源乾曜

源乾曜 げんかんよう

?-731
盛唐の宰相(在任716、720-729)。相州・臨漳(河南省安陽市付近)の人。先祖は拓跋族の出身で、北魏いらい高官であった。父源直心は唐の高宗朝の司刑太常伯。源乾曜は進士にあげられ、中宗の神竜年間(705-707)殿中侍御史として江南方面の治績を評定した。その後、諌議大夫にすすみ、古礼尊重の立場から、久しく廃されていた公卿百官の射礼復活を建言した。713年姜皎の推薦で、少府少監兼邪王府長史となり、716年には黄門侍郎・同紫微黄門(中書門下)平章事にすすんだ。玄宗の洛陽行幸には、長安の留守役をつとめた。720年黄門侍郎・同中書門下三品となり、以後約10年間, 宰相の任に当たったが、門閥派と非門閥派との対立を底流とする当時の政争のなかで、源乾曜は前者に属しながら も、つねに消極的態度で身を保ち、恩のある姜皎の失脚を見殺しにしたので、世の非難をうけた。

参考文献

『アジア歴史事典』3(平凡社,1960)

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最終更新:2024年12月31日 14:57
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