高駢
821-887
唐末の名将・藩鎮。幽州(北京)の人。字は千里。
高崇文の孫。禁軍の家に生まれ、右神策都虞候となり、党項討伐の功により泰州刺史兼防禦使となる。864年安南都護となり、南詔を討って交州の郡邑を収穫し、静海軍がおかれると、その節帥となり、安南城を築き交州・広州間の水路を開いて貯蔵を充実させた。これにより天平軍節度使にうつされ、さらに西川節度使に転じて、四川に侵入した南詔を撃退し、成都の城を修築して寇を絶ったが、刑がひどくて蜀人に恨まれた。次いで荊南節度使兼塩鉄転運使、つづいて鎮海軍節度となり、黄巣を討って嶺南に追放した。揚州進行営都統となった。揚州の城を完修し、土客の諸兵7万を擁して威望大いにふるったが、朝廷への貢賦を絶った。妖術を信じ奢侈をきわめ
呂用之らの術者の専権を招き、政治は全く乱れた。
畢師鐸は宣州の
秦彦をよんで節帥となし、覇権を握ろうとし、高駢を捕らえて幽閉したが、
楊行密の重囲を受け、内応を恐れた秦彦らは高駢を城内で殺した。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
参考文献
外部リンク
最終更新:2023年03月01日 13:57