呉少誠 ごしょうせい
?-809
中唐の武将・藩鎮(第8代淮西節度使)。幽州潞県の人。父は魏博節度使の都虞候の呉翔。荊南節度使の
庾準に仕えて衙門将となり、庾準に従って入朝する途上に
梁崇義の謀反を予知し、淮西節度使の
李希烈に献策して重用され、李希烈が叛くと仕えて力を尽くした。李希烈が殺害されて
陳仙奇が淮西節度使となると、貞元二年(786)陳仙奇を殺して軍権を掌握。朝廷より申・蔡・光等州節度観察留後を授けられ、さらに淮西節度使となった。反唐姿勢を露骨に示し、陳許節度使
曲環が死ぬと軍を動かして同地の占領を目論んだから、朝廷より十六道の討伐連合軍を組織されて討伐されたが、宦官が監軍となって統制のとれていない朝廷軍をたびたび撃破し、朝廷は遂に呉少誠を許さざるを得なかった。元和四年(809)死ぬと
呉少陽が継承した。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
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最終更新:2025年07月30日 08:16