左方に置く。
韋元旦は、京兆万年の人である。祖父の韋澄は、越王府の記室で、『女誡伝』を撰述して世に広まった。韋元旦は進士に及第し、東阿県の尉に任命され、左台監察御史に遷った。
張易之と一族が婚姻関係にあり、張易之が失脚すると、感義県の尉に左遷された。しばらくして召還されて主客員外郎となり、中書舎人に遷った。舅の
陸頌の妻は、
韋皇后の妹であり、そのため
韋元旦も頼んで官位を復したのだといわれる。
劉允済は字も允済で、河南鞏の人であり、その先祖は沛国の出で、斉の彭城郡丞の劉瓛の六世の孫である。若くして父を失い、母につかえて非常に孝行をつくした。文章を巧みにし、
王勃と名声を等しくした。進士に推挙され、下邽県の尉に補任され、累進して著作佐郎となった。魯の哀公の後から十二世をとって戦国につなげた『魯後春秋』を著して献上し、左史に遷り、
弘文館直学士を兼任した。
武后が明堂を完成させると、奏上して賦で功徳を述べたから、手ずからお褒めの詔があり、著作郎に任じられた。
来俊臣に無実の罪で死刑に処されるところであったが、母が老いており余生を過ごすことを願ったから、死を免れて獄に繋がれ、赦免にあい、大庾県の尉に貶された。また著作佐郎、修国史に復職した。常に「史官が善悪を必ず書くのは、驕った主や賊臣を恐れさせ、この権力は軽いものだろうか。しかし班固は金を受け取り、陳寿は米を求めたことは、僕は浮雲のようなものだろと見るだけだ」と言い、鳳閣舎人に遷った。(
張易之・
張昌之)と昵懇であったことに連座して、青州長史に任じられたが、清廉の呼び声高かったから、巡察使の
路敬潜が言上した。母の喪のため官職を去り、喪があけると召還されて修学館学士に任命された。排斥されて長らくたっていたから、喜びは甚だしく、家人と楽しく痛飲しすぎ、数日して卒した。
沈佺期は、字を雲卿という。 相州内黄県の人である。 かれは進士に及第したあと、協律郎から、給事中や考功員外郎にひきつづいて任ぜられたが、賄賂をとって、弾劾され、その件がまだ結審しないうち、あたかもそのおり
張易之らが失脚し、それでかれは驩州へ流罪に処せられた。のちややとりたてられて台州の録事参軍事となり、帳簿を持って報告に上京し、そのおり
中宗に召し出されて接見をたまわり、そして起居郎に任命され、修文館の直学士を兼任した。やがてかれは中宗の宴席につらなることができたが、そのとき天子は修文館の学士たちに命じ、回波の舞いを舞わせた。
沈佺期はこのおりとばかり言葉たくみに天子の機嫌をとり、ふたたび牙笏と緋衣をもらった。ほどなくかれは中書舎人そして太子少詹事の官を歴任し、開元年間(713-741)初頭になくなった。かれの弟の張全交と張全宇は、いずれもすぐれた文学の才能をそなえてはいたが、
沈佺期にはおよばなかった。
宋之問は、字を延清という。いまひとつの名を少連といった。汾州の人である。かれの父の
宋令文は、
高宗の時代に東台の詳正学士(
弘文館の詳正学士)をつとめた。宋之問は容姿風にひいて、弁舌にすぐれていた。かれが成人となるや、武后はかれを召し出して、
楊炯と分担して習学館の学士の任にあたらせた。のちかれは尚方監の丞や左奉宸内供奉にうつった。武后は、あるとき洛陽の南の龍門遊覧におもむき、そこで供の臣下たちに詩を作るよう命じたところ、左史の
東方虯が最初に詩を作りあげたので、武后は錦の袍を授けた。しかし、宋之問はそのすぐあとに詩を作りあげて武后にたてまつり、則天武后はその時に目を通すや、感嘆して、あらためて
東方虯から錦の袍をとりあげてかれに授けた。
その当時
張易之らは情人として武后に馴れ親しみ、武后からたいそうな寵愛をうけていた。宋之問は、
閻朝隠・
沈佺期・
劉允済とともに、かれらにけんめいに婚び従い、張易之が作ったもろもろの詩篇は、いずれもみな宋之間や閻朝隠が代作したものであり、張易之のために便器をささげることまでするほどであった。張易之らが失脚するにいたって、宋之問は瀧州へ、閻朝隠は崖州へと左遷され、どちらも参軍事となった。しかし宋之問は逃亡して洛陽へもどり、
張仲之の家へ身をひそめた。ちょうどそのころ
武三思がふたたび権力をもっぱらにしており、張仲之は、
王同皎とともに、武三思を殺して、唐の皇室を安泰にしよう、とくわだてていた。ところが宋之問はその計りごとの内容を知って、兄の子である
宋曇と
冉祖雍とに、緊急の異変を言上させ、そのかわりに自分の罪を赦してほしいと懇願し、それによって鴻臚寺の主簿に抜擢されたが、世の人びとはみなかれのふるまいを汚らわしいと嫌った。
景龍年間(707-709)に、かれは考功員外郎にのぼった。かれは
太平公主にへつらいつかえ、そのためとりたてられたのであった。
安楽公主の権勢が大きくなると、かれはこんどは安楽公主のもとへ出入りしてその心をかうにつとめたので、
太平公主はひどくかれを憎んだ。のち中宗がかれを中書舎人にとりたてようとしたところ、
太平公主は、かれが貢挙を管理した考功員外郎であったおり、賄賂をとり不法をはたらいたことをあばき、中宗はかれを降して汴州長史の長史に移したが、まだ任地に行かないうちに、越州長史に変更した。越州にあってはかれはすすんでなかなかよく職務にはげみ、またそのかたわらの剡の山や川をあまねくめぐって、酒をくみ、詩を作り、その詩は都にもひろまって、だれもかれもがみな誦し伝えた。
睿宗が即位すると、宋之問の悪辣なる罪過きわまりなし、とのかどで、詔を下してかれを欽州へ流刑に処した。
冉祖雍は中書舎人や刑部侍郎を歴任したが、尚書省の中で酒宴を開き音曲歌舞をもって騒ぎたてたので、御史に弾劾の上奏をされ、蘄州刺史に左遷された。そしてこの時になってかれもまた嶺南の地へ流罪となり、どちらも桂州において自殺するよう命ぜられた。宋之問は自殺を命じた話を聞くや、震えおののいて冷や汗を流し、東にあるいは西によろめいて、とうてい自殺などはたしえなかった。それで冉祖雍は使者に願った、「之問には妻や子がおります。なにとぞ別れを告げさせてやって下さいませ」。使者は許可した。しかし宋之問はとりのぼせて胸は早鐘をうち、家務を処理することもできなかった。冉祖雍は立腹して言った、「そこもともわたくしもみな天子さまに背きたてまつったのだ。死罪となるのはあたりまえ、それになにをぐずぐずしている」。そこで二人は最後の食事をとり、体や頭を洗い清めて、死んでいった。冉祖雍は、江夏王
李道宗の甥である。進士の試験に及第してから、世に名を知られた。
魏の建安年間(196-216)以後、東晋に至るまで、詩律はたびたび変化した。さらに沈約・庾信になると、音調韻律の理論によって詩の形を秩序だったものとし、対偶は細やかにすぐれたものとなった。さらに
宋之問・
沈佺期に至ると、なおいっそう華麗となり、音調韻律上の欠点を避けるにつとめ、句々篇々みな正されて、その詩篇はあたかも錦や繍が模様を作りあげているかのようである。かれらを学ぼうとする者たちはたっとんで、「沈・宋」と称し、「蘇と李とは前にあり、沈と宋はかれらと肩を並べる」と言いはやした。蘇武と李陵とのことを言っているのである。
もともと
宋之問の父の
宋令文は、文の才能が豊かで、その上書法の技術にすぐれており、また人なみはずれた大力の持ち主であった。人びとほかれを「三絶」と言いそやした。そのころ都に一匹の牛がいて、たびたび人を突いたが、だれ一人としてその首に縄をかけようとする者はいなかった。そのことを聞くと朱令文はまっすぐに牛のところへ進み、その角を抜きとり、その首をひねって、殺してしまった。のちに宋之問は文学によって世にあらわれ、その弟の
宋之悌は身軽で勇敢なことで有名となり、その弟の
宋之愻は草書や書の書法にすぐれていたので、世の人びとは、いずれも父の一絶をもらっている、と評判した。
宋之悌は、身のたけが八尺あった。かれは開元年間(713-741)剣南節度使・太原尹を歴任したが、あるとき法にふれて、朱鳶に流罪となった。ちょうどそのとき南方の異民族が驩州を占領したので、かれは総管を授けられて、敵を攻撃するよう命ぜられた。そこでかれは八人の勇士を集め、堅固な甲冑を身につけ、大声で叫びながら敵に肉迫し、「えびすども。じたばたすればただちに死ぬぞ」とどなった。敵の七百人はみな平伏し、立ちあがることができなかった。かくて賊を平定した。
