巻一百九十四 列伝第一百一十九

唐書巻一百九十四

列伝第一百一十九

卓行

元徳秀 李萼 権皐 甄済 陽城 何蕃 司空図


  元徳秀は、字は紫芝で、河南府河南県の人である。実直で自らを飾ることは少なかった。少なくして父を失い、母に仕えて孝行物であった。進士に挙げられたが、母のもとを去るのに忍びず、自ら母を背負って京師に入った。進士に及第したが、母が亡くなり、墓の傍らに家を構え、食べ物には塩や酪を用いず、敷物に茵席(ベットマット)がなかった。服喪があけると、窮乏のため南和県の尉に任命され、善政を行った。黜陟使が上奏し、龍武軍録事参軍に補任された。

  元徳秀は親が生存中は夫人を娶らず、結婚することをよしとしなかったから、ある人が後嗣を絶やすべきではないというと、「兄に子があるから、先祖のお祀りはおろそかにすることはない。私が娶ってどうするというのか」と答えた。それより以前、兄の子が乳児のうちに親を喪い、乳母を雇う金がなく、元徳秀が自ら乳を与えてみると、数日して乳が流れ、離乳して食べられるようになると止まった。大きくなると結婚させようとしたが、家が貧困のため、そこで求めて魯山県の県令となった。以前に車から墜ちて足を負傷し、拝礼できなかったが、太守の方が待っていて客礼をしてくれた。盗みを働いた者が獄に繋がれたが、ちょうどその時虎が暴れており、盗みを働いた者が虎と戦って罪を贖いたいと願い出て、これを許した。吏が「奴は欺いて逃亡する気です。いなくなったらどう責任をとられるのですか」と言ったから、元徳秀は「これを許したのだから、約束を負わせるわけにはいかないさ。責任が問われれば私が罪に服そう。他の人には及ばせないさ」と答えたが、翌日、盗みを働いた者は虎の死体とともに帰ってきたから、県をあげてどよめいた。

  玄宗は東都にあって、五鳳楼下で宴会をし、三百里内の県令・刺史に命じてそれぞれ声楽を集めさせた。この時、帝は勝負して等級に分け、賞罰を加えると申し立てた。河内太守は優れた俳優を数百人引き連れ、錦繍を着せ、ある者は犀や象とし、光麗しいこと怪異であった。元徳秀はただ楽工が数十人で、袂を連ねて「于蔿于」を歌わせた。「于蔿于」というのは元徳秀が作った歌である。帝は聞いて素晴らしいと思い、感嘆して「賢人の言だな」と言い、宰相に向かって「河内の人の酷いものだな」と言ったから、そこで太守に罰せられ、元徳秀はますます名声が知られるようになった。

  得た奉禄は、すべて一族の孤児や遺族の衣食代にまわした。彼らが成長すると、箱に絹布を入れて、何の飾りもない車に乗って去った。陸渾の山水が素晴らしいのを愛し、そこに定住した。垣根や門や鍵がなく、家に従僕や妾がいなかった。飢饉の年には、何日か竈を炊かないことがあった。酒を嗜み、酒によって気持ちよくなっているところに琴を弾くのを自らの娯楽とした。人が酒と肴を持ってやってくると、賢いも卑しきも問わず共に酒盛りをして楽しんだ。この当時、程休邢宇・邢宇の弟の邢宙張茂之李萼・李萼の族子の李丹叔李惟岳喬潭楊拯房垂柳識は皆、元徳秀の門弟子と号した。元徳秀は文章をよくし、「蹇士賦」をつくって自らの心境を述べた。房琯が元徳秀を見るごとに、歎息して「紫芝の容貌を見るに、人の名利を求める心をすべて尽きさせるのだ」と述べ、蘇源明はいつも人に向かって「私は不幸にして衰退した俗世に生まれたが、恥としないところは、元紫芝と知り合えたことだ」と語っていた。

