陽城
736-805
中唐の官人。字は亢宗。陝州夏県の人。学問を好んだが、貧しいため書物を得られず、下級役人となって
集賢院の雑務を行ない、密かに集賢院の書物を読んで進士に及第するという苦学の人であった。中条山に弟とともに隠遁したが、徳行によって知られ、宰相
李泌の推薦で右諌議大夫に任じられた。隠遁中の評判のため、朝廷では諌官としての職務ぶりを恐れられていたが、就任すると酒浸りとなって何もせず、
韓愈に非難された。
裴延齢が
陸贄らを追放すると、徳宗に激しく諌めて、裴延齢の宰相就任を阻止した。貞元十五年(799)門人に連座して道州刺史に左遷された。道州では毎年侏儒(こびと)を「矮奴」として朝廷に貢納していたが、上書してこれを廃止させ、また賦税が規定通りに集まらず、観察使から督促されると、自身を獄に入れて賦税の酷を阻止した。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
外部リンク
最終更新:2023年12月03日 13:58