董重質 とうじゅうしつ
?-834
中唐の武将・藩鎮。もとは淮西節度使
呉少誠の部将で娘婿。
呉元済が唐に背くと、智謀によってたすけ、洄曲を守備し、唐軍を退けた。元和十二年(817)宰相の
裴度が郾城に兵を進めると防衛したが、その隙をついて
李愬が蔡を攻撃して呉元済を捕虜とし、董重質も大勢が決したことを知って李愬に降伏した。董重質が呉元済の参謀であり、しばしば官軍を破ったから、憲宗は殺そうとしたが、李愬の執り成しによって一命をとりとめ、春州司戸参軍に貶された。元和十五年(820)左神武将軍となり、知軍事兼御史中丞に任じられ、塩州刺史となった。また左右神策及諸道剣南西川行営節度使、検校左散騎常侍に任じられた。大和四年(830)夏綏銀宥節度使となり、翌年加檢校工部尚書となった。『旧唐書』に伝がある。
列伝
『旧唐書』巻一百六十一 列伝第一百一十一 董重質
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最終更新:2024年05月13日 09:06