  天宝十三載(754)に卒し、家にはただ枕・履物・瓢箪があるだけであった。喬潭は当時陸渾県の尉であり、その葬儀を整えた。族弟の元結が慟哭し、ある者が「あなたが哭するのは哀しいことですが、礼に過ぎたことではないのですか」と尋ねた。元結は「あなたは礼を過ぎているのを知っているが、情の至るのを知らない。大夫(元徳秀)は幼い頃から固執するようなことはなく、壮年になっても専らすることはなく、老いても何か物を持つということはなく、死んで余すところはなかった。人々が耽溺して求めるような愛の喜びのような執着で、憎むべきようなことは大夫にはなかったのだ。生まれてから六十年間、女色を知らず、錦繍を見なかった。欲するところを求めて利を言ったり、間に合わせの言葉で彩ったりしなかった。今まで十畝の土地、十尺の家、十歳の従僕の主となったことはなかった。布切れを整えて着物をつくったり、五味を具えて食事したりはしなかった。私が哀しむのは荒淫・貪欲であったり、綺麗な衣服を着たり、美味い穀物や肉を貪る輩を戒めるためなのだ」と答えた。

  李華は元徳秀に兄のように仕えて、蕭穎士劉迅が友であった。卒すると、李華は文行先生と諡した。天下にその行実は高まり、名をいわず、「元魯山」と言った。李華はここに「三賢論」を作った。ある者が長所を尋ねた。李華は「元徳秀の志は道によって天下に記すべきもので、劉迅は六経によって人心をやわらげるべきもので、蕭穎士は中古の風によって今の世の中を変えるべきものである。元徳秀は愚か者も知恵者も同じくしようとし、劉迅は一物に感じてその正しいところを得られず、蕭穎士は軽々しく節を折って高禄を得て、一時の安易を変えないことである。孔子の門においては皆達観した者であった。元徳秀に師保の位におらせれば、姿を見ればその発言を聞かなくても真心が見えるだろう。劉迅に宰相の服を着させれば、天子の賓友にあって、治乱の根原を謀り、天地の精気に参り、そこでその妙を見るだろう。蕭穎士がもし百錬の剛のような将軍の地位にあれば、屈することがないだろうから、興廃の去就・一生一死の間に当たらさせれば、後に節義を見るだろう。元徳秀は上奏して王者のために楽を作って徳を崇め、天人の極致は、文章を称えないのが、これが無楽なのであり、ここに破陣楽の辞をつくって商・周を正すのである。劉迅は代々史官であり、礼・易・書・春秋・詩を古五説とし、源流の筋道をたて、古今の変事に備えるのである。蕭穎士は編年とせずに列伝としたことが最も欠点で、後世はこれによって、規範ではないとしたのである。春秋三伝の後、生きている人を教化するのでなければ記録しなかった。しかしそれぞれ欠点があり、元徳秀は酒、劉迅は賞物、蕭穎士は憎まれて左遷されることが度々であったり、推薦されて非常に重んじらることであった。もしその節を取るならば、全員人の師となるだろう」と述べ、世間は優れた評論であると言い合った。

  程休は、字は士美で、広平の人である。邢宇は、字は紹宗で、邢宙は、字は次宗で、河間の人である。張茂之は、字は季豊で、南陽の人である。李萼は、字は伯高で、李丹叔は、字は南誠で、李惟岳は、字は謨道で、趙の人である。喬潭は、字は源で、梁の人である。房垂は、字は翼明で、清河の人である。楊拯は、字は斉物で、隋の観王楊雄の後裔で、進士に推挙され、右驍衛騎曹参軍の官位で終わった。李萼は制科に選ばれ、南華県の県令に任命された。大洪水のため他県では飢饉となり、人々は互いに連なって南華県にやって来た。李萼はそのため粥を用意し、彼らが去るにあたって乾飯を送った。吏はそのため碑を立てて功徳を顕彰した。安禄山が叛乱を起こすと、李萼は清河に居候となり、清河のために平原太守の顔真卿に援軍を求め、そのため一郡は全うできた。廬州刺史に任じられた。楊拯と李萼の名が最も著名であった。喬潭・柳識は文を以て後に伝とした。


  権皐は、字は士繇で、秦州略陽の人である。潤州丹徒に移った。晋の安丘公の権翼の十二世の孫にあたる。父の権倕は席豫蘇源明とともに芸文によって互いを友とし、羽林軍参軍で終わった。