宋之愻は、連州参軍となった。連州刺史は、
宋之愻は歌がうまい、と聞いて、自分腰元たちに歌を教えるよう、かれに言いつけると、かれは毎日笏を手に持って、腰元の部屋の外に直立し、歌をうたって平然たるものであった。
閻朝隠は、字は友倩で、趙州欒城の人である、若い頃から兄の閻鏡幾・弟の閻仙舟と皆著名であった。兄弟連ねて進士・孝悌廉譲科に及第し、陽武県の尉に補任された。
中宗が太子となると、
閻朝隠を舎人として厚遇した。性格は滑稽で、詭弁を弄したから、武后に気に入られた。累進して給事中・仗内供奉に遷った。武后が病となると、少室山に行って祈祷し、沐浴して、身を俎板の上に横たえて犠牲とし、武后の代わりに病となるよう祈った。戻って奏上すると、武后もまた快癒したから、大いに褒賞された。その性格が諂い媚びることはこの通りであった。景龍年間(707-710)初頭、崖州に流されたが赦免されて戻され、著作郎に累進した。先天年間(712-713)、秘書少監となったが、事件に連座して通州別駕に左遷されて卒した。
尹元凱は、瀛州楽寿県の人である。慈州司倉参軍であったが事件に連座して免職され、失意のうちに漂泊して世に出ないこと三十年にも及んだ。
張説・
盧蔵用に起用され、詔して右補闕に任じられた。
富嘉謨は、武功県の人で、進士に推挙され、長安年間(701-705)、晋陽県の尉に任じられた。
呉少微は、新安県の人で、また晋陽県の尉に任じられ、最も互いを友として親しかった。魏郡の
谷倚なる者がいて、太原県の主簿であった。あわせて文章を担い、当時の人は「北京三傑」と称した。天下の文章は徐摛・庾肩吾の宮体詩を尊んだが、世俗の者はこれに競うことはなく、ただ富嘉謨・呉少微だけは経術をまなび、純正寬厚かつ気性が雄々しくすぐれており、人々は競って慕ったから「呉富体」と称された。『三教珠英』の編纂事業がおこると、
韋嗣立は
富嘉謨・呉少微を推薦して左台監察御史としたが、すでに
富嘉謨は死んでおり、
呉少微は病となっていたから、これを聞いて慟哭し、また卒した。
劉憲は、字は元度で、宋州寧陵県の人である。父の
劉思立は、
高宗の時に御史として名をなし、当時、河南・河北が大旱となり、詔して御史中丞の
崔謐らを、道を分けて慰撫に派遣させることとしたが、
劉思立は「農業がまだ収穫が終わっていないのに撫巡の使者を派遣するのは、使者が来ればねぎらいの宴会をしないわけにはいきません。また賑給は出納の総帳簿を見て出入を考えなければならず、行き帰りは停滞し、農業を妨げることはますます大きくなるのです。もし駅がなければ、馬はあらかじめ集めなければならず、一馬を数家で用いているので、今農事は雨を待って作業しようとしているのに、一日の仕事をやめて、一年の経理を破るのは、もとより安らぎを求めているのに、さらに煩わしくなっているのです。願わくば州県に指示して前借りさせ、秋を待って使者を派遣するとよいでしょう」建言した。詔して聴され、崔謐らが行くことは中止となった。考功員外郎に遷った。始めて明経科で填帖(提示された経典を記入すること)と、進士に雑文を試験することを加えるよう議した。在官中に卒した。
劉憲は進士に及第し、河南県の尉に任命され、左台監察御史に累進した。天授年間(690-692)、詔を奉って
来俊臣の罪を取り調べることとなったが、劉憲はその罪を憎んで縄で拷問して痛めつけようとしたから、かえって問題となり、潾水県令に左遷させられた。来俊臣が死ぬと、召還されて給事中となり、中書舎人に転じた。
張易之と親しかったことに連座して、京師より出されて渝州刺史となった。太僕少卿、修国史に任じられ、修文館学士を兼任し、太子詹事に遷った。当時、
玄宗は東宮であり、常に思いを史書典籍によせており、劉憲は「殿下の位は君をたすけ、人の才能から隔絶しています。章句をつまむようなことはあってはなりません。大意がわかればいいだけなのです。侍読の
褚无量は経に明るく行いを修めた学識豊かな宿老です。しばし召して尋ねられその発言を推し量るとよいでしょう」と申し上げ、太子は受け入れた。卒すると、兗州都督を贈られた。
武后の時、吏部に勅して氏名の上に糊ではりつけて名を隠して成績を調べることによって優秀な人物を求めた。ただ劉憲と
王適・
司馬鍠・
梁載言が第二等に入った。王適は、幽州の人で、雍州司功参軍で終わった。司馬鍠は、河南の人で、神龍年間(707-710)初頭、中書侍郎で卒した。継母に仕えて孝養を尽くし、奉禄を自分の家に入れなかった。弟の司馬銓と伯父の
司馬希象とともに皆、殿中侍御史となった。
司馬希象は、剛直で諂わず、主爵員外郎で終わった。
梁載言は、聊城の人で、鳳閣舎人を経て知制誥となり、懐州刺史で終わった。
李邕は、字は泰和で、揚州江都の人である。父の
李善は、行ないは優雅で、古今に精通していたが、文章は得意ではなく、そのため人に「書簏」と呼ばれた。顕慶年間(656-661)、累進して崇賢館直学士、兼沛王侍読となった。文選の注を行ない、事細かに調べあげ、上表して奉った。賜物は非常に手厚かった。潞王府記室参軍に任じられ、涇城県令となったが、
賀蘭敏之と親しかったことに連座して、姚州に流され、赦免されて戻った。汴・鄭の間を居候して講義を来ない、生徒たちがあちこち遠くからやってきて、その学業を受け継ぎ、「文選学」と言った。
李邕は若くして名を知られた。始め
李善が文選に注を加えたが、事を逐次解釈して文意を忘れていた。書ができると李邕に出来栄えを尋ねたが、李邕はあえて答えなかった。李善は詰め寄ると、李邕は文意を改めたいと思った。李善は「試しに私のために補ってみてくれ」と言い、李邕は事象について義をあきらかにした。李善はそれを自分の注とすることはできなかったから、そのため両書は並び行わなれた。成人となると、特進の
李嶠と会い、自ら「書籍はまだ多くは読んでいません。一度秘閣の書籍を見せて下さい」と言った。李嶠は、「秘閣は万巻あって、どうして短い日時で習うことができるようか」と言ったが、李邕はどうしてもと願ったから、そこで試しに秘閣の書籍にあたらせた。しばらくもしないうちに別れの挨拶をしてきたから、李嶠は驚いて、秘閣の奥や隠された書籍を試問してみると、言い終わるや答えることは響きが応じるかのようであった。李嶠は感嘆して「君もまたその道の名家なんだな」と言った。
李嶠が内史となると、監察御史の
張廷珪と李邕の文章が気高く端正で、才能は遠慮なく率直に諌めるのに任ずるべきであると推薦し、そこで左拾遺を拝命した。御史中丞の
宋璟が
張昌宗らの悪行を奏上したが、武后は応じることがなく、李邕は階下に立って大声で「宋璟が述べたことは社稷の大計です。陛下は聞くべきです」と言ったから、武后は顔色をやわらげ、そこで宋璟の奏上をよしとした。李邕が退出すると、ある者が「君は位が低いのだから、一たびご意向に背いたら、どんな禍いがあるかわからんぞ」と言うと、李邕は「そうでもしなければ、名もまた伝わらんさ」と答えた。
中宗が即位すると、
鄭普思が怪しげな術によって寵愛を得て、秘書監に抜擢された。李邕は諌めて「陛下は自ら政務にあたって日が浅く、全国は厳かであって、道では勝手気ままに論議するようなことはありません。今、
鄭普思が詭き惑すことに民衆は騒乱し、吉凶を説いていますが、陛下はご存知ではなく、濫りに用いようとされています。孔子は「詩経には三百もの詩があるが、その詩に書かれていることは一つの言葉でくくることができる。それは「よこしまなでない、まっすぐな気持ち」ということである」と述べています。陛下は本当に
鄭普思の術で長生きできるのでしたら、爽鳩氏(斉を古に支配したという古族。左伝昭公二十年伝にみえる)もまた長らく天下にあったということになるので、陛下は今天下を得られたのでしょうか。神人を呼ぶことができるというのでしたら、秦・漢もまたそのため長らく天下を有していたことになるので、陛下は今の天下を得られなかったのです。仏法ができるというのでしたら、梁の武帝もまた長らく天下を有していたということになるので、陛下は今の天下を得られなかったのです。鬼道ができるというのでしたら、墨子や干宝もまたそれぞれの主に献じて長らく天下を有したでしょうから、陛下は今の天下を得られなかったのです。古より堯・舜は聖者と讃えられていますが、臣がその讃えられる行いの理由を見てみると、すべて人間の事にあり、人々がそれぞれ仲良くして、身分や立場に見合った振る舞いを行うといったことで、鬼神の道によって天下を治めたとは聞きません。陛下はかえりみて良し悪しを考えてくださりますように」と述べたが、受け入れられなかった。
