趙暉 ちょうき
?-888
晩唐の武将。
高駢の部将。光啓三年(887)蘇州刺史
張雄の部将。張雄に派遣されて上元を占領した。同年五月、
秦彦が宣歙の兵三万を率いいて江を下ると、上元で迎撃して大勝し、殺害・溺死が秦彦軍の半分になろうという損害を与えた。さらに
周宝の敗残兵を吸収して数万の勢力となり、驕大となり、南朝の台城を居城とした。東塘の張雄と不通となり、その軍を遮ったから、張雄は怒って上元を攻撃して陥落させた。趙暉は当塗に向かって逃走したが、部下に殺され、他の軍は投降したものの、張雄に全員穴埋めにして殺害された。
史料
『資治通鑑』巻第二百五十七 唐紀七十三 僖宗下之下 光啓三年四月条、同年五月甲午条、同年十一月戊午条
最終更新:2024年05月19日 18:09