  権皐は進士に及第し、臨清県の尉となり、安禄山はその名を藉し、上表して薊県の尉とし、幕府に任じた。権皐はたびたび安禄山が叛こうとしており、その猜疑心と暴虐によって諫めるべきではなくそのもとを退こうとしたが、禍が親に及ぶことを思ってできなかった。天宝十四載(755)、捕虜を京師に献上し、帰路に福昌県の尉の仲謩のもとを通過した。仲謩の妻は権皐の妹であった。密約して病だと言って仲謩を招き、仲謩が来ると、権皐は表向き声を失って話せなくなったようにし、直ちに仲謩を見るや眼を閉じて死を偽装した。仲謩は哀しんだ振りをし、自ら埋葬した。権皐はただちに去ったから、人は知る者はいなかった。吏が詔書によって権皐の母を戻し、母は本当に死んだとも思って、慟哭して道行く人を感動させ、そのため安禄山も心配することなく、その母を帰した。権皐はひそかに淇門で待ち、母に昼夜侍って南に逃げ、臨淮に居候し、駅亭保となって北方を窺った。すでに長江を渡って安禄山が叛くと、天下にその名声が響き、争って部下にしようとする者が出た。高適が上表して大理評事・淮南採訪判官に任命した。

  永王李璘が挙兵すると、士大夫を脅したから、権皐は偽りの姓名を述べて免れた。玄宗は蜀でそのことを聞いて、監察御史に任命した。しかしたまたま母を喪い、中風での痺れの病となったから、洪州で居候となり、南北が不通となったから、年を越しても詔命が到着しなかった。宦官がいて州を通過すると、かなりの賄賂を求めて満足することがなかったから、南昌県令の王遘はどうにかしようと思い、権皐に謀った。権皐はしばらく答えず、泣いて、「どのような理由によって天子の使者を殺して、急にこの事態を収めようとするのですか」と言うと顔を覆って去った。王遘は悟るところがあって深く陳謝した。浙西節度使の顔真卿が上表して行軍司馬とし、召喚されて起居舎人を拝命したが固辞した。かつて「私は乱世にあって身をきよめ、私の志を全うしようとした。この官位を受けて名声を得たいと思うとでもいうのか」と言った。李季卿が江淮黜陟使となると、権皐の高行を並べ立てて著作郎召としたが、任に就かなかった。

  中原が乱れてから、士人を率いて長江を渡り、李華柳識韓洄王定が皆権皐の節度を仰ぎ、友となって親しかった。韓洄・王定は常に権皐を宰相・王師の器であると評価した。李華もまた天下の善悪を分かつのは権皐一人だけであると思った。卒し、年四十六歳であった、韓洄らは服喪して哭礼し、詔して秘書少監を贈られた。元和年間(806-820)、貞孝と諡した。子の権徳輿は宰相となり、別にがある。


  甄済は、字は孟成で、定州無極県の人である。叔父は幽州・涼州の二州の都督となり、衛州に住み、宗族は権力に屈せず人助けするのを誇りとした。甄済は若くして父を失い、一人学を好み、文章は常に称えられた。青巌山に住むこと十年あまり、遠きも近きもその仁義に服し、山をとりまいてあえて狩猟・漁業を行わなかった。採訪使の苗晋卿が上表して、諸府が五たび招き、詔が十度来たが、固く臥せて起きなかった。

  天宝十載(751)左拾遺の職をもって召還され、到着以前に安禄山が入朝し、甄済を玄宗に求め、范陽掌書記を授けた。安禄山は衛州にやって来て、太守の鄭遵意に山中に面会させたが、甄済はやむを得ず立ち上がり、安禄山は下って拝礼し、対等の礼を行った。節度使の中にあって、論議すれば正直であった。しばらくして安禄山が謀反しようとしていると察したが、諫めることができなかった。甄済はもとから衛県令の斉玘と親しく、そこで面会して帰り、詳細に至誠の心を示した。密かに羊の血を左右に置き、夜になって、血を吐いたように見せかけ、表向きは支えなしでは起き上がれず、担がれて前の家に帰った。安禄山が叛乱をおこすと、蔡希徳に刀を与えて召寄せ、「起き上がれなかったら、頭を斬って持って来い」と言った。甄済は顔色が変わらず、左手で「行くことができない」と書き、使者が刀を持って眼の前を走ると、甄済は頚を差し出して待ったから、蔡希徳は涙を流して嘆息し、刀を留め、実際に病気であると報告した。後に安慶緒は再び無理やり輿に載せて東都の安国観に連行した。たまたま広平王(後の代宗)が東都を平定すると、甄済は軍門の上に着て涙を流して謁し、広平王を感動させた。粛宗は詔して甄済を三司署に住まわせ、賊官に汚れた者たちを取り巻かせて礼拝させ、その心を恥じさせた。秘書郎を授けられたが、ある人が非常に冷遇していると述べたため、さらに太子舎人を拝命した。