五王(
崔玄暐・
張柬之・
敬暉・
桓彦範・
袁恕己)が誅殺され、張柬之と親しかったことに連座して、京師より出されて南和県の県令となり、富州司戸参軍事に貶された。韋氏が平定されると、召還されて左台殿中侍御史を拝命し、弾劾の任にあったったから、人々は非常に憚った。譙王
李重福が謀反すると、李邕は洛州司馬の
崔日知とともに支党を捕らえ、その功によって戸部員外郎に遷った。
岑羲・
崔湜は崔日用を憎んだが、李邕は彼らと親交があり、
玄宗が東宮であったとき、李邕は
崔隠甫・
倪若水と同じように礼遇されたが、崔羲らはこれを嫌ったから、李邕を舎城県の丞に左遷した。玄宗が即位すると、召還されて戸部郎中となっった。
張廷珪が黄門侍郎となって、
姜晈が寵愛されると、共に李邕を助けて御史中丞となった。
姚崇は李邕の落ち着きのなさを嫌って、括州司馬に左遷し、起用されて陳州刺史となった。
帝が太山にて封禅して帰還すると、李邕は帝と汴州にて謁見し、詔によって賦を献じると帝は喜んだ。しかし矜持が強く、自ら宰相に匹敵するといっていた。李邕はもとより
張説を軽んじて、互いに憎み合っていた。ちょうど敵対する人から李邕が賄賂を求めて法を曲げているという告発があり、獄に下されてその罪は死に相当した。許昌の男子の
孔璋が天子に上書した。「優れた君主が過去を捨て、才能をとって過去の行いを捨てるなら烈士は節に抗い、勇者は死を避けることはありません。だから晋は荀林父(中行桓子)を用いるのに過去を不問とし、漢は陳平を任じるのに行いによらず、秦の禽息は百里渓が用いられるためならこの身が死んでも生きることを祈らず、晏嬰の無実を訴えて北郭騒は頭を砕いて死を惜しみませんでした。もし荀林父が誅殺され、陳平が死に、百里渓が用いられず、晏嬰が追放されるならば、これ晋は赤狄の地を得られず、漢は天子の尊さはなく、秦は強くなく、斉は覇者にならなかったのです。伏して見てみますに、陳州刺史の李邕は、剛毅かつ忠烈で、難事からは逃れられません。むかし二張(
張易之・
張昌宗)の横暴を鎮め、韋氏の野望をくだき、身は流謫に屈したとはいっても、悪人の企みを阻止しており、李邕は国に功績がある人物なのです。かつ李邕はすぐれた人物で、孤児や貧困者を救い、救済困難であっても与え恵んだから、家には私財がないのです。今、賄賂に連座して獄吏に下され、死は朝夕のうちにあると聞いています。臣は、生きても国に無益な者は、身を殺してこれによって賢者であることを明らかにするのにこしたことはないと聞いています。臣は願わくば六尺の身を処刑台に横たえ、李邕の死に代わりたいと思っています。臣は李邕と平生の交際はなく、臣は李邕を知っていますが、李邕は臣を知らず、臣は李邕の賢明さに及びません。賢を知って行動するのは仁です。人の患いに任せるのは義です。二つの善を得てから死んでも、臣はまた何を求めましょうか。伏して考えてみますに陛下、李邕の死をゆるし、前人の徳にしたがって行ないを改めさせるのです。李邕が荀林父・曲逆公(陳平)の功績をおこせば、臣は瞑目することができます。禽息・北郭騒の跡を継ぐのなら、大願は終わるのです。もし春が訪れようとしていて、重ねて大殺戮を行うのなら、そこで臣を殺してください。あえて役人の手を煩わせることなく、天神地祇は本当に臣の言を聞くでしょう。昔、呉楚七国が叛乱を起こすと、漢は劇孟を得て心配がなくなりました。一人の賢人が七国の軍に匹敵したのです。伏して考えてみますに、恥辱にたえる道、過去の過失を忘れるの意によって、遠くは劇孟を思い、近くは李邕を取るのです。ましてや岱宗(泰山)に告げ、天地は刷新し、赦してまた論ずるのなら、人は誰が罪なく、ただ明主がこれを図るのでしょうか。臣は、士は己を知る者のために死すと聞いていますが、臣は死ぬ者のために、彼が知るところでなくても、甘んじてここに死ぬ者です。特に李邕の賢を惜しんでいるのではなく、また陛下が才能をもつ者を憐れむ慈悲をなそうとするのです。」上疏が奏ぜられると、李邕は死を免れて遵化県の尉に貶された。孔璋は嶺南に流された。
李邕の妻の温氏は、また李邕のために辺境の防備を自腹で備えたいと願い、次のように述べた。「李邕は若い頃から文章を習い、悪を憎むことは仇敵のようで、衆を受け入れず、偽善に憤怒したので、諸儒は目を側立ててきました。頻繁に遠郡に流謫され、朝臣に任用されないことは十年にとどまりません。去った歳月を惜しみ嘆き、聞く者は心を痛めるのです。たまたま国家が泰山の事業を行ない、天子の車駕は道をゆき、李邕は牛酒を献じて、常々の恩寵を受けました。私は正しい人が用いられれば邪な人が心配すると聞いています。李邕の禍いの端緒は、つまりはここから始まったのです。また李邕が外官に任じられると、ついに邪な人は一つの心配もなくなり、天子の心をしばし振り返って、罪や咎は生まれては消えていくのです。諺に「士は賢愚に関わらず、朝廷に入ればそねまれる」と言います。これは陛下もご存知でしょう。李邕ははじめ厳しい尋問を受け、牢屋に繋がれ、水は五日以上も口にできず、息も絶え絶えで、獄吏はここから聞き出そうとします。事件は獄吏の口から生じ、李邕に罪を認めたという手書を迫るのです。人に蠶の卵を借りるとように、これによって法をまげているのです。市で朝廷の献納物をつかみとって、これを指さして賄賂であるとするのです。目安箱は朝堂にありますが、護衛が堅固に守っており、天に叫んで地に訴えても誰が聞いてくれるというのでしょか。血の涙を流して国を去り、骨を辺境に投じて、長らく帰ってくることはありません。私は願うところは李邕に一兵をあてがい、力を王事につくし、北方の辺境に油を塗り、骨や糞が砂の土壌となって、李邕の平素の心根となるでしょう。」上表は朝廷に入ったが、採用されなかった。
李邕は後に宦官の
楊思勗にしたがって嶺南の賊を討伐するのに功績があり、澧州司馬に遷った。開元二十三年(735)、起用されて括州刺史となり、害悪を除くことを喜んだ。再び讒言に連座して罪を得たが、天子が李邕の名声を知って、詔して弾劾を禁じた。後に淄州・滑州の二州の刺史を経て、京師に報告した。それより以前、李邕は早くから名声があり、義を重んじて士を愛したが、長らく排斥されて京師から出されていたから、士大夫と接することがなかった。入朝すると、人々は李邕の容貌が特に優れていたことを聞いていたから、数百数千の人が集まって見に来て、面会しようと門や町に人々が溢れた。宦官がやってきて、文章を求めたから天子に進上した。讒言のため京師に留まることができず、出されて汲郡・北海太守となった。
天宝年間(741-756)、左驍衛兵曹参軍の
柳勣に罪があって獄に下され、李邕はかつて柳勣に馬を贈ったから、そのため
吉温は李邕をひっ捕らえ、かつて善悪について互いに語り合ったことについて、密かに財物を贈ったとした。宰相の
李林甫はもとより李邕を嫌っていたから、罪を並べ立てた。刑部員外郎の祁順之・監察御史の
羅希奭に詔して北海郡にて李邕を杖殺した。年七十歳。
代宗の時代に秘書監を追贈された。
李邕の文章は、碑頌を最も得意とし、人々は金や絹を贈ってその文章を求め、文章によって得た揮毫料は巨万に及んだ。李邕は排斥されて昇進しなかったが、文名は天下に名高く、当時は「李北海」と称された。
盧蔵用はかつて「李邕は伝説の双剣の干将・莫邪のようなもので、鋭さを競って打ち合わせることは難しく、ただ傷ついたり欠けたりするのを恐れるだけだ」と言い、後に言った通りとなった。
杜甫は李邕が非業の死を遂げたのを哀しみ、「八哀詩」をつくり、読むものは悼み悲しんだ。李邕の性格は豪放で、行ないを細やかないすることができず、贈り物や謝礼を受け取り、狩猟して気まま勝手にしていたから、ついに非業の最期を迎えたのだという。
