牛僧孺
779-847
唐朝の宰相(在任823-825、830-832)、牛季の党争の代表者。安定(甘粛省涇川県)の人。字は思黯。隋の宰相牛弘の子孫。はじめ進士に及第して伊闕(洛陽の南)の尉となり、809(元和4)年同門の
李宗閔らと制挙に応じて1等となったが、そのとき彼らは、当時の為政者を激しく攻撃して問題となり、宰相
李吉甫に憎まれて、久しく官位を与えられなかった。それが原因で李吉甫の子
李徳裕も牛僧孺・李宗閔と反目し、穆宗のはじめ翰林学士となったとき、李宗閔を地方に追いやって、823(長慶3)年、牛僧孺が諸官を歴任して宰相になると、今度は李徳裕を追い出したから、これより両派は党を組んで争い、これに関係した官僚は1/3におよんだという。これよりさき貴族政治が衰えて選挙(とくに進士科)による官僚が進出したが、牛党にはこれら新官僚が加担し、李党は山東貴族を中心とするといわれ、いずれも天子の側近の宦官と結託して政権を掌握した。敬宗朝には、牛僧孺もやめて武昌節度使となり、
裴度が宰相となったが、文宗の初めには裴度の推薦で李徳裕が宰相となるところを、宦官の援助を得た李宗閔に妨げられ、牛僧孺が引かれて宰相となった。李徳裕が西川節度使のとき、吐蕃の降将をうけいれようとしたが、牛僧孺は反対してこれを吐蕃に引き渡したかち、両者の反目はますます深まった。しかしこれが原因で牛僧孺は淮南節度使になり、ついで、東都留守に移り、洛陽に邸宅をかまえて
白居易らと交遊した。ついで左僕射、山南東道節度使をへたが、武宗即位とともに李徳裕の全盛時代となり、兵権を解かれて太子少保になり、はては循州(広東省恵陽県北東)長史に左遷された。宣宗の初め衡(湖南省衡陽県)・汝(河南省臨汝県)2州を歴任後、都に帰り、太子少師となって没した。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
参考文献
『アジア歴史事典』2(平凡社,1959)
外部リンク
最終更新:2024年03月19日 01:26