  来瑱は陝西襄陽参謀に任命し、礼部員外郎を拝命した。宜城の楚の昭王廟に空き地が九十畝ほどあり、甄済は別荘をその左に建てた。来瑱が死ぬと、引き籠もること七年に及んだ。大暦年間(766-779)初頭、江西節度使の魏少游が上表して著作郎とし、侍御史を兼任したが、卒した。

  甄済は子がいて、その官字によって礼闈・憲台といった。礼闈は死んだが、憲台は、またの名を甄逢といい、幼くして父を失い、成長すると宜城の野を耕し、自力で読書し、州県に仕えなかった。飢饉の年、節約して親の郷里に給付した。豊作になると、その余剰を郷党の貧困者に分け与えた。友人に何か問題あれば、たちまち家から出て贖って完備させたから、義をもって有名となった。甄逢は常に父の名が国史にみえないから、京師に行きたいと言っていた。元和年間(806-820)、袁滋は上表して甄済の節行は権皐と同様のものであるから、国史に載せるべきであるとした。詔があって甄済に秘書少監を追贈された。甄逢は元稹と親しく、元稹が書簡を史館修撰の韓愈に送って、「甄済は安禄山を捨て去り、安禄山が叛乱を起こすと、名声を得た。また迫られてやって来ても、捕らえられても起たず、ついにその名を汚さなかった。人間の方向性を平常の状況のところで語り、操を仁徳の世の中で堅くするのは、それでもなお柔弱・臆病者のできないところであって、思うに人を憂うという心は難しく、自分を害しようとする者からは避けようとするのである。天下が大乱となると、忠義に死ぬ者は必ずしも名が顕れず、乱に従う者は必ずしも誅されず、しかし国を愛して捨てられないからといって白刃を甘んじて受けるということは難しいことなのだ。甄先生のように、賊の弁冕をその身に着用せず、食禄を受けてその口に入れなかったのは、ただ民間の一男子だけだったのだ。乱がおこると頚を差し出して刃を受け、死を前にしても屈せず、必ずしも名が顕れないというのに忠義をやめず、必ずしも誅殺されないというのに乱に従わなかった。思うに古今にあってこのような人は百人に一人だろう」と述べた。韓愈は答えた。「甄逢はよく身に行ないがあり、地方の大臣の厚遇を得ながら、その亡父を顕彰しようとしました。これを天下の耳目に載せ、これを天子まで届かせ、その父に第四品の位を追爵させ、人を明らかに驚かせたから、甄逢はその父とともに国史に書かれることができたのです」と延べ、これによって父子はともに名声を得たのである。


  陽城は、字は亢宗で、定州北平の人であり、陝州夏県に遷り、代々官人となった。性格は学を好み、貧しいため書物を得られなかったが、自ら求めて下級役人となって集賢院の雑務を行ない、密かに集賢院の書物を読み、昼夜戸から出ず、六年にして理解的ないものはなかった。進士に及第すると、去って中条山に隠遁し、弟の陽堦・陽域とともに常に衣服を着替えて出かけた。いい年になっても結婚しようとせず、弟に「私はお前たちと頼る者がない中、互いに生活し合った。結婚したら間に外姓の人が入ることになり、一緒に生活したとしてもますます疎遠になってしまう。私には耐え難い」と言ったから、弟は義であるとして、また結婚せず、ついに独り身のままであった。

