李隆基
685-762
唐、第8代の皇帝(在位712-756)。姓名は李隆基。廟号は玄宗。諡は至道大聖大明孝皇帝。
睿宗の第3子。母は
昭成竇皇后。685(垂拱元)年8月5日洛陽に誕生。687年楚王に、693(長寿2)年臨淄王に封ぜられた。710(唐隆元)年6月、
中宗の皇后
韋皇后がその娘
安楽公主とはかって中宗を毒殺、温王李重茂(
殤帝、中宗の第4子)を即位させ、
武則天の故事にならって唐室を奪い、じゃまな相王(睿宗)や
太平公主(高宗の娘、母は則天武后)を除こうとしたので、当時ひそかに勇士を集めていた隆基は、兵をあげて韋皇后、安楽公主およびその一党を倒し、こうして睿宗が復位して、隆基が皇太子にたてられた。この睿宗の復位に力があったのは太平公主で、これより太平公主と隆基とが激しく対立したが、712(先天元)年父に譲られて即位した隆基(玄宗)は、翌年太平公主およびその一派を殺した。時に唐は各方面に欠陥が現われてきたが、28才で即位した玄宗は、革新の意気にもえ、同年12月先天の年号を開元に改め、官制を改革して気分を一新し、翌年奢侈ぜいたくの禁止を令して偽濫僧、冗官を整理し、721(開元9)年
宇文融に括戸を命じて逃戸や土地兼併問題の処理に当たらせ、733(開元21)年地方制度を改めて、天下を15道(従来は10道)に分け、さらに崩壊しつつあった徴兵制の府兵制度に代わって募兵制を採用し、辺境に10節度使を列置して国境を防備した。ことに玄宗の開元(713-741)初期の政治は、臨淄王時代の玄宗を助けた
姚崇・
宋璟ら老成の賢臣が宰相に任用され、極力外征 をおさえて、農民生活の安定につとめたので、戸ロが増加して産業も大いに発展し、国都長安は繁栄の光につつまれ、玄宗の誕生日の8月5日は、千秋節といってはなやかな儀式や宴会が催され、こうして年号によって「開元の治」とよばれる盛世を現出した。しかし久しい在位の間に、玄宗はしだいに政治を怠り、736 (開元24)年
李林甫の讒言によ って名相
張九齢をやめさせ、李林甫がこれに代わってから政治が大いに乱れた。しかも玄宗は生来の色好みで、
武恵妃(貞順武皇后)をえて糟糠の妻
皇后王氏を廃し、妃の没後, その子寿王
李瑁の妃の美しさに心迷い、その妃を離縁させて宮中にいれた。これが
楊貴妃で、ときに745(天宝4)年、玄宗61才、楊貴妃26才、これより玄宗は李林甫・
楊国忠・
安禄山らを信任して政治を顧みず、日夜宴遊にふけった。玄宗が楊貴妃に溺れて遊びたわむれた様子は、陳鴻の『長恨歌伝』、
白居易の「長恨歌」によく描かれており、後世それを戯曲としたものに、元の白仁甫の「梧桐雨」、清の洪昇の「長生殿」があり、また唐末五代の王仁裕の『開元天宝遺事』は、玄宗時代の宮廷を中心とする当時のはなやかな社会のありさまを伝えたものとして名高い。しかし玄宗時代の繁栄・栄華は、宮廷およびそれをとりまく貴族らを中心としたもので、その裏には飢えに泣く窮乏農民が増大し、また一方には、募兵制の採用によって地方節度使が勢力をつよめ、社会転換の気運が強く醸成されていった。唐では貴族官僚と選挙出身の新興地主官僚との対立があり、貴族出身の李林甫は、その勢力の維持に節度使を利用し、しかも節度使が中央政界に力をうるのを恐れ、多く外民族の出身者を節度使とした。こうして現われたのが平廬・范陽・河東の3節度使を兼ねるソグド系の安禄山で、彼は李林甫の死後、楊国忠が彼に妨害して宰相となったので、755(天宝14)年国忠を除くのを名として范陽(北京方面)に挙兵した。この乱は安史の乱とよばれる大乱に発展し、玄宗は蜀(四川省)にのがれ、楊貴妃はその途中で護衛の将士に殺され、756年
粛宗が玄宗に代わって即位した。上皇となった玄宗は翌757(至徳2)年長安の
興慶宮にかえり、758(乾元元)年太上至道聖皇帝の尊号をたてまつられ、760(乾元3、上元元)年西内の
甘露殿に移り、宦官
李輔国の離間などがあって、粛宗との関係が円満を欠き、762(宝応1)年4月悶々のうちに世を去った。陵名は泰陵(陝西省蒲城県北東金栗山)。
年号
先天 712-713
開元 713-741
天宝 742-756
后妃
子女
宰相
本紀
『旧唐書』巻八 紀第八
『旧唐書』巻九 紀第九
『新唐書』
巻五 本紀第五
参考文献
『アジア歴史事典』3(平凡社,1960)
外部リンク
最終更新:2024年12月31日 14:50