呂向は、字は子回で、その世系・本貫の記録は失われ、ある者は涇州の人であると言っていた。若くして親を失い、外祖母とともに陸渾山に隠棲した。草書・隸書をよくし、一筆で百字を連ねて書くことができ、編んだ髪の毛のようであったから、世間は「連錦書」と呼んだ。学問への志が強く、薬を買いに行くたびに市で書物を読んだから、ついに古今の書に通じることとなった。
玄宗の開元十年(722)、召されて翰林に入り、集賢院校理を兼任し、太子および諸王に侍って文章をつくった。当時、帝は毎年遣使して天下の美女を集めて、宮中の後宮に入れており、これを「花鳥使」と称していた。呂向はそこで「美人賦」を奏上して諷刺して諌め、帝はこれをよしとし左拾遺に抜擢した。天子はしばしば渭川に狩猟に出かけたが、呂向はまた詩を献上して諷刺して諌め、左補闕に昇進した。帝は自ら文章を作り、石を西岳に刻ませ、詔して呂向を鐫勒使とした。
起居舎人となって帝の東巡に従い、帝が頡利発および蕃夷の酋長を引き連れて仗内に入り、弓矢を賜って禽獣を射させようとした。呂向は上言して、「梟は変な声を出さないからといって、瑞鳥にはなりません。虎がおとなしくしていても、仁獣(麒麟)とはいいません。ましてや突厥は残忍暴虐で、君父をかえりみることはありません。陛下は突厥を武の道をもってのぞみ、文の徳をもって手なずけられた。そのため彼らは勢力を伸ばすことができず、そのため膝を屈して臣と称して懸命に使者をよこすのです。陛下は内従の官を引き連れ、封禅の盛礼にお供させていますが、矢を前に飛ばさせ、獣を獲る楽しみをともにさせようとされる。これはことを軽んじすぎるものです。あるいは荊軻のような暗殺者があやしげな振る舞いをしたり、漢の武帝を狙った馬何羅のような暗殺者がしのびよってきて、天子の列の警蹕に迫りより、襲いかかるようなことがあれば、たとえ単于を討ち取って塩辛とし、彼らのテントを蹂躙して汚したところで、誰が責任をとるのでしょうか」と述べた。帝は受け入れ、詔して蕃夷を仗内から出させた。しばらくして主客郎中に遷り、専ら皇太子に侍り、称賛や賜い物は非常に厚かった。
それより以前、呂向が生まれると、父の呂岌は遠方に出かけて戻らなかった。若くして母を喪ったから、墓の場所もわからなくなり、葬ろうとして、占い師に探させたが、父が生きているのか死んでいるのかもわからなかったから、招魂して一緒の墓に合葬した。後に伝えで父が生きていると聞いたが、長年探したがわからなかった。ある日、朝廷より戻る途中、道で一人の老人を見かけ、問いただしてみると果して父であった。馬から降りて父の足に抱きついて慟哭し、行きかう人はそのため涙を流した。帝も聞いて感嘆し、呂岌に朝散大夫の官位を授け、錦や綵を賜い、
内教坊の楽工を給付して、その心を喜ばせた。卒すると東平太守を追贈された。
呂向は、喪があけると、再び中書舎人に遷り、工部侍郎に改められた。卒すると華陰太守を追贈された。かつて
李善が『文選』の注釈をつくったが精密であるが煩わしく、
呂延済・
劉良・
張銑・李周翰らと改めて注釈をつくり、当時「五臣注」と称された。
王翰は、字は子羽で、并州晋陽の人である。若くして豪健で才能を誇示し、進士に及第したが、菖蒲酒を楽しむ日々を送った。
張嘉貞が并州長史となると、王翰を優れた人物として厚遇した。王翰は自ら歌って踊り張嘉貞に従い、神々しい気は高くあがったが平静のままであった。
張説が後任として赴任してくると、ますますあつく礼遇された。また直言極諌によって推挙され、昌楽剣の尉に任命され、また超抜群類科に推挙された。政務の輔弼について説いたから、召しだされて秘書正字となり、通事舎人・駕部員外郎に抜擢された。家では歌手や俳優を抱え、目や顎で指図し、自らを王侯のように見立てたから、人々で憎まない者はいなかった。張説が宰相を罷免されると、王翰は京師より出されて汝州長史となり、さらに仙州別駕に遷った。日々才士やごろつきと一緒に飲んだり狩猟して遊び、太鼓を打って楽しみを極め尽くしたから、連座して道州司馬に左遷されて卒した。
孫逖は、博州武水の人で、後魏の光禄大夫の孫恵蔚はその先祖である。祖父の
孫希荘は韓王府典籤となり、四世代で一子のみであったから、近い親戚がいなかった。父の
孫嘉之は、若くして親を失い、母の実家を頼り、渉州・鞏州の間を居候した。垂拱年間(685-688)初頭、洛陽に行って書を献じたが、返答はなかった。進士に及第し、襄邑県令で終わった。
孫逖は幼い頃から文章に優れ、親類は頭の回転が早いと思った。十五歳のとき、雍州長史の
崔日用に面会し、土火炉賦をつくらせると、筆をとると篇が出来、出来栄えは非凡で、崔日用は驚き、遂に互いの交流を持った。手筆俊抜科・哲人奇士科・隠淪屠釣科・文藻宏麗科に推挙された。開元十年(722)、また賢良方正科に推挙された。
玄宗は
洛城門に御して引見し、戸部郎中の
蘇晋らに命じて優れた文章によって及第させ、左拾遺に抜擢された。
張説は子の
張均・
張垍に行って拝礼させた。
李邕は才能に自信がある人であったが、陳州から京師に入って、その文章を褒めて孫逖に示した。
李暠が太原の藩鎮となると、上表して幕府に従事した。起居舎人によって京師に入って集賢院修撰となった。当時、天下は事件が少なく、帝は群臣に十日に一度宴し、宰相の
蕭嵩が百官と会して「天成」・「玄沢」・「維南有山」・「楊之華」・「三月」・「英英有蘭」・和風」・「嘉木」等の詩八篇を賦し、雅・頌の体裁で継がせたが、孫逖は見事に完成させてみせた。考功員外郎に改められ、
顔真卿・
李華・
蕭穎士・
趙驊らを採用したが、全員天下の有名の士となった。すぐに中書舎人に遷った。当時、父
孫嘉之もまた八十歳で、まだ県令であったから、孫逖は自身を外官に降格するのを求め、代わりに父の俸給を上げるよう願った。帝は嘉納し、孫嘉之を宋州司馬に任命し、致仕を聴した。父の喪があけると、また舎人に復職した。開元年間(713-741)、
蘇頲・
斉澣・
蘇晋・
賈曾・
韓休・
許景先および孫逖に詔誥を司らせ、最も文章をつくり、天子のお言葉の代わりの最上とし、そして孫逖が最も精密で、
張九齢がその草稿を見て、一字を変えようとしたたが、ついにできなかった。職につくこと八年、刑部侍郎となったが、卒中の病のため解官を願い、太子左庶子に遷り、遂に長年用いられなかったから、少詹事に遷った。上元年間(760-761)に卒し、尚書右僕射を追贈され、諡を文という。諸子では
孫成が最も名を知られた。
孫成は、字は思退で、蔭位により推薦されて出仕し、洛陽・長安の令に任命された。兄の
孫宿は華州刺史となり、卒中によって失語症となったため、孫成は行って見舞いしたいと願ったが、答えが来る前に行ってしまった。
代宗はその悌を喜んで責めることはなかった。しばらくして倉部郎中・京兆少尹に遷った。信州刺史となると、その年は大旱魃となり、倉を開いて安価で民に売り、そのため飢えても死ぬ者はいなかった。翌年には五千戸の人口が増加したから、詔書によって褒賞された。蘇州に遷り、桂管観察使に改められ、卒した。
孫成は経術に通じ、奏上しては正しくあるように議した。かつて喪中に、弔問客が来たが、孫成は縗(喪服)を着替えずに面会した。弔問客はどうしたことかと思い、その理由を教えるよう聞いた。「縗は、古では喪中の常服で、これを脱ぐことは喪があけることです。今巾幞(幅巾)にしているのは伝が失われているのです」と答えた。子の
孫公器もまた邕管経略使となった。
孫公器の子の
孫簡は、字は枢中で、元和年間(806-820)初頭、進士に及第し、鎮国・荊南の幕府の従吏に任じられた。累進して左司・吏部の二郎中に遷り、諌議大夫・知制誥より中書舎人に昇進した。それより以前、
孫逖が知制誥であり、
代宗の時代になると、
孫宿もまたその職にあったから、孫簡にいたるまで三世におよんだ。