  陽城は謙恭かつ簡素で、人に会えば年長であっても幼くても同じように接した。遠きも近きものその行ないを慕い、やって来て学ぶ者は次々と道に連なった。村里で訴訟があると、官に相談せずに陽城のもとに来て決した。陽城の樹を盗んだ者がおり、陽城と会うと盗んだことを恥であると思い、退いて隠遁してしまった。かつて食料が絶えてしまい、奴婢に米を買いに行かせたが、奴婢は米を酒に変えてしまい、酩酊して道端に寝てしまった。陽城は帰ってこないのを怪しみ、弟とともに迎えに行き、奴婢は寝たままで、そこで背負って帰った。目覚めると、ひたすらに謝ったが、陽城は「寒かったから飲んだのだろう。どうして責めようか」と言った。寡婦となった妹が陽城に養われて生活していたが、その子は四十歳ばかりで、おろかで人を知らず、陽城は常に背負って出入りしていた。それより以前、妹の夫が遠方で客死し、陽城は弟とともに千里もの道を行き、その柩を背負って帰り埋葬した。飢饉の年、あとを潜めて隣里を通過せず、楡の木の屑を粥として、講義を止めなかった。奴婢には全員子がおり、陽城の徳に教化され、また助けようと自分で自分自身と約束した。ある者はその飢えた様子を悲しみ、陽城に食事を与えたが、受けなかった。後に粗悪な食事を数杯出すと、これは受け入れて食べた。山東節度府は陽城の仁義の様を聞いて、使者を派遣して絹五百縑を送ることとし、使者には返却を受け付けないよう申し聞かせた。陽城は固辞したが、使者はそのまま委ねて去り、陽城はこれを置いたままで開けたこともなかった。たまたま里人の鄭俶が親の葬儀をしようとしたが、葬儀代を人に借りようとしたが得られず、陽城はそのことを知って、絹をすべて与えた。鄭俶は葬儀が終わると戻ってきて「君子の施しを蒙りましたが、願わくば私を奴婢にして徳を償わせてください」と言ったが、陽城は「私の子ではないというのなら、私と同じく学問をできるか」と言ったから、鄭俶は泣いて謝し、そこで教えるのに書物によったが、鄭俶は学業が進まず、陽城はさらに遠地に移って、付きっきりで勉強させたが、学業は最初のままであったから、恥じて、首を縊って死んだ。陽城は驚きかつ悲しみ、強く自分を責め、喪服を着用して埋葬した。

  陝虢観察使の李泌はしばしば礼をつくして迎えたから、陽城はこれを受けた。李泌は観察府の下僚にしたいと思ったが、就かなかったため、そこで朝廷に推薦し、詔によって著作佐郎に任命されて召還され、緋魚を賜った。李泌は参軍事の韓傑に詔を奉ってその家に向かわせ、陽城は詔を封還し、自ら「病多く老いて疲れやすく、国事を奉って奔走することができません。憐れんでください」と言い、李泌は無理強いしなかった。李泌が宰相になると、またこの事を徳宗に申し上げ、ここに召還されて右諌議大夫を拝命し、長安県の尉の楊寧を派遣して束帛をその家にもたらした。陽城は褐色の衣のまま宮中に到着して謙遜の意を示したが、帝は宦官を派遣して緋色の衣を持ってこさせて着替えさせ、召見し、帛五十匹を賜った。

  それより以前、陽城がまだ仕官していない時、搢紳たちは風采を想像した。すでに草茅をつくり、諌諍の官に任命されたのだから、士としてまさに職に殉じて死ぬだろうと思ったから、天下はますます憚った。任命されると、他の諌官は事を論じて細部にわたって厳しく申し立て合って入り乱れたから、帝は嫌がったが、陽城は次第に得失を聞かせて何をするでもなく、まだ答えもしなかった。韓愈は「争臣論」をつくって諌めたが、陽城は意に介さなかった。二人の弟とともに賓客をもてなし、日夜痛飲した。客で諌止しようとする者がいると、陽城はその情を推し量って、無理やり客に飲ませ、客が去り際の挨拶をすると、自ら酒をなみなみと注いだから、客はやむを得ず付き合うはめになり、ある者は酔って席上で倒れ、陽城はある時は先に酔って客の懐中で倒れたから、客が話すのを聞くことができず、陳述を聞くことはなかった。常に木の枕・布の夜着・質銭であったから、人はその賢者ぶりを重んじ、競ってこれを売った。ことあるごとに二人の弟と約束して、「私に給料が入ったら、月に食べる米をいくばくかと、薪・野菜・塩とわずかな銭を勘定して、まずはこれを具えて、他は酒屋に送って、留めてはならない」と言い、衣服も必要以外に用意しておくものはなく、客はある物の良さを褒め称えると、すぐに喜んで、すべて授けてしまった。陳萇なる者がいて、陽城が毎月給料を得るとやって来て、常に銭の良さを褒めたから、毎月銭を得ていた。人々はその人間の器を窺うことができなかった。

