高宗

李治

628-683
唐、第三代の皇帝(在位649-683)。姓名は李治。字は為善(小字は雉奴)。廟号は高宗。諡は天皇大聖大弘孝皇帝(はじめ天皇大聖皇帝)。太宗の第九子。母は長孫无忌の妹の文徳長孫皇后。4才のとき晋王に封ぜられた。太宗の14子のうち、長子李承乾、第4子李泰(『括地志』の撰者)は李治(高宗)と同じく文徳皇后の所生、第三子李恪の母は楊妃(隋の煬帝の娘)であった。太宗の即位とともに皇太子にたてられた李承乾は、643(貞観十七)年むほんを企てて廃され、太宗は順序として李泰を皇太子にしようとしたが、長孫无忌が褚遂良と結んで反対し、李治の立太子を勧めた。太宗は李治の暗弱を憂えて人望ある李恪をたてようとしたが、また長孫无忌が強く反対し、ついに李治が皇太子となり、649(貞観二十三)年太宗の死によって即位した。長孫无忌がこのように高宗の擁立を固執したのは、英明な李泰や李恪を除き、その妹の所生であり、しかも暗弱である帝を利用して外戚としての権力を強化しようとしたためであると考えられる。高宗治世の初期は、外戚の長孫无忌が褚遂良らの貴族官僚と結んで政治の局に当たり、太宗の貞観の治ののちをうけて国威をはったが、高宗が太宗の後宮に仕えた才人武氏(武則天)をいれて昭儀とするにおよび、武氏は巧みに高宗をあやつり、選挙出身官僚や反長孫无忌官僚と結んで地盤を固め、655(永徽六)年王皇后蕭淑妃を廃して皇后となることに成功し、657(顕慶二)年褚遂良を左遷し、659(顕慶四)年には長孫无忌を殺して貴族官僚、外戚勢力に大打撃を与え、これより唐の平和がしだいにくずれるにいたった。660年高宗は風眩(癲癇)を病んで武氏が万機を決裁し、これを不満として武氏を廃そうとしたが失敗し、これ以後武氏の権力は高宗をしのぎ、674(上元元)年には高宗を天皇、武氏を天后とし、高宗は全くのかいらい天子となった。なお高宗には8男3女あり、中宗睿宗・章懐太子李賢(『後漢書』の注をつくる)および中宗の皇后韋氏打倒に活躍した太平公主はいずれも武后の所生である。陵名は乾陵。陵前に並べられた当時来朝の諸蛮の酋長の石像60余の一部がいまも存している。

年号

永徽 650-655
顕慶 656-661
龍朔 661-663
麟徳 664-665
乾封 666-668
総章 668-670
咸亨 670-674
上元 674-676
儀鳳 676-679
調露 679-680
永隆 680-681
開耀 682-682
永淳 682-683
弘道 683

后妃

王皇后
則天大聖皇后
蕭淑妃
鄭氏
徐婕妤
劉宮人
楊宮人

子女



宰相

長孫无忌 645-659
李勣 649-669
褚遂良 648-650、652-655
張行成 649-653
高季輔 649-653
于志寧 649-659
宇文節 651-654
柳奭 651-654
韓瑗 652-657
来済 652-657
崔敦礼 653-656
李義府 655-658、659-663
杜正倫 656-658
許敬宗 657-670
辛茂将 658-659
許圉師 659-662
任雅相 659-662
盧承慶 659-660
上官儀 662-664
劉祥道 664
竇徳玄 664-666
楽彦瑋 664-665
孫処約 664-665
姜恪 665-672
陸敦信 665-666
劉仁軌 665-670、672-685
楊弘武 667-668
戴至徳 667-679
李安期 667
趙仁本 667-670
張文瓘 667-678
閻立本 668-673
李敬玄 669-680
郝処俊 669-681
来恒 676-678
薛元超 676-683
李義琰 676-683
高智周 676-679
張大安 677-680
王徳真 680
裴炎 680-684
崔知温 680-683
郭待挙 682-684
岑長倩 682-691
郭正一 682-683
魏玄同 682-689
劉斉賢 682-684

本紀

『旧唐書』巻四 紀第四
『旧唐書』巻五 紀第五
『新唐書』巻三 本紀第三

参考文献

『アジア歴史事典』3(平凡社、1960)

外部リンク

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2025年02月03日 19:54
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。