会昌年間(841-846)初頭、尚書左丞に遷り、建言して以下のように述べた。「班位は品秩によって等差となっています。今官は台・省を兼任していますが、班位の場所が誤っており、これを定法とすべきではありません。元和元年(806)、御史台が奏上して、常参の官で大夫・中丞を兼任する者は、検校官を視て、本品同類の官の上におらせることになりました。その後侍郎で大夫を兼任する者は全員左・右丞の上におらせました。当時、侍郎が大夫を兼任する者は少なく、ただ京兆尹が兼任するだけでした。京兆尹は従三品で、今、位は本品同類の官の従三品の卿・監の上にあり、太常・宗正卿は正三品下、左丞は正四品上、戸部侍郎は正四品下です。今、戸部侍郎兼大夫は本品同類の正四品下、諸曹侍郎の上にあるべきであって、正四品の丞・郎の上にあるのはよくありません。また右丞は正四品下、吏部侍郎は正四品上ですが、今、吏部侍郎の位は右丞の下となっています。思いますに丞は督察糾明の任があって重く、吏部の品位が高いとはいえ、それでもなお下にあるので、だからこそ戸部侍郎は大夫を兼任するからといっても、どうしてその上にあることができましょうか。今、散官は将仕郎から開府・特進に至るまで、品の正・従ごとに上あり下ありで、名位・品級はそれぞれ異なり、つまり正従上下はこれを同品ということはできません。京兆府・河南府の司録および諸府・州の録事参軍事は規律・法令を操り、正諸曹は尚書省左・右丞とともに六曹の綱紀をとりしまることは大体同じであり、たとえ諸曹の掾が功労によって台省の官を加えられたとしても、どうして位が司録・録事参軍の上にあることができましょうか。かつ左丞は政権を弾劾し、省内の禁令・宗廟の祠祭の事をつかさどり、御史が担当しなくても、これを弾劾奏上することができ、本当に台官が奏上するところを、先例にあうか否かを拘泥するから、事の軽重をおしはかることはできません。道理にしたがって規律にしたがうべきで、先例がないとはいうのでしたら、自ら行うべきなのです。そうでなければ、旧い法令であっても正しく改めるべきなのです」
武宗は両省の官に詔して詳細に議論させ、すべて孫簡の奏請にしたがった。
河中・興元・宣武節度使を歴任し、検校尚書右僕射・東都留守となった。弟の
孫範もまた淄青節度使となり、代々家の名声は顕れた。
李白は字を太白といい、興聖皇帝の九代目の孫である。その先祖が、隋王朝の末ごろに罪を理由に西域に追放されたが、神龍年間(705-706)のはじめに逃げ帰ってきて、巴西に身をよせた。李白が生まれるに当たって、母親が宵の明星太白星を夢にみたので、その星の名をとって名前がつけられた。十歳で詩や書をよく理解したが、やがて大きくなると岷山にこもってしまい、州の役所が「有道(すぐれた才能をもっている人)」とし推薦したが応じなかった。
蘇頲が益州長史になったとき、李白にあってその才能がすぐれていることを見ぬき 「この人物(若もの)はずばぬけた才能の持ち主だ。もう少し学問をすれば司馬相如に匹敵するものとなろう」といった。ところが彼は、横術や撃剣のほうが好きで、侠客ぷり、気まえよく人に金品をふるまう暮らしをしていた。あちこちあるきまわったあとで更に任城に身をよせて、
孔巣父・韓準・裴政・張叔明・陶沔らと一しょに徂徠山に住み、毎日、酒びたりの生活をしていた。この六人は「竹渓の六逸」とよばれた。
天宝年間初頭(755)、南方の会稽に行き、
呉筠と親しくしていたところ、呉筠が帝に召し出され、それが機で、李白も長安にのぼった。長安で、推挙をたのみに
賀知章をたずねたところ、賀知章は彼の文章をみて、「君は天上からこの世界に流された仙人だな」と感心していった。賀知章が
玄宗に李白のことを言上したので、召し出されて
金鑾殿で拝謁し、当世の問題について意見をのべ、一篇を奏上した。帝は李白に食事をたまわり、手ずから料理をすすめられた。詔が出て翰林に供奉することになった。李白はそれでもなお、飲み仲間と、さかり場で酒に酔っていた。あるとき帝が
沈香亭に御し、得られた感興を李白に作詞させようとして召し出されたところ、彼はすっかり酔っていた。左右のものが顔に水をぶっかけると、少し酔いがさめ、筆をとりあげ、たちまち文を作りあげた。その作品は美しく曲折変化にとみ、すらすらとできていて、しかも考えて渋滞することはなかった。帝は彼のそうした才能を愛し、よくひまな時に目通りを許して召し出した。李白がかつて帝のお傍にいたとき、酔っぱらって
高力士に長靴をぬがさせたことがあった。高力士はもともと高官であったから侮辱されたと思いこみ、李白の詩を悪意を含むものとしてぬき出して中傷し
楊貴妃を怒らせた。そのため、帝が李白を官位につけようとするとそのたびにいつも妃が邪魔をしてやめさせた。李白は、帝の側近のおぼえがよくないことに気がつくと、いよいよおごり気ままにふるまい、行いをつつしまなかった。賀知章・
李適之・汝陽王
李璡・
崔宗之・
蘇晋・
張旭・
焦遂ととも酒中の仙人といわれた。山にかえりたいと熱心にお願いしたところ、帝は黄金をたまわって自由にかえることを許された。李白は、四方ところ定めず旅をしてくらした。あるとき、旅をして崔宗之といっしょに采石から金陵まで行ったことがあるが、宮中で着る錦の上衣をきて舟に坐を占め、傍若無人にふるまった。
安禄山が叛旗をひるがえした。李白は宿松(安徽省の県)と匡廬(江西省の廬山)の間を往ったり来たりしていた永王
李璘が召し出して幕僚にとりたてたが、永王李璘が兵を起こすと彭沢に逃げかえった。李璘は失脚し、李白の罪は死刑に該当した。ずっと以前のことだが、李白が并州に旅していたころ、
郭子儀と知り合い、その人柄を買っていたので、郭子儀があるとき法にふれて罪をこうむったのを救ってやったことがあった。この事態を知った郭子儀は、自分の官位を返上するから李白の罪を許してほしいと願い出た。詔が出て、夜郎に追放されることになったが、恩赦にあって潯陽にかえった。そこである事件に連坐して獄に囚われていたが、ちょうど
宋若思が呉の兵三千をひきつれ河南に行く途中、潯陽を通り、囚われている李白を自由の身にして参謀に召しかかえたが、李白は間もなく辞職した。
李陽冰が当塗の県令であったので、李白はこの人に身をよせた。
代宗が即位し、左拾遺の官につけようと召し出したが、李白はすでに世を去っていた。六十歳余であった。
李白は晩年道教を好んだ。牛渚磯をわたり姑孰に行き、謝家の青山が気にいったのそこで余生を終わりたいとのぞんでいた。亡くなったときは山の東麓に葬られた。元和年間(806-820)の末に、宣歙観察使の
范伝正が、彼の墓を祭り、墓地でのたきぎ拾いを禁じた。子孫をたずねたところ、二人の孫娘が残っているだけであった。二人は農夫と結婚していたが、そのたちいふるまいには、さすがに血筋のよさからくるゆかしい風格があった。范伝正の来意を知ると、涙ながらに「なくなった祖父は青山に葬られることをのぞんでおりました。ちかごろ東麓に葬ってございますが、それは本意ではないのです」と訴えた。范伝正は願いをいれて墓を改葬し、二つの碑を立ててやった。二人の孫娘に、あらためて士族のものと結婚しなおしてはどうかとすすめたが、身よりもなく貧しくこのように落ちぶれましたのも天の命ですからと辞退し、嫁入りしなおすことをのぞまなかった。范伝正はその心がけをたたえて、彼女たちの夫の徭役を免除した。
文宗の時代に、李白の歌詩、
裴旻の剣舞、
張旭の草書を三絶とするという詔が出された。
張旭は、蘇州呉の人である。酒をたしなみ、泥酔するたびに叫んでは狂ったように走り、そこで筆をもって、あるときは頭を墨で濡らして書き、酔いがさめてから自分自身の書をみると、素晴らしいと思ったが、再び同じようにはできなかった。そのため世間は「張顛(頭のおかしい張さん)」と呼んだ。
それより以前、仕えて常孰県尉となった。ある老人がいて牒を持って判を求めてきたが、以前に来ていたのにまたやって来たから、張旭はその煩わしさに怒って責めた。老人は、「あなたの筆の奇妙さを見て、家宝にしたいと思っただけです」といい、そこで張旭は所蔵しているものを聞いてみると、老人はその父の書をすべて出してきた。張旭はこれを見て、天下の奇筆であると思い、これよりその書法をつくした。張旭は自ら、「始めは公主が担夫と道を争っているのを見て、または鼓吹(軍楽)を聞いて、筆法を得たのだ。意は俳優の公孫が剣舞を舞っているのを見て、その神を得たのだ」と言った。後世の人が書法を論じて、
欧陽詢・
