李宗閔 りそうびん
?-846
中唐の宰相(在任829-834、835-836)。字は損之。宗室鄭王
李元懿4世の孫。その世系は
高祖→李元懿→
李璥→
李察言→
李䎖→李宗閔となる。父の李䎖は華州刺史鎮国軍潼関防禦等使。805(貞元21)年の進士。のち賢良方正にあげられたが、その対策が時政の非難をうけたため、宰相
李吉甫に忌まれ、不遇ののち監察御史となり、種々歴任して中書舎人にすすんだ。しかし、貢挙に連座して李吉甫の子
李徳裕のため剣州刺史に左遷された。こうして両李あるいは牛李の朋党の争がほぼ40年展開され、文宗をして河北の賊を去らせるより、この朋党をなくすことがむずかしいと嘆かせた。まもなく中書舎人に復し、兵部吏部の両侍郎をへて、829(太和3)年同中書門下平章事となり、
牛僧孺をひいて李徳裕の党を放逐した。李徳裕が入朝して山南西道の藩帥に出たが、
李訓らとむすんでふたたびこれを追い宰相となり、襄武県侯に封じられた。835年文宗の怒りをかい、潮州司戸参軍におとされ、のち太子賓客分司東都となったが、
劉稹の反に関連して封州に配流され、宣宗の郴州司馬への遷移の命もむなしく配所で没した。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
外部リンク
最終更新:2024年10月19日 22:20