  裴延齢が誣告して陸贄張滂李充を追うと、帝は怒りが甚だしく、あえて誰も言う者はいなかったが、陽城はこれを聞いて「私は諌官である。天子に無罪の大臣を殺させることはできない」と言い、そこで拾遺の王仲舒と取り決めして延英閤を守って上疏して極めて裴延齢の罪を論じ、不正を怒り嘆いて正しい道筋を引き、陸贄らをとりなして申しあげることを連日止めなかった。聞く者は恐れおののいたが、陽城はいよいよ励んだ。帝は大いに怒り、宰相を召して陽城がどの罪にあたるか尋ねた。順宗は皇太子であったが、陽城を救おうと申し上げたから、しばらくして赦免され、宰相に勅して説諭の者を派遣した。しかし帝の思いは変わらず、遂に裴延齢を宰相にしたいと思った。陽城は言葉を発して「裴延齢が宰相となるのでしたら、私は宰相任命書で用いる白麻を奪って破り捨て、朝廷で哭泣するでしょう」と言ったから、帝は裴延齢を宰相にしなかったがこれは陽城の力であった。これを罪とされて国子司業に左遷された。門弟に「学者というものが学問をする理由は、忠を行ない孝を共にするからである。諸君はしばらく親を顧みていない者はいないか」と述べ、翌日、陽城に見えて親を養うために帰った者は二十人ばかり、三年間帰らず親に侍っていない者は斥けた。孝行に秀でて徳行がある者を選んで朝廷の役職に登らせ、酒に溺れて教え導けない者は全員辞めさせた。自ら経籍を講義し、生徒は教えられたことを見抜いて、全員に秩序があった。

  薛約なる者がいて、狂ったように騒がしかったが直情であり、失言により罪を得て、連州に流謫されることとなった。役人が追跡すると、陽城の家で捕らえた。陽城は役人を門に待たせ、薛約を引き連れて別離の宴をし、宴が終わると歩いて都の外に一緒に到り、そこで別れた。帝は陽城の郎党が有罪であったことを憎み、京師から出して道州刺史としたが、太学の諸生の何蕃季償王魯卿・李讜ら二百人が宮殿下で頓首し、陽城を留任することを願った。柳宗元はこれを聞いて、何蕃らに書簡を送って、「詔によって陽城公が道州に出されるということ、僕は聞いて心配です。幸いにも政治は清明の時代に生まれ、大局を論述することができず、侍者まで聞こし召させたところで、また陽城公を南に戻らせてしまいます。今、諸生は陽城公の徳を慕い、懇切忠誠で留めるよう願い出たことは、たちまち拍手して喜びは甚だしいところです。昔、後漢の李膺や曹魏の嵇康の時、太学の生徒は宮中に向かって訴えましたが、僕は千百年になろうとまた見ることはできないと思っていましたが、今日になって、実に諸生が見させてくれたところは非常に厚く、また陽城公が感化教導してこのようになったのでしょうか。ああ、公は真心があって度量が広く、あわせて善いも偽りも受け入れ、来る者は拒みません。小生を狂乱させ、門下を委託し、文を飛ばして愚心を述べました。論じる者は、陽城公が汚れを受けても避けないことを罪とし、無人師の道ではないと思っています。仲尼の党はいちずに理想に走り、自分の意思をまげず、南郭恵子に謗られました。曾参の門徒は七十二人もいましたが、負芻の戦乱では禍いとなりました。孟軻は斉に招かれましたが、従者はわら靴を盗んだ嫌疑をかけられました。彼の聖賢でもなお免れることはできず、それだけではなくどうして人を拒めましょうか。黄帝の医師である兪附や、春秋の医師である扁鵲は病人を拒みません。建築の現場では曲がった建材を拒みません。儒教の師席では道士であっても拒みません。また陽公は朝廷にあって、四方はその風を聞いて、利益に貪欲で邪悪軽薄の者はその志を阻もうとし、官職の長の位にあったとしても、人は実に仰ぎ慕うのです。教化を一州に与えれば、その功績は遠きも近きもはかるべきでしょうか。諸生の言は、一人己のためではなく、国のためであることは非常によいことなのです」と述べた。何蕃らは宮殿下で守ること数日、役人に遮られてお上に申し上げることができなかった。行くことになると、皆涙を流し、徳を記錄した石碑を建てた。