虞世南・
褚遂良・
陸柬之は皆異論があったが、張旭にいたっては、過失があるというものはいなかった。その法を伝えるのは、ただ
崔邈・
顔真卿がいるのみという。
裴旻は、かつて幽州都督の
孫佺とともに北伐し、奚のために包囲されたが、裴旻は馬上に立って刀を振り回し、周囲から飛んでくる矢を、すべて刀で叩き落し、奚は大いに驚いて引き上げた。後に龍華軍使となって北平を守った。北平は虎が多く、裴旻は弓をよくしたから、一日に虎三十一頭を射て、山の麓で休んだ。老父が、「これは彪です。しばらく北に行くと本当の虎がいます。将軍がこれに遭遇すれば負けてしまいます」と言った。裴旻は信じず、馬を怒らせて走った。すると芒の草むらの中から虎が出てきて、小さいながらも猛々しく、地によって大いに吠えると、裴旻の馬は後退りし、弓矢はすべて落ちてしまい、これより二度と射れなかった。
王維は、字は摩詰である。九歳のときにすでに文をよくし、弟の
王縉と名声を等しくし、兄弟仲がよかった。開元年間(713-741)初頭、進士に及第し、太楽丞に任命されたが、連座して済州司倉参軍に左遷された。
張九齢が宰相となると、右拾遺に抜擢された。監察御史を歴任した。母の喪に服し、枯れ木にようにやせて骨と皮になるまで悲しんだ。服があけると、給事中に任命された。
安禄山が反乱をおこすと、
玄宗は西に逃れ、王維は賊軍の捕虜となり、薬を服用して腹を下し、表向きは詐病した。安禄山は昔から王維の才能を知っていたから、迎えて洛陽に留め、脅迫して自身の給事中とした。安禄山が
凝碧池で大宴を開くと、ことごとく梨園の諸工を集めて合奏させ、諸工は皆泣き、王維は聞いて悲しみにたえず、詩を賦して悼んだ。賊が平定されると、全員獄に下された。ある者が王維の詩を行在(
粛宗)に教え、また当時弟の
王縉が顕官にあったから、官職を返上して兄王維の罪を許されるよう願ったから、粛宗もまた憐れみ、格下げにして太子中允に遷らせただけであった。しばらくして中庶子に遷り、三度尚書右丞となった。
王縉が蜀州刺史となってまだ長安に戻る前に、王維は自ら上表して、「私には五つの短所があり、王縉には五つの長所があります。臣は宮中の門前におりますが、王縉は遠方にあって、戻って任官されること願っています。臣を田里に放ち、王縉を京師に帰らせてください」と述べた。議する者はこれを罪としなかった。しばらくして王縉を召還して左散騎常侍とした。上元年間(760-761)初頭に卒した。年六十一歳。病が重くなると、王縉は鳳翔にいたから、書をつくって遺書とし、また親しい者に書数幅を残し、筆を置くと息を引き取った。秘書監を贈位された。
王維は草書・隸書を巧みにし、絵をよくし、名声は開元・天宝年間(713-756)に盛んであり、親王や貴族らはうやうやしく席を清めて迎え、寧王
李憲・薛王
李業といった諸王は師や友であるかのように待遇した。絵は神品の腕前で、山水や平遠な地、雲の勢いや石の色、天才的発送であり、絵を学ぶ者では真似することができないものであった。客が楽の図を持って見せてきたが題や識語がなかった、王維はおもむろに「これは「霓裳羽衣」の第三畳の最初の拍だ」と言い、客はわからなかったが、楽工を招いて曲を退かせると、そこでようやく信じた。
兄弟は皆篤志家で仏教を信奉し、臭い野菜を食べず、衣は色模様があるのを着なかった。別荘は輞川にあり、地は奇勝で、華子岡・欹湖・竹里館・柳浪・茱萸沜・辛夷塢があり、裴迪とその中で遊び、詩を賦して互いに詠みあい音楽を演奏した。妻の喪にあったが再婚せず、独り身を三十年貫いた。母が死ぬと、上表して輞川の邸宅を寺とし、死ぬとその西に葬られた。
宝応年間(762-763)、
代宗が
王縉に「朕はかつて諸王の席に連なって王維の作詞の歌を聞いたものだ。今どれくらい伝わっているか」と言うと、宦官の王承華に取りに行かせ、王縉が数百篇を収集して献上した。
鄭虔は、鄭州滎陽の人である。天宝年間(741-756)初頭、協律郎となり、当時の出来事をまとめ上げ、八十篇あまりの著書を書いた。その草稿をみた者が、鄭虔を告発して国史を私撰していると上書したから、鄭虔はあわてて焼却したが、罪とされて十年間流謫された。京師に戻ると、
玄宗はその才能を愛し、左右に置こうとしたが、官職についていなかったから、更に
広文館を設置して、鄭虔を博士とした。鄭虔は命令を聞いて、
広文館の役所がどこにあるのかわからず、宰相に訴えた。宰相は「お上は国学に増設して、
広文館を置かれ、賢者をおらしめられた。後世の人をして
広文館博士は君より始まったと言わしめるのだ。なんと素晴らしいことではないか」と言ったから、鄭虔はそこで職についた。しばらくして雨が建物を破壊し、役人は修理を完了させなかったから、国子館に間借りしたが、これより遂に廃された。
それより以前、鄭虔は古書に補筆して著作したのは四十篇あまりになり、国子司業の
蘇源明はその書を『会稡』と名付けた。山水を描くのを得意とし、書を好んだが、常に紙が無いのに悩まされたから、
慈恩寺に柿の葉を数舎貯蔵し、遂に往年葉を取り出して書を練習し、長年にして上達した。かつて自らその詩を写して画を添えて献上すると、帝はその末尾に大書して「鄭虔三絶」と書いた。著作郎に遷った。
安禄山が叛乱をおこすと、
張通儒を派遣して百官を捕らえて東都(洛陽)に勾留し、鄭虔に偽の水部郎中を授けたが、中風に罹ったと自称して、市令に任命するよう求め、密かに霊武の
粛宗のもとに密書を送った。賊が平定されると、
張通・
王維とともに
宣陽里に捕らえられた。三人は全員絵をよくし、
崔円は壁画を描かせ、鄭虔らは死を恐れ、そこで思いをつくして崔円に釈放してくれるよう祈り、ついに死を免れ、台州司戸参軍事に貶され、王維は追放を免れた。数年後に卒した。
鄭虔は地理も学んで、山川の険しいところやなだらかなところ、方々の物産、兵力の多少など詳しくないものはなかった。かつて『天宝軍防録』を著し、述べるところは詳細であった。学者たちはその著作をよくすることから敬服し、当時の人は「鄭広文」と号した。在官中はかなり貧乏であったが、静かで落ち着いていた。
杜甫はかつて詩を贈って「才名四十年、坐客 寒きに氈無し(四十年もの名声を保ちながら来客に座布団さえ出せない)」と述べた。
鄭相如なる者がおり、滄州からやってきて、鄭虔に師事しようとしたが、鄭虔はまだ挨拶もしないうちに、それまで何をしていたのか尋ねると、
鄭相如は、「孔子が「周のあとがあったとて、百代までも知れている」と言ったと聞いています。私もまた知ることができます」と言ったから、鄭虔は驚いて、「開元は三十年を期に改元したが、十五年を期に天下が乱れて、賊臣が皇帝位を僭称しているが、君は自らの身が偽官に汚されようとしたとき、ならないですむことができるのか」と言い、鄭虔はさらに「どうするか言ってみろ」と言うと、「この相如は官にあること三年、衢州で死にます」と言った。この年進士に及第し、信安県の尉に任命された。三年後、鄭虔は吏部に問い質してみると、
鄭相如は果たして死んでおり、そのため鄭虔はその発言を思い出し、ついに賊に仕えなかった。
蕭穎士、字は茂挺。梁鄱陽王恢(梁の武帝の弟)の七世の孫である。祖父の蕭晶は賢く、智謀にだけていた。
任雅相が高麗に遠征した際、上表して彼を書記官とした。越王
李貞が挙兵した時、杖ついて出かけて行き、三つの策を申し述べたが、王は用いなかった。蕭晶は、彼は必ず敗れるだろうと考え、そのもとを去った。後に広陵で客死した。
蕭穎士は四歳で文を作り、十歳で太学生に任ぜられた。書を一覧しさえすれば暗記することができた。百家の系譜と籀書(装飾的字形)の学に通した。開元二十三年(735)、進士に合格し、対策試験成績第一であった。彼の父の蕭旻が莒の丞であった時、罪によって罰せられようとした。
蕭穎士は出かけていって府佐の
張惟一に訴えた。
張惟一は、「旻はいい息子をもったものじゃ、わしは旻のためにとがめを受けても恨まない。」そういって彼をゆるした。
天宝年間(742-755)初頭、
蕭穎士は秘書正字に任ぜられた。時に、
裴耀卿・
席豫・
張均・
宋遥・
韋述は皆彼の先輩であったが、彼の才能を認めて対等なつきあいをした。このことによって彼の名は天下に広まった。使命を奉じてうずもれている書物を趙・衛のあたりに探し求め、久しく滞在していて復命しなかったら、役人に弾劾・免職された。濮陽に逗留していた。ここで
尹徴・王恒・盧異・
盧士式・賈邕・
趙匡・
閻士和・
柳并などが、皆弟子の礼をとり、順次学業を授けられ、蕭夫子と称した。召されて集賢校理になった。宰相の
李林甫が彼に会いたく思ったが、蕭穎士はちょうど父が死んだばかりで、行かなかった。
李林甫はある時蕭穎士の友人の家に赴いて蕭穎士を迎えたが、蕭穎士は出かけていって、門内で声をあげて泣いて待っていた。
李林甫は已むを得ず出てきて弔辞を述べ、そこで蕭穎士は立ち去った。
李林甫は彼が己れに下らないのを怒った。広陵参軍事に格下げされたが、蕭穎士は気短でそれががまんならなかった。「桜桃の樹を伐るの賦」を作っていうには、「役にも立たぬ材であるのに抜擢され、幹と枝との関係にあることのおかげを蒙っている。先ずおたまやに薦めるものとは申せ、あつものを味つけする塩加減ではない」と。こういって
李林甫を謗ったという。しかしながら時の君子たちは、彼の狭量を残念がった。たまたま母が亡くなり、広陵参軍事を免ぜられ、呉・越の間を放浪した。
ある時、こういうことを考えた。「孔子は春秋を作り、それは後世の多くの王たちのための不変な法となった。司馬遷は本紀・書・表・世家・列伝を作ったが、書き方がどっちつかずで正当な評価の下し方を間違え、模範とするに価しない」と。そこで漢の元年から隋の義寧年間(617-618)まで、春秋の書き方にならって伝記百篇を作った。魏では、高貴郷公の崩御の事件を、「司馬昭が帝を南闕で殺した」と書き、梁では、陳が梁から帝位を引き継いだことを、「陳覇先が反乱した」と書いた。また自分が梁の末裔なものだから、「梁の宣帝は正道に逆らって天下を取ったが、正道に順ってこれを守った。だから武帝のお祭は三紀(42年)も続いた。昔、曲沃で文公が晋を簒奪し、後に文公が五覇の一人となったが、孔子は隠しめなかった」と書いた。そこで陳をしりぞけ隋を閏位(正統でない天子の位)であるとし、唐の土徳が直接に梁の火徳をうけ継いだのだとなし、皆自分で断を下し、諸儒とは議論しようとしなかった。太原の
王緒という者がおり、王僧弁の末裔であったが、『永寧公輔梁書』を作り、陳をしりぞけて帝とは認めなかった。
蕭穎士は彼の説を援護して、彼もまた『梁蕭史譜』および『梁不禅陳論』(梁は陳に帝位を譲っていないという説)を著し、そのことで王緒の著書の書き方を人に解るようにはっきりさせたという。
史官の
韋述が、自分の後任としてその職に就くよう蕭穎士を推薦した。蕭穎士は召されて史館にやってきて待制となった。蕭穎士は宿つぎの馬に乗って京師にやってきた。ところでは
李林甫はその頃威光をかさにきてほしいままにふるまっていたが、蕭穎士はそれでも屈服せず、ますます憎まれた。まもなく官を免ぜられ、鄠・杜の間を往き来した。李林甫が死ぬと、あらためて河南府参軍事に任ぜられた。倭国が使を入朝させてきて、その使は、「国人は蕭夫子を先生として迎えたいと願っています」と述べたが、中書舎人の
張漸らが諌めて沙汰止みとなった。
安禄山が寵愛をたのみに、ほしいままにしていた。蕭穎士はひそかに
柳并に、「胡人(安禄山)が寵をたのんで騙っている。乱が起こるのは目に見えている。東京(洛陽)がまっ先に陥落するだろう」と話したが、病気を口実にして太室山に遊んだ。安禄山の乱が起こってから、蕭穎士は河南使採訪の
郭納に会いに行き、防御の計を開陳したが、郭納はいい加減にあしらって用いなかった。蕭穎士は、「肉食者が子どもの遊びのまねではげしい賊を禦ごうとしているが、うまくいくまい」と嘆いた。
封常清が東京で布陣していると聞き、行ってみたが、泊らないで帰ってきて、蔵書を箕山・穎水の間に隠し、わが身は山南道に避難した。山南節度(副)使の
源洧が彼を書記に招いた。賊の別隊が南陽を攻め、源洧は恐れ、退却して江陵を守ろうとした。蕭穎士は、「官軍が潼関を守り、兵糧を急ぎ必要としています。江・淮の地からの兵糧の転送があってやっと足りるのです。それを運ぶには漢江・沔水を経由するとすれば、襄陽こそは天下ののどもとです。ある日突然陥落するようになったら、すべてはだめになってしまう。その上この山南道には数十もの郡があり、百万の人がいる。兵を訓練し、反乱軍を追いはらったなら、国家に対する大きな功績です。賊は今、崤山・陝県を専らに攻めています。あなたはどうしても急にこの土地を軽々しく人でに渡して天下の物笑いになろうとするのですか」と説得した。そこで源洧は兵をとどめて出なかった。たまたま
安禄山が死には囲みを解いて去った。源洧が死に、金陵に行って客となった。永王
李璘が招こうとしたが、行かなかった。
このとき盛王
李琦が淮南節度大使となったが、
玄宗は彼を蜀に留めて派遣せず、副大使の李承式が淮南で兵をもてあそんでいてその形勢は振るわなかった。蕭穎士は宰相の
崔円に手紙を送り、「今、兵糧の拠り所は東南にあります。ただ楚や越の地方は、重なり川が入りくみ、昔から中原が乱れれば盗賊がまっ先にこの地方に蜂起しています。こんな時こそ盛王を派遣して江准を防衛すべきです」と書いた。まもなく
劉展がその言の如く反乱を起こした。賊は雍丘を囲んで泗水のほとりの軍を脅した。李承式は兵を遣わして救援させたが、大いに賓客をもてなす宴を張って歌妓をその席に並べたてた。
蕭穎士は、「天子が雨ざらしになっているというのに、今は臣下が歓びを尽くしている時でしょうか。そもそも兵を不測の地に投じておきながら、華やかなところを見せたり聞かせたりでは、もし兵士たちが一旦帰りたいと思って逃げようとした場合、誰が命を投げ出して戦ったりするものですか」と諌めたが、聞き入れなかった。崔円がこのこと聞き、即座に揚州功曹参軍を授けたが、赴任して二晩泊まっただけで去り、その後汝南の旅館で客死した。五十二歳であった。門人たちがその諡を文元先生とさだめた。
蕭穎士は他人の美点を認めるのが好きで、後輩を引き立てるのを自分の任務としていた。李陽・
李幼卿・
皇甫冉・陸渭ら数十人が、彼の引き立てで皆名士となった。天下は、彼には人を知る明があるとして推賞し、「蕭功曹」と称した。かつて
元徳秀に兄事し、
殷寅・
顔真卿・
柳芳・
陸拠・
李華・
邵軫・
趙驊を友とした。当時の人は、「殷・顔・柳・陸・李・蕭・邵・趙」と、いつもこの八人を続けて一組に呼んだが、それは彼らが最後までつき合いを絶やさなかったからである。交際した者は、
孔至・
賈至・源行恭・張有略・族弟の
張季遐・
劉穎・韓拯・陳晋・孫益・韋建・
韋収であり、彼らのうちで一人李華だけが彼と名声を等しくした。世間では「蕭李」と併称した。ある時、李華・陸拠と洛陽の龍門に遊び、路傍の石碑の文を読み、蕭穎士は一度で暗記してしまったが、李華は再読、陸拠は三読してやっと全部暗記することができた。このことを聞いた者は、三人の才の高さもこの通りだと考えたことである。一人の下男が蕭穎士に十年間も仕えていたが、蕭穎士は彼を何かと言えば厳しくむち打った。ある人がその下男にそんな辛いところからは去るよう勤めたが、彼は「去ろうと思えばできないことはないのですが、ご主人さまの方が気に入っていますから」と答えたという。蕭穎士はしばしば「班彪・皇甫謐・張華・劉琨・潘尼は、古えにのっとることができたが、世の中にうずもれてしまって知られなかった。しかし実力は曹植や陸機も及ぶ所ではないのである」と称えたものだ。また「裴子野は著述にすぐれている。当世で認めるのは、
陳子昂・
富嘉謨・
盧蔵用の文章と、董南事・
孔述睿の博学だけだ」とも言っていた。
子の
蕭存は、字は伯誠で、誠実な性格は父を受け継いだ。文辞をよくし、
韓会・
沈既済・
梁粛・
徐岱らと親しかった。浙西観察使の
李栖筠は上表して常熟県の主簿とした。
顔真卿が湖州にいたとき、蕭存と
陸鴻漸らと古今の韻字の起源を考察して、書数百篇をつくった。建中年間(780-783)初頭、殿中侍御史から四度役職が代わって比部郎中となった。
張滂は財務を掌握していたが、蕭存をしりぞけ、京師に留めて業務を行わせた。