  道州に到着すると、民を治めることは家のようにし、罰すべきは罰し、賞すべきは賞し、帳簿上の書面を意に介さなかった。月給は自分の生活に必要な分だけ取って、その残りは官に収めた。毎日米を二斛炊き、魚を一つの大釜に入れ、甕と柄杓を道の上に置き、人々と一緒に食事した。道州には侏儒(こびと)がいて、毎年朝廷に貢ぎ物として献上されており、陽城は彼らが生き別れになるのを悲しみ、献上しなかった。帝は侏儒を求めさせたが、陽城は奏上して、「道州の民は全員身長が低く、もし貢納するのならば、誰を供すべきかわからなくなります」と言い、これによって侏儒の貢納は廃止された。道州の人々は感動して、「陽」を子どもに名付ける者が多かった。前の刺史が罪によって獄に下されると、役人で刺史に厚遇された者がいたが、前の刺史の不法を陽城に密告して自分は罪から逃れようとしたが、陽城はすぐさま杖殺してしまった。賦税が例年通りではなく、観察使がしばしば責め咎めた。道州は官のの考課は上にあたったが、陽城は自ら書簡を送って「民の心労を撫育し、徴税基準のために無理やり政務を行うことは、考課は下の下です」と述べた。しかし観察府はさらに判官を派遣して賦税を督促しようとし、判官は道州に到着したが、陽城が出迎えないのを不思議に思い、役人に尋ねた。役人は「刺史は有罪であると思われ、自ら獄に入っています」と答えたから、判官は驚き、あわてて獄に入り、陽城と面会して「あなたは何の罪にあたるのですか。私は命令によって来たのであって安否を尋ねるだけです」と言い、数日留まったが、陽城はあえて帰ることはなく、門戸を倒して、館外に寝て命を待った。判官はしばらくして去っていった。観察府はまた官吏を派遣してやって来て調査したが、官吏は義のため行きたくはなく、そこで妻子を載せて道の途中で逃げ去ってしまった。順宗が即位すると、陽城を召還したが、陽城はすでに卒していた。年七十歳。左散騎常侍を追贈され、その家に銭二十万を賜い、官に柩を護送させて郷里に帰らせて葬った。

  何蕃は、和州の人である。父母に仕えて孝行であった。太学に学んで、毎年一度帰ろうとしたが、父母は許さなかった。暇な時をみつけて二年目で帰ったが、また許されなかった。約五年して親がさらに老いたのを嘆き憂い、不安となり、太学の諸生たちに挨拶して去ろうとしたから、諸生たちはそこで一緒に何蕃を空き家の中に閉じ込め、大勢で共に何蕃の義行について、陽城に申し上げて留めるよう願った。たまたま陽城が罷免されたから、このことは止んだ。それより以前、朱泚が叛乱すると、諸生たちも叛乱に従おうとしたが、何蕃は色を正して叱責して許さず、そのため六館の士は不忠の汚れを受ける者はいなかった。何蕃は太学にあること二十年、喪によって帰る者はいなかったのが、全員が喪に服して帰るようになった。季償は魯の人である。王魯卿は進士に及第し、名声があった。


  司空図は、字は表聖で、河中虞郷の人である。父の司空輿は風采があった。大中年間(847-860)に盧弘止が塩鉄を管理すると、上表して安邑両池榷塩使となった。これより以前、法は疎かとなり、官吏は軽々しく禁を犯していた。司空輿は新法を約数十条を立てたから、万事うまくいった。労によって戸部郎中に移った。

  司空図は、咸通年間(860-872)末に進士に及第し、礼部侍郎の王凝は特に高く評価しており、王凝が法に触れて商州に左遷された際に、司空図は自分を評価してくれたことに感じ入り、左遷地に行動と共にした。王凝が宣歙観察使になると、そこで招かれて幕府に置かれた。召喚されて殿中侍御史となったが、王凝の幕府を去るのに忍びずにいるうちに御史台に弾劾され、光禄寺主簿に左遷され、東都に分司した。盧攜が元宰相であるため洛陽に勤務することになると、司空図の節義を喜んで、常に共に遊んだ。盧攜が朝廷に戻ることになると、陝州・虢州を通過し、観察使の盧渥に委ねて、「司空図御史は高潔の士である」と言い、盧渥はそこで上表して自身の幕僚として補佐にした。たまたま盧攜が宰相に復帰すると、召喚されて礼部員外郎となり、ついで郎中に遷った。

  黄巣が長安を陥落させると逃げようとしたが、間に合わなかった。司空図の弟の奴婢に段章なる者がいて賊の手に陥ったが、司空図の手をとって「私は張将軍(張直方)を主としていますが、喜んで士が投降しています。行って謁見すべきです。そうすれば虚しく溝の中で死ぬこともないでしょう」と言ったが、司空図は承諾せず、段章は泣いて引き下がった。遂に咸陽に逃れ、関所を突破して河中に到った。僖宗が鳳翔に行幸すると、ただちに行在に赴いて知制誥を拝命し、中書舎人に遷った。後に宝鶏に行かれたときは従うことができず、また河中に戻った。龍紀年間初頭(889)、また旧官に復したが、病気によって解任された。景福年間(892-893)、諌議大夫を拝命したが赴任しなかった。後に再び戸部侍郎となって召喚され、一度朝廷に謝意を申し上げ、数日して引き去った。昭宗が華州にいた時、召されて兵部侍郎を拝命したが、足の病によって固辞した。当時洛陽に遷都すると、柳璨が賊臣(朱全忠)の意によって、天下で才望がある者を誅殺して王室の滅亡を助けようとしていた。司空図に詔して入朝させたが、司空図はわざと笏を落として、粗野で耄碌した様子をみせた。柳璨は思い通りにできないことを知ると、そこで帰還を許した。

  司空図は本拠地が中条山の王官谷にあり、先祖代々の田があり、遂に隠棲して出てこなくなった。漆喰で塗られた亭観をつくり、ことごとく唐の節士・文人を描き、亭を名付けて休休亭とし、文をつくって志を示した。「休は美である。官を休めるとそこに美があるわけである。だからわが才能のほどを考えてみれば、休むべき第一の理由がある。自分に与えられた運命に思いを致せば、休むべき第二の理由がある。老いぼれて耳が遠くなったこと、休むべき第三の理由である。また若い頃はぐうたら、大人になってからも気まま、年をとってからはのろまときて、この三つはどれをとっても時代を救うお役にはたちえぬものばかり、さればそこにも休むべき理由がある」そこで自ら耐辱居士と称した。その常軌を逸した放言ぶいで、その時の災難を免れたのであるという。前もって自分の墓と葬式の準備を整えておき、知り合いが訪ねてくると墓穴の中に案内して詩をつくり酒を酌み交わした。相手が難しい顔をすると司空図は「君は何と了見の狭い人なのか。生死は究極一つのものであって、私はむしろしばらくこの中で遊んでいるに過ぎないのだ」と言った。年ごとに村の祠のお祭りで歌舞があると、司空図は村の老人とともに楽んだ。王重栄父子は常に重じて、しばしば贈り物をしたが受け取ったことはなかった。かつて王重栄のために碑文をつくり、絹数千を贈られたが、司空図は虞郷県の市場に置き、人がこれを取らせるようにしてやり、一日でなくなった。当時盗賊が通過すると暴虐を働いたが、ただ王官谷だけは入らず、士人はそのため王官谷に避難した。

  朱全忠が簒奪してしまうと、召されて礼部尚書となったが応じなかった。哀帝が弑殺されたことを司空図が聞くと、絶食して卒した。年七十二歳。司空図には子がなく、甥が後嗣となった。かつて御史にそのことを弾劾されたが、昭宗は不問とした。


  賛にいわく、節義は天下の基本的原則であり、士は勉めなければならないことであった。権皐甄済は賊に汚されず、忠義によって自身を完うしたが、乱臣は阻もうと計略を練った。天下の士は所在を分かち、そのため朝廷が傾いても支えて復活させようとした。君子でなければ果たして国を保つことができようか。元徳秀は徳によって、陽城は剛性峻厳さによって、司空図は天命を知るから、その志は心がひきしまって秋霜のように厳しさを争うのが真の男なのである。

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最終更新:2024年05月28日 09:53
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