裴延齢と張滂は仲が悪く、蕭存はその邪なことをにくみ、官を去ったが、中風のため卒した。
韓愈は若いころから蕭存のおかげで世間に知られるようになっていたから、袁州より帰ると、蕭存の廬山の住んでいた家に行ったが、諸子はそれより前に死んでおり、ただ一女だけがいるだけであったから、通り過ぎるたびにその家をみるようになった。
陸拠は、河南の人で、字は徳鄰、後周(北周)の上庸公の陸騰の六世の孫である。心が広くて聡明で、よく物事を理解した。三十歳のとき始めて京師にいたり、公卿たちはその文章を愛し、交際するのを名誉とした。天宝十三載(754)、司勲員外郎まで昇進して終わった。
柳并は、字は伯存。大暦年間(766-779)、河東府に招かれ書記となり、殿中侍御史に転任した。喪が明けると家で没した。それより以前、柳并と
劉太真・
尹徴・
閻士和は
蕭穎士に学んでいたが、柳并は黄老の思想を好んでいた。
蕭穎士はいつも、「太真は私の入室の弟子であるが、その文は失墜することはなく、将来この子に頼ることになるだろう。尹徴は博覧強記で、
閻士和は深謀遠慮であることは、私もすでに彼らに及ばない。楊并は受命せずに黄老を尊んでいるから、私もまたどうして誅殺されるような不幸がおきようか」と言った。
柳并の弟の
柳談は、字は中庸で、
蕭穎士はその才能を愛し、娘を妻として娶らせた。
閻士和は、字は伯均で、『蘭陵先生誄』・『蕭夫子集論』を著し、そのため歴世の文章を独占して、さかんに
蕭穎士の素晴らしいところを推した。そのため、「蕭氏の風を聞く者は、五尺の童子でも恥じて曹植・陸機を称えた」とされた。
皇甫冉は、字は茂政で、十歳でよく文章をつくり、
張九齢は異彩ぶりに感嘆した。弟の
皇甫曾とともにみな詩をよくした。天宝年間(742-756)、相次いで進士に及第し、無錫県の尉となった。
王縉が河南元帥となると上表して書記に任命された。累進して右補闕となり、卒した。
皇甫曾は、字は孝常で、監察御史を歴任した。その名声は兄の
皇甫冉と拮抗し、当時は張氏の景陽(張協)・孟陽(張載)兄弟に比せられたという。
蘇源明は、京兆武功の人で、初名を預といい、字は弱夫である。若くして父を失い、徐州・兗州の間をさすらった。文章に巧みで、天宝年間(742-756)には有名となった。進士に及第し、さらに
集賢院を試験した。累進して太子諭徳となった。京師より地方官に出されて東平太守となった。当時、済陽郡太守の李倰が、済陽郡が黄河にせまっているから、宿城県・中都県の二県を増領して民力を緩めることを願った。二県は東平郡・魯郡に属していた。ここに蘇源明は済陽郡の廃止を建議し、五県を割いて済南郡・東平郡・濮陽郡に隷属させることを願った。河南採訪使に詔して濮陽太守の崔季重・魯郡太守の李蘭・済南太守の
田琦および
蘇源明と李倰の五太守を集めて東平郡で議論させたが、決めることができなかった。済陽郡が廃止となると、従属の県をすべて東平郡に属させた。
蘇源明を召還して国子司業に任じた。
安禄山が京師を陥落させると、蘇源明は病と称して偽官の任命を受けなかった。
粛宗が長安・洛陽の両京を回復すると、考功郎中、知制誥に抜擢された。当時、戦乱の余燼をうけ、国庫は乏しく、宰相の
王璵は祈祷・お祓いするよう上進した。禁中で祈祷すること日夜に及び、宦官が事にあたり、給付が繁多かつ冗長となっていたが、群臣はあえて諌める者はいなかった。昭応県の県令の梁鎮が上書して帝に淫祀を罷めるよう勧めたが、その他の者はしようとする余裕がなかった。蘇源明はしばしば政治の得失を述べた。
史思明が洛陽を陥落させると、詔して東京(洛陽)に行幸して親征しようとしていた。蘇源明はそこで上疏して強く諌めて次のように述べた。「長雨が続いて道路が泥濘んでいるので、不可の第一の理由です。春から大旱魃となり、秋の苗は半減し、収穫がまだおわっていないのに、その前に道を清める戦役を行っており、これを繰り返せば兵糧供給が困難となりますので、不可の第二の理由です。宮殿・廊下を建造するたびに旗の下を視てみると、飢えた男が鉾を持って、その間に斃れ死んでいるのを一日に二・三人見かけます。市井では飢えた者が食を求め、道端で死んでいるのを一日に四・五人見かけます。不可の第三の理由です。悪者や泥棒小僧が軒を連ねて、研鑽して陛下のお出ましを待っており、御史大夫は必ず混乱を鎮めることができません。不可の第四の理由です。聖皇(
玄宗)が長安を脱出して蜀を巡行された時、都内の財貨・吏民の資産は道路でなくなり、馬だの驢馬だのに乗って
宣政殿や
紫宸殿に乗り入れる者がいる有様です。ましてや陛下は天下を治めていますが、威制は往時には遠く及びません。今ここで東行すれば、賊臣が陛下を誘い出すだけになります。詩に「三星は天の一隅にあり」とありますが、危亡はわずかな間にありというべきであって、臣は嗚咽にたえず、陛下のためにこれを悲しむのです。願わくば速やかに行幸を罷められ、そうでなければ、貧しい農夫は禍いを楽しみ、すでに腕の下をしばっています。これが不可の第五です。昨今、河・洛間の駅路が騒動となり、江湖は凶徒が跋扈しています。詩に「中原に菽(まめ)あれば、庶民これを采る」とありますが、彼の
史思明・
康楚元は皆菽をとる人なのです。陛下はどうして突然万乗もの大軍を軽々しく動かして急いで事をなそうとするのでしょうか。不可の第六です。大河は南北に縦断し、あちこちで盗賊が出て王公以下は糧食の給付が途絶え、将兵に与える糧食はわずかに日々の食を支えるだけとなっているのに、宦官に与える食は余分なままで往年から減っておらず、梨園の雑伎たちは、今日いよいよ盛んであるのに、陛下は未だに穏やかに枕を高くして眠ることができず、何と危ういことでしょうか。中書省が使者をして派遣させたり、太常寺が正楽でつかうのでなければ、他は願わくば全員を放ち帰らせ、長期証明書を給付して仕えさせず、五・六年の後を待って、職掌を省きます。集めて別人に給付するのは、不可の第七です。
李光弼は河陽を陥落させ、
王思礼は晋原を下し、
衛伯玉は焉耆(カラシャール)を追い払い、析支を通り過ぎ、日も立たないうちに到達するでしょう。御史大夫の
王玄志は巫閭を圧迫し、幽州に迫っています。汝州刺史の田南金は闕口を越えて、嵩山の太室山・少室山の二山を遮っています。
鄧景山は淮河・泗川を凌ぎ、ため息をして西に向かいました。狂賊は勢力を弱め、緱山の麓で息を潜め、北はあえて孟津をこえず、東はあえて甖子を通過せず、日を数えて自ら手を後ろに縛って降伏してくるでしょう。陛下は座せずにこれを受けていますが、そこで親征しようとするのは、一時の怒りにしたがっているだけなので、不可の第八です。王者の天地神祇においては、これを祀って犠牲や捧げ物をするだけです。記に「方士に祈らず」とありますが、彼の淫祀の祭司どもはみだりに人に代わって説をのべており、不可の第九です。天子は物事の規律にしたがって動き、人は皆これを幸せと思えば幸せと言い、人は皆これを病と思えばこれを不幸と言います。臣らはしばしば見聞きに違えば、連なって朱塗りの階の下に伏せ、拝礼・流涕して出て、陛下が寛容で死を聴されたとしても、だいたい百人の臣下が必ず朝廷で発言を明らかにしても、万人の口が外で誹謗しているので、不可の第十です。臣はこのように聞いています。子が父と諍いしなければ不孝である。臣が君と諍いしなければ、不忠である。不孝不忠は、栄禄を受ける身であったとしても、囲われた家畜には及ばないのです。臣は賎しい身ではありますが、身を家畜のように囲われることはできません。樵夫に指を差されて笑われるでしょう」 帝はその切実な直諌を喜び、ついに東幸を罷めた。後に秘書少監の官で卒した。
梁粛は、字は敬之で、またの字を寛中といい、隋の刑部尚書の梁毘の五世の孫であり、代々陸渾に住んだ。建中年間(780-783)初頭、文辞清麗科に合格し、太子校書郎に抜擢された。梁粛は再びその人材を推薦され、右拾遺、修史に任命されたが、母が老いて衰えたから赴任しなかった。
杜佑が淮南掌書記に任命されると、召還されて監察御史となり、右補闕・翰林学士・皇太子諸王侍読に転じた。卒した時、年四十一歳で、礼部郎中を追贈された。
最終更新:2024年08